5月2日◆1
◆
その青年は、とても哀しそうに顔を歪めながら、追い詰められたように、深夜のオフィスで明かりを点けるのも儘ならない程に、書類を読み漁っていた。
どう入手したのかしらないが、聞いた話によると、手にしただけで法的に危うい類の、かなり際どい内容のものまであるらしい。
僕は足音を忍ばせて入り口に近付き、暫くその青年を眺めていた。
しかし、あまりに僕に気付かないので、段々退屈になって名前を呼ぶと、その青年は目を見開いてこちらを見た。が、僕を一目見るなり、その青年はすぐに鋭い目付きで僕を睨み、静かに立ち上がった。
「どちら様?」
威嚇をするように僕に問いかけるので、僕は楽しくなった。
そして、”彼”を調べているんだって、と問いかけると、その青年は一層僕を睨み付けた。
でも、僕には解る。
睨む瞳の奥で、その青年が必死に、折れそうな心を隠している事を。
かなり追い詰められているようだから、僕はきっと、大丈夫だと思った。
「キミが望むなら、キミが手にしたいと願う全ての情報を得られる力をあげるよ。」
青年にとって、それは悪魔の囁きだったかも知れないと、思うときもある。
力を求め、実際手にした青年の瞳は、力を得ても揺らぐ事はなく、今でもその瞳は、真っ直ぐ彼女を見つめている。
これからも、きっと彼女を見つめ続けるのだろう。
彼女を守る事だけが、彼の償いなのだろうから…。
◆
ピピピ…、と、耳障りな機械音が聞こえる。
「ぐぅ」とも「うぅ」とも聞こえる音を喉で鳴らして、まだ目を閉じたまま、手で音源を探す。
ひやりと固い何かが手にあたり、指先でボタンを探し、押すと、音が止んだ。
そこでようやく目を開け、手に持っているものを見る。
「五時十五分…。」
口に出して、また目を閉じる。
何故こんなに早くに目覚ましがなっているんだっけ…。
再び見出した夢の中で、ユリが考える。
すると、耳元で、
「ダメですよ、ユリさん。起きないとまた蕪木さんに見抜かれますよ。」
と声がした。
「それは嫌だ…。」
腫れぼったい目を開けると、目の前でクレアが笑った。
「おはようございます。」
「おはよ…。毎度毎度進歩のない目覚めよね…。」
枕に顔を埋めて言うと、既にドアの前に移動していたクレアが、苦笑しながら振り向いた。
「ふふ。
朝ごはん出来てますよ。」
「着替えたらいくわ…。」
ユリが片手を上げて返事をすると、クレアはそそくさと部屋を出て行った。
すっかり家に慣れたようだ。
きっと今朝も、カナエの手伝いをしていたに違いない。
「そういえば、クレアはお客様なのに、うちの手伝いとか偉いわ…。
とか言ってるとカナエちゃんに叱られそう…。
早く起きよう…。」
駄々っ子のようにのろのろと起き上がり、ふぅと溜め息を吐いてから、ユリは素早く着替えた。
顔を洗い、髪を整えて、居間のドアを開ける。
しかし、
「おはよー…」
と言い終えないうちに、目の前に広がる光景に絶句する。
「……。
げ。デジャヴ…。」
眉を顰めて言うユリの目の前には、我が家にでもいるように堂々と食卓に居座っている了がいた。その向かいでは、匠がにやにやと笑っていた。
了は、ユリを振り返り一目見るなり、
「お前、睡眠障害なんじゃないか?」
と、表情も変えずに言った。
「大きなお世話よ!」
ユリがむくれると、「いいクリニックあったかな…」などと、さらにからかうので、「若いからよ! あんたみたいに年寄りじゃないの!」と言い返すと、タイミング悪くカナエがキッチンから出てきた。
「また、ユリ! お客様に失礼でしょ?
