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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月2日
51/87

5月2日◆2

 程なくして美術館に到着した。

 「正午までには、ここへ戻りますので」と言って走り去る了の車を見送り、匠とユリは館長室へ向かう。

 昨日とは違い、いつもどおり見張りのいない館長室のドアを開けると、菅野の姿が見えた。

「おはようございます。」

 匠が声をかけると、菅野は申し訳なさそうに苦笑した。

「ああ、芳生さん、おはようございます。

 ユリさんも、おはようございます。」

 まだ幾分青いように見える菅野の顔色が気になった。

「館長、もう大丈夫なんですか?」

 ユリが訊ねると、菅野は一層申し訳なさそうに眉を歪めた。

「はい。

 お騒がせして、申し訳ありませんでした。」

「いえいえ、大した怪我もなく、よかったですよ」と匠が笑う。

「ありがとうございます。」

「クレアさんも心配していたんですけど、色々考えて、セレモニー当日までは私の家にいてもらう事にしました。」

 匠が言うと、菅野が深々と頭を下げた。

「お気遣いありがとうございます。

 私もそのほうがいいと思います。」

 ユリは、菅野と、昨日のバークレイを重ねる。

 クレアに関する対応は、明らかに、菅野のほうが家族らしい。

 ユリが押し黙って菅野を見ていると、匠が気にしたのか

「しかし、明朗な子で、感心しきりですよ。

 ユリより早く起きて、家内の手伝いをしてくれますからねぇ。

 助かってます。」

とからかった。ユリもすかさず反応はしたものの、「う…」と言葉に詰まった。

「それはそれは…。

 きっと心配事もあるんでしょうけど、元気そうでよかった。」

 ユリの心を知ってか知らずか、菅野の表情が和らいだ。

 暫し談笑をしていると、ユリの後ろから声がした。

「みなさん、お集まりですな。」

 ふてぶてしく、横柄な言い回しは、昨日、その声を聞かずに清々していた北代のものに他ならない。

 一同は振り向き、匠とユリは愛想笑いをする。

「ああ、おはようございます。」

 匠が挨拶をすると、北代は、「おはようございます。」と笑いもせずに答えた。

 内心何を考えているのか、にやにやと笑う匠の隣で、菅野が神妙な顔で頭を下げた。

「おはようございます。

 先日はご迷惑をおかけしまして。」

 外見の印象もあってか、恐縮しきりな菅野に、北代は尚も表情を変えず、

「事故ですからな、仕方ありますまい。」

 などと答える。

(うわぁ、感じワル。)

 ユリが思わず眉を顰めた。

「ところで、蕪木君の姿が見えませんな。」

 北代がきょろきょろと見回した。動作がいちいち、わざとらしい。

「蕪木クンなら、今日は職場へ向かってから来るそうですよ。

 色々ちょっとした進展があったようで。」

 匠がにやにやしたまま答えると、

「ほう、進展ですか。

 是非伺いたいものですな。」

と、北代が興味深げに片眉を上げる。

「僕は詳しいことは解らないので…。

 蕪木クン、お昼には来るそうですから、聞いてみるといいでしょう。」

 そう言って、もったいぶって焦らすように、匠は大袈裟に肩をくいっと上げて笑った。

 その態度が気に入らなかったのか、北代は眉間に皺を寄せ、「そうしますよ。では、失礼」と、足早に館長室を出て行ってしまった。

 ドアが閉まらないうちに、堪らずユリが声を上げる。

「なんなの、相変わらず感じ悪い…。」

 頬を膨らませ、北代の消えたドアを睨むユリに、匠が笑った。

「聞こえるぞ、ユリ。」

 その匠に、菅野がおどおどと声をかける。

「今、進展とおっしゃいましたね…?」

「ええ、言いましたよ。」

 匠が菅野を振り返り、にやりと笑った。

「どんな進展があったのですか?」

 訊ねる菅野の表情は、何故かとても不安げだった。

「ああ、こちらの件ではないのですよ。

 別件の捜査で、ちょっとね…。」

 匠が答えると、菅野は「そうですか…」と言いながら、肩を小さく下げた。

 ユリには、その様子が、ほっとしたように見えた。

 自分の襲撃事件が進展していない事に対する反応として、それはとても不自然なものだ。

 ユリは菅野の態度の真相が知りたくて、わざとらしくポンと手槌を打った。

「そういえば、監視映像の解析結果、どうだったのかしらね?」

「ああ、そういえばそうだね。

 北代さんからは教えてもらえそうにないけど…。」

 にやりとしたままの匠は、ユリの思惑を当然悟っていて、ソファに腰を下ろしながら遠まわしに北代を批判し、「菅野館長は当事者なんだから、少しくらい情報くれてもよさそうなもんなのになぁ」と菅野を見上げた。

 菅野は「そうですね…」と苦笑するだけだった。

(…なんか様子おかしくないかしら…?)

