5月1日◆13
クレアから母親の話を聞くと、その相手として、バークレイは本当に違和感を感じる。
「クレアのお父さん、結構厳しい感じの人ね。」
ユリが何気なく言うと、クレアがしょんぼりとした。
「ごめんなさい。やっぱり何か言ったんですね?」
「あ、ううん。そうじゃないんだけどね。」
ユリは否定をしはしたが、正直よい印象は持っていない。
恐らくそれはお互い様なのだろうが、元々あの性格なのか、何かきっかけがあったのかは、気になるところではあった。
「私の小さかった頃は、家にあまりいなかったと言う事もありますけど、家にいるときでも、声を荒げたり、人を見下したりすること、なかったんですよ。
それが、暫く会わないうちに、気がついたらあんな風になってしまって…。」
人が変わるとき、大抵は何か哀しい事があったときだ。それも、心では消化しきれないくらい、とてつもなく大きな哀しい事が。
「きっかけとか、解らないんだ?」
「まったく解りません。
仕事が忙しいから、仕方のない事なのかと思う事にしています。」
娘なりの気遣いなのだろうと思う。
「そうね。
ああいうお仕事だと、ストレスすごそうだもんね…。」
言いながら、そうではない事くらいは解る。
クレアも解っていながら、深く追求してはいけない事だと思っているのだろう、「はい」と短く返事をしたまま、俯いてしまった。
ユリは空気を変えるつもりで、後ろに倒れこんだ。
「は~…。そういう話聞くと、うちの叔父さんは甘いわよねぇ…。」
溜め息混じりに言うと、クレアが微笑む。
「とても優しい方ですね、匠おじさま。」
「そうね、優しいは優しいわね。」
ユリが同意すると、クレアはもう一度「優しいです」と言い、「そして、とても強い方…」と続けた。
「強いいい? 叔父さんが?」
ユリは今しがた倒したばかりの体を勢いよく起き上がらせた。
「叔父さん、ひょろひょろだし、ケンカ弱そうよ!
体力もなくて、ちょっと走っただけで、いっつもゼーゼー言ってるわよ!?」
ユリにとってはそんな感じだ。
大袈裟に否定するユリを、クレアは笑った。
「ふふふ。違いますよ。
喧嘩とかそういうのではなくて…、なんていうか、とても沢山のものを守っている感じ。」
それは所帯主としてか…?と、ふざけた意見は口に出さず、「そうなのかしら…。そんな大層な人には見えないんだけど」とユリが呟くと、クレアは肩を竦めて、
「きっと、いつも一緒だからわからないんですよ。」
と、笑いながら嗜めた。
「そういうもんかなぁ…。」
ユリは言いながら、そういうものだろう、と納得もする。
「ねぇねぇ、家族のこと、もっと知りたいな。
お祖父ちゃんとか、お祖母ちゃんは?」
「祖父は、二二年前に亡くなりましたけど、シリングの鉱山の二割を持っていた人なんです。」
さらりというクレアに、ユリが感嘆の声を上げる。
「そのうちの半分くらいが、カーネリアン鉱山でしたね。
今でも、うちの持ち物ではあるらしいのですが、採石事業が国営化されているので、国が全て管理をしているんですけど。
あの”紅い泪”のカーネリアンも、祖父の山で採れたものなんですよ