5月2日◆6
館長室までの道のりを、無言で歩く。
セキュリティ・ルームを出てから、了には話しかけ辛い雰囲気が漂っていたから、ユリは話しかけるのに戸惑っていた。
だが、菅野の事で気になる事もまだある。
館長室に戻る前に、少し話がしたかった。
というより、話の内容はどうでもいいのだ。
ただ、言葉を交わしたかった。
「今朝ね…。」
思い切って切り出すと、了が意外にすんなり、何気ない声で「ん?」と答え、振り向いた。
歩みの速度も、少し遅くなる。
ユリは拍子抜けして、続けた。
「館長が変だった。」
「ヘン?」
了が怪訝な顔をする。
「うん。
北代さんが蕪木さんの事探してて、叔父さんが調査に進展があったから職場に行ってるって答えたの。
そしたら、館長、急に顔色変えて、その事気に出して。
こっちの事件じゃないって叔父さんが説明したら、なんだかほっとしたみたいに…。」
そこまで言うと、急に了が止まった。
勢い余って追い越してしまったユリが、慌てて止まって振り向くと、了は顎に手を当て、壁を睨みつけていた。
「どしたの?」
ユリが了の顔を覗き込んで訊ねるが、了は黙ったままだ。
「…。」
「ねぇ?」
さっきより少し強めに訊ねると、了は「…いや…」とだけ言って、ユリを置いて歩いていってしまった。
「あ、ちょっと…。
何よ…、ヘンなの…。」
唖然としていると、了との距離はあっという間に離れてしまい、気付いた時には了は曲がり角を曲がってしまっていて、見失っていた。
走って追いかける事も躊躇われ、行き先は同じだから、と、ユリは歩いて館長室へ向かった。
暫くして、人気のない職員通路に出、すぐに館長室に着く。
「ただいまー。」
部屋に着くと、匠と菅野が出迎えた。
「おかえり。」
「おかえりなさい。」
しかし、了の姿がない。
「あれ?
あいつ、戻ってないの?」
ユリがキョロキョロと室内を見回した。
「蕪木クンなら、用があるからって職場に戻ったよ。
なんだか慌ててたなぁ…。」
匠が答えた。
「ふぅん…。」
さっき考え事をしていた事と、何か関係があるのだろうか。
ユリはそう思いながら、室内の時計を見上げた。
いつの間にか、昼を越し、そろそろ一五時半になるところだった。
「ユリ、僕はちょっと用が出来たので美術館を出るけど、ユリはどうする?」
匠に問われ、ユリが少し考える。
帰ってもいいのだが、何故か残っていたい気分だった。
予感、という程ではないが、もう少し館内を見て回りたい衝動に駆られたのだ。
「もうちょっとここにいるわ。」
答えると、匠が頷いた。
「そうか。
遅くならないようにするんだよ。」
「はーい。」
ユリの返事を聞いてから、匠が菅野を見た。
「館長さんは、今日これからどうされるんですか?」
菅野は、匠とユリの会話の最中、机の上の書類をまとめて、鞄に入れていた。
「私も、これから会議があるので、もうすぐここを離れます。
と言っても、隣のフォーラムにいるので、用が済んだら戻ってくるかも知れませんが。」
そう言って、笑った。
「あ、じゃあ、私ここに残ってるの、まずいですか?」
ユリが慌てると、菅野はさらににこりと笑った。
「いえいえ。
工事の人もいますし、警察の方もまだいますから、大丈夫でしょう。
私は構いませんよ。」
「よかった。」
ユリも笑い返す。
話している間に準備も出来たようで、察した匠が立ち上がった。
菅野も鞄を手に、机を離れる。
「では、また明日もよろしくお願いしますよ。」
「はい。お疲れ様でした。
また明日。」
ユリは、出て行く匠と菅野を見送り、一先ずソファに腰を下ろした。
飛び乗るように座ったので、ぼす、と大きな音がした。
そのままソファに沈み込むと、どっと疲れが出てきた。
はぁ、と溜め息を吐くと、眠気まで襲ってくる。
了から、菅野が疑わしいとすり込まれているにしては、普通に接する事が出来た。
まずは、それが大事だ、とユリは独りで頷いた。
ここで挙動不審になっては、それこそ了の邪魔になってしまうだろうから。
ほっとしながらも、菅野の事を考える。
菅野は”男爵”の関係者。
了の態度から察するに、過去に関わりを持った事による、直接の関係者であるらしい。
過去…。
過去と聞いて真っ先に思いつくのは、クレアの記憶の事だ。
あの記憶の前後にも、菅野の名が出てくる。
そして、了は、その記憶も、”男爵”に関係があると見ているようだった。わからないとは言っていたが、きっとそう思っているに決まっている。
クレアの失くした記憶と、”男爵”。
どう繋がるのだろう…。
クレアが思い出せば、”男爵”と繋がるのだろうか。
でも、その記憶が蘇る事を、恐れている人物もいる。
クレアの兄だ。
何の前触れもなく、突然消えたクレアの兄。
彼は何を知っているのだろう…。
彼が何か知っているなら、クレアと”男爵”が繋がっているのかどうかも、知っているというのだろうか…。
失くした記憶の中で、もしクレアと”男爵”が繋がっているのなら、そこに関わる菅野や、同じく名の出てきたバークレイも、繋がっている可能性がある。
了の確信は、ここから見出したものなのだろうか…。
だとしたら、こんなに都合のよい話はない。
何せ、”男爵”に関わる者と、”男爵”自身が、もうすぐ、この美術館で一堂に会すからだ。
そればかりではない。菅野などは、既に高い可能性で”男爵”と接触し、襲撃されて被害者となっている。
出来すぎてはいないだろうか。
誰かが、何かを計っているのだろうか。
たまたま都合のよい事だけを拾って、結び付けているだけではないのだろうか…。
考え事をしていると、寝てしまいそうだった。
ユリは、パンと両頬を叩いて気合を入れ、立ち上がると、館内を一通り見回って帰ることにした。