 ユリは、怪訝な顔をして、匠を見た。

 匠は表情を少しも変えないで、菅野を見上げている。

 その態度が、思い過ごしと言うより、まだ突っ込んではいけない、という態度のようにも思えたので、ユリはこれ以上話を引き伸ばすのを諦めた。

「さて、叔父さん。

 口うるさいアイツがいないうちに、何かやっておくべき事はない?」

 この場にいない了に毒吐き、ユリが腰に手を当ててふんぞり返ると、匠が大笑いした。

「もう迷子にならずに回れるのか?」

「うーん…。

 それはまだ自信がないわね…。

 様子見ついでに、周ってこようかしら。」

「そうだね。

 ついでにさらに落し物が見付かったら面白いけど。」

 匠がにやりと笑う。

「さすがにもうないでしょ…。

 じゃあ、いってきます。」

 ユリは匠に溜め息を吐いて見せて、館長室を後にした。

 一階を軽くぐるりと周る。

 この階はあまり事件と関わっていないのか、施錠されたエントランスの扉の前に警官が一人立っているだけで、それ以外の人気はなかった。

 そのまま動いていないエスカレータを歩いて昇り、二階へ向かう。

 エスカレータやエレベータのあるロビーの真正面にある特別展示ルームを覗く。

 昨日よりさらにブルーシートの取れた室内は、とても広い。

 この広い展示室に、二日後、”紅い泪”だけが展示されるらしい。

 ユリは室内を見回したあと、天井を見上げた。

 菅野が発見されたのは、この展示室の真上の屋根上だ。

 カツンと足音を鳴らして、室内へ入る。

 中庭を臨むベランダを真正面に、左手には中展示ルームへの入り口が見える。

 そのままゆっくり中展示ルームへ移る。

 特別展示ルームと同様、徐々にブルーシートが外されている中展示ルームも、改めて見るととても広く感じる。

 そして雰囲気も、徐々に変わっていく。

 ユリは、以前、匠が言っていた事を思い出した。

「ブルーシートがあるのとないのとじゃ全然印象が違うって言ってたけど、本当ね。」

 独り言を呟いて、くるりと体を回しながら室内を眺める。

 ”男爵”のものと言われるタイピンは、ここで拾った。

 ”男爵”のものなら、もっとよく見ておけばよかった。

 了に言えば、見せてもらえるのだろうか…。

 それは不謹慎と言うものなのだろうか、と思いながら隣の小展示ルームへと移ると、数名の警官がいた。

 まだ捜査中なのか、警官の何人かは、小さなブラシや透明の袋を持って、黄色いテープに囲まれた床にしゃがんでいた。

(ここはあんまり歩かないほうが良さそうね。)

 そう思い、なるべく足音を立てないように歩きながら、2階から3階へと上がった。

 まず、ラウンジを覗く。

 よく見ると、ラウンジの窓と屋根は近かった。

 うまく動けば、屋根の上に昇れるのではないだろうか、と窓を押してみるが、嵌め殺しのようで、開かなかった。

 少し残念に思いながら、ユリは窓の外を眺める。

 高層ビル群を臨むラウンジの窓辺は、開放感に溢れ、最高に気持ちが良かった。夜はまた、きっと夜景が綺麗に違いない。

 景色に見とれつつ、しかしふと、先日の了の横顔も思い出す。

 ユリは頭を振った。記憶の中でまだぼやけたまま思い出しかけていた了の横顔が、すっと消える。

 また思い出さないうちに、ユリはラウンジを後にし、セレモニーホールへと向かった。

 こっそり見つけた、屋根上への梯子を昇る。

 こちらも改めて見ると、とてもいい眺めだ。南向きなので日当たりも良い。広い足場に座り、窓に寄りかかると、ポカポカと気持ちが良くて、思わず眠くなる。

 サボるにはここに来るに限る。

 思いながら、すぐそこにある屋根を見つめる。

 深い緑色の屋根は、新調してから間もないので、まだ真新しく、艶やかだ。乗ればつるりと滑ってしまいそうで、よくも菅野が滑り落ちなかったものだと思う。

 ユリは菅野が滑り落ちてしまっていたら…と妄想し、急に怖くなり、武者震いをして梯子を降りた。

 逃げるようにセレモニーホールを出ると、階段で二階まで一気に降りる。

 一息吐いてエスカレータを下りながら、走った所為で少し上がった息を整える。

 一階に着き、館長室へ戻ろうか思案する。

 が、何故か今は戻りたくなかったので、ユリはそのまま地下へ向かう事にした。

 職員通路に入り、地下への階段を下る。

 徐々に照明の灯りが弱くなり薄暗くなる風景は、何度見ても不安を誘う。

 段を降りるにつれ、空気が重く冷たくなり、足音が響くようになる。

 しん、と静まり返っているので、自然と息を殺してしまう。

 ゴウン、ゴウンと、大きなものが這いずり回るような、不思議な音が聞こえる。

 怖いわけではないが、つい身を縮め、セキュリティ・ルームを目指す。

 角を何度か曲がると、セキュリティ・ルームのドアが見えた。

 ドアはまた少し、開いていた。

 ユリは思い切って、ドアを開ける。

「飛澤さーん?」

 声をかけながら中を覗くが、誰もいなかった。

 廊下より一層暗い室内は、モニタの青白い光に照らされて、不思議な雰囲気だ。

「あれ? いない…。

 っていうか、誰もいないじゃない…。

 なんで…?」

 以前は確か、独りで待機中だった警備員が、近くに見回りに出ていたので開けっ放しになっていた。

 だが、近くとは言え、開けっ放しにするだろうか?

 それが良しなら、何のためのキーカードなのだろう?

 そう思いつつも、今日もそういう事情なら近くに誰かいるだろうと思い、ユリは倉庫へ向かう事にした。

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