5月2日◆5
さらに続きを、倍速で再生して眺める。
やがて映し出されたのは、人影が二体映った、〇三時〇二分の映像だ。
「人影。二体…。」
了が呟いた。
「どちらも館長の影じゃないとすると、美術館にはあの夜、マント、館長、人影の二人の、最大四人いたって事ね。」
気を取り直したユリが言うが、了は無言のままだった。
「どしたの?」
ユリが了の顔を覗き込むと、了は「…いや…」と煮え切らない返事をした。
「何よ?」
きっと頭の中を、色々な情報や仮説がとてつもない速さで巡っているのだろう。
了の頭は、いつもそんな感じなのだろうと思う。
落ち込んで、立ち直って、また教えてもらえず落ち込んで…では、さすがに苛立ちも覚える。
ユリが強く言うと、了が観念したように、しかし面倒臭そうに言った。
「…館長の証言は一〇〇%偽証で、この人影の片方こそが館長と見るべきなのかもしれないな、と思って。」
「え?」
ユリが眉を顰めた。
「だって、蕪木さん、昨日は館長は嘘吐いてないと思うって、言ってたじゃない。
館長は、この人影が映る前の時間帯に襲われたって言ってるんでしょ?
じゃあ、どうして嘘吐く必要があるのよ?」
自論を曲げてきたのには、それなりに理由があるだろう。
それは、自論を聞いている以上、問い質さなければ。
「どうにもな…、あの人は何か隠しているように見えるんだ。
襲われた原因が、誰にもいえない事だったりする場合、襲われた事自体を隠せないときは、時間帯を偽証する事が、一番有力な隠蔽方法になる、と俺は思う。
もし、あの夜襲われた理由について知られたくないなら、一番手っ取り早いのは、『誰かに会った』という事実を隠す事だ。
暗闇で顔は映らなくとも、人影が映ってしまう可能性を考慮した上で、さらに監視映像に手が加えられているという状況を把握していたら、映ってしまう可能性のある時間帯の早い時間に、自分にはアリバイがあると主張するのが有効だろう。
なら、その隠したい事とは何か?」
ユリは了の言葉に首を傾げた。
『監視映像に手が加えられているという状況を把握していたら』…?
菅野が、あの送受信機について把握していたという事か?
それはつまり、侵入者がいるという事を把握していたという事ではないか。
「”男爵”が来るって知ってたって事? あの夜、館長は”男爵”と会ったってこと?」
延いては”男爵”と菅野の間には、確固たる関わりがある、と言う事になるではないか。
「…どうだろう…。
或いは、あの夜、美術館には館長、”男爵”とあと一人の三人がいた…。」
「三人?」
「つまりさ。
まずあの夜、二階に”男爵”がいて、マントが映り込み、タイピンが落ちた。
そのあと、館長と誰かが二人で二階へ向かい、誰かは何事もなく帰り、残った館長は襲われた。
もしくは、一緒にいた誰かが館長を襲い、屋根上に乗せた。
さらに考え得る可能性としては、その誰かと”男爵”は、共犯である可能性。」
「…。」
菅野自身は”男爵”と関わりはないが、何らかの理由で”男爵”と繋がりのある者に襲われた可能性…。
それにしても、菅野は”男爵”の関係者だと言ったり、関わる者に襲われた可能性を示唆してみたり、と、了の話を聞いている限り、菅野と”男爵”との関連性を否定するつもりはなさそうだ。
それはそれで、きっと理由があるのだと思うが、ユリにとっては、それを疑うだけの前提がないのだから、了の推測はゴリ押しするに近い印象を持つ。
「蕪木さんて、館長に過去何があったか、もう調べてあるんでしょ?」
唐突に言われて、了が思わず驚いた顔をした。
ユリは、やはり、と思う。
了は、ずっと、菅野の周りで何が起きても、そこには必ず”男爵”の影を置きたがっていたように思う。現に、菅野は”男爵”の関係者だと考えているとも言っていたし、先のラウンジで盗み聞きした電話だってそうだ。
そこにどんな理由や情報があるのかは判らないが、『関係者』だと思っている、というレベルの話ではない。
調査を踏まえて、『関係者』と断定される、という疑いをはっきりかけた状況ではないか。
やはり。やはり、何も教えてはくれていない。
教えられる事は少ないと言われたし、実際、素人のユリに教えられる事など、限られているだろうという事くらいは百も承知だ。
一度は、自分の役割も理解し、首を突っ込まないと決めた。
だが、この事件に関わってしまった以上、そして”男爵”に関わる情報である以上、聞く権利もあるのではないかと、思ってしまう。
野次馬根性を否定するつもりはない。
だが、話すだけ話しておいて、これ以上は秘密ですと生殺しされては、最初から話してくれないほうがずっといい。
了の口から、ユリに語られる事がある以上、ユリも最早『関係者』のつもりでいるのだから、生殺しされたのでは堪らない。
一体、了は自分に何を求めているのだ。
ぐっと言葉を堪えて、了を睨みつける。
苛立ちの理由が、哀しくなる理由が、漸く解った。
どうしていいか解らない、もどかしさだったのだ…。
そしてこの気持ちすら、了は解っているに違いない。だから余計、悔しい。
どうしたらいいのだ。飲み込んだ言葉が、意図せず喉元で涙に変わる。
必死に堪えると、もっと了を睨む形になった。
しかし堪え切れず、涙腺から少しずつ涙が溢れる。
了に気付かれないように、必死に堪えるのに、堪えれば堪えるほど、溢れてくる。
もう堪えきれない。そこまで涙腺が緩んだとき、
「………また立ち聞きしたな…。」
了が苦笑した。
「館長と”男爵”とは、関係者だと思ってる。」
「ああ。そう話したな。」
「思ってるだけじゃない。断定してる。」
「そうだな。」
素直に認める了に、何故か怒りは和らいでいく。
「…この間も少しは話してくれたけど、どうしてそこまで、館長を疑うの?」
問うと、了が笑顔を仕舞って、ユリから視線を外し、俯いた。
了の顔は、困惑でもない、寂しげにも見えない、強いて言うなら、何の感情もない表情を浮かべていた。
俯いて向けた視線は、床を見つつも、床の向こうにある何かを、揺らぐ事もなく見据えている。
「疑ってる事を責めてる訳じゃないの。
ただ、知りたい。
蕪木さんが何を考えてるのか、理解したいの。
じゃなきゃ、一緒にいても、足引っ張っちゃうかもしれないもん。」
何かを望んでいるから、ある程度までは話してくれるのだろう。
だが、ユリは自分が器用でない事を自覚している。その先を知らなければ、望まれた通りには動けない。
ユリが言うと、了が驚いた顔をして、視線をユリに戻した。
そして、少しの間驚いたままユリを見つめた後、また、苦笑した。
「…ユリはそんな事、心配しないでいいぞ。」
そう言って、了はまた俯いた。あっという間に苦笑もなくなり、苦しみに歪む。
「そうだな…。少し気を揉み過ぎかもな…。」
苦悶の表情で俯く了に、ユリが突っかかった。
「答えになってないわよ…。」
言われて、了がもう一度苦笑する。
「答えたくないんだよ。
…だけにはね…。」
溜め息混じりに、しかし意図的に了は声を小さくしたが、了の声に集中していたユリの耳には、微かにだが届いた。
だが、聞こえた言葉は、耳を疑うものでもあった。
『キミだけにはね』…?
自分だけには、言いたくない事とは、何だ…?
ユリが尚問おうとしたのを見計らったように、了が飛澤を呼んだ。
「飛澤さん。」
「おう、終わったかい?」
少し離れた場所にいた飛澤には、小声で話していた二人の会話は聞こえていないようだった。
「はい。お手数おかけしました。」
そう言って、了が頭を下げると、
「しっかし、兄ちゃんも大変だなぁ。
ケーサツの人なのに、消防点検で、しかも監視映像まで調べなきゃならんとは…。
過労死に気をつけなよ!」
と、飛澤が腰に手を当てて笑った。
「ありがとうございます。」と、了も苦笑する。
(あ、そうか…。飛澤さん、知らないんだっけ)
ユリは、ふと思う。
欺かれているような気持ちにならないのか、と。
目の前で内緒話をされ、よく解らないまま協力をせがまれる。
何故と問う事は許されず、それでも問えば、はぐらかされたり、意味深な事を言われる。
好奇心は留まる事無く、やがて、知らぬ間に、禁忌の領域に足を踏み入れてしまう。
匠が言っていた。いずれ了に頭が上がらなくなる、と。
解っている。了はずっと、自分を守ろうとしてくれている、と。
感じている。ユリのずっと深いところまで、了は知っているのだ、と。
だが、その合間に垣間見える了の行動には、やや一貫性に欠けるところもある。
もしかして、了は何か迷っているのではないのか。
一体、何を迷っているのだ。
飛澤と軽い世間話を終えた了は、ユリを一度振り返り、セキュリティ・ルームを出て行った。
ユリは、一呼吸置いて、飛澤に会釈をし、後を追う。
見失わないように、と、焦った事もあった。
今は…。
やはり、見失わないように、と、自然に早足になっていた。
すらりと伸びた背中を見つめて思う。
今何を考えているのだろうかと。
他人だから、何も教えてくれないのだろうかと。
了にとって、自分はどんな存在なのだろう…。
知りたい事は、日に日に増して行くばかりだった。