ごめんなさいね、毎度粗忽な娘で…。」
叱りながら、カナエが了に苦笑する。
「いえいえ、奥さんがお気になさる事では…。」
了は調子に乗って、からかい続ける。
ウンザリして、「あああ! もう!」と床をダンと踏み鳴らすと、クレアが堪らず吹き出した。
「さあさ、いただきましょ。」
もうすっかり朝食の準備は出来ているようで、カナエの声を合図に食事が始まった。
「蕪木クン、今日は?」
了を見ることもなく、物を口に運びながら匠が尋ねると、手早くサラダを片付けた了が、コーヒーを一口啜り、
「みなさんを美術館に送ってから、一度職場に向かいます。」
と答えた。
「何か手間取ってるのかな?」
パンにかぶりつき、少し篭った声で匠が続けると、了は「いえ…」と言った後、カナエをチラリと見た。
カナエはにこにこしながら了と匠を見ている。
「ああ、食事中に仕事の話はやめましょう。」
了が微笑んで言うと、カナエは満足気に頷いた。
「そうよ?
同じ口を動かすなら、いっぱい食べてってくださいな。」
「はい。」
素直に食事に戻る了に、隣で了の食べっぷりに呆れていたユリが呟いた。
「あんたの胃袋のどこに、それだけの量が入るのよ…。」
「体中、胃袋なんじゃないの?」と続けるユリに、「君も似たようなもんだろ」と了が即言い返す。
「美味しい料理は遠慮なしに食べるのがマナーってもんだ。」
「…。
前半はムカツクけど、後半には賛成だわ…。」
言われて、確かに一理あると素直に認めたユリに、了が留めの如く言い放った。
「君が口で俺に勝とうとするのは十年早い。」
「むっ!」
ユリが頬を膨らますと、眺めていた匠が大笑いをした。
みな、もうそれなりに馴染んでしまったのか、それ以降、食事中は静かなもので、早々に食べ終えた面々は、クレアとカナエを家に残し、美術館へ出発する事にした。
了が一足早く事務所を出、駐車場へ向かう。
やがて了の車が戻ってきて、事務所前で止まると、了が一言「お待たせしました。」と言った。
いつもどおりに「ほんっと待ったわ。」とユリが言うと、了は空かさず反論する。
「その怒りっぽさは、若年性更年期障害だな。」
「むっ!」
何故かユリは、それ以上口答え出来なくなってしまう。
(くっそう…。
いつか口で言い負かしてやりたい…!
昨日少しでも優しいとか思っちゃったのが悔しいわ!)
ユリは唇を尖らせ、了を睨んだ。
了は今日も満足気に、ニヤリと笑う。
「お気をつけていってらっしゃい。」
車に乗り込んだ三人を、クレアが見送った。
ユリが窓越しに手を振ると、車はすぅっと走り出す。
そして路地を少し走ったところで、匠が何の前触れもなく「それで?」と切り出した。
食事中の会話の続きだろうか。
聞かれた了も、すんなりと答える。
「言い訳は、昨日のままを使うとして、それでも外務省が首を縦に振るとは思えませんので、捜査を外務省を経由せずに出来るよう、部下が手配しています。
早ければ今日の午前中には、その準備が出来るかと…。」
「なるほどね。」
何度か頷く匠の後ろの席で、ユリは、昨日のバークレイの調査の事だろうと推測した。
ユリは考える。
あまり深く聞いても答えてはくれないだろう。そして、言い負かされたままでも悔しい、と、止せばいいのにユリが突っ込む。
「あんたの部下が働いてる中、あんたはうちでのうのうとご飯食べてたわけ…?」
ユリの言葉に、了が不機嫌な顔を造った。
「何か文句でも?」
さて、どう返そうかと悩み始めた矢先、匠が珍しくフォローする。
「その代わり、蕪木クンは寝ないで仕事してるからなぁ…。
部下の彼らは夜、少なくとも蕪木クンの倍の睡眠時間は保障されてるからね。」
匠に言われてしまうと、何の文句も言えなくなってしまう。
ユリは、「ふぅん。」と素っ気無く言った後、
「よく眠くならないわね。」
と続けた。
了も匠のフォローの手前、あまりふざけて出られなくなってしまったのか、表情を元に戻し、静かに答えた。
「随時寝不足だが?」
「いつ寝てるわけ?」
ユリが訊ねると、信号が赤に変わったので、了は車を停めて、わざと溜め息混じりに答えてみせた。
「信号待ちのときとか。」
「ちょ!!!!!!」
了の答えがふざけだと判っていても、突っ込まずにはいられない。
ユリが身を乗り出して、後ろから了の顔を覗き込むと、了は疲れたような顔で、横目でユリを見た後、面白そうに鼻で笑い、右手をユリの頭に添え、後ろへ押して戻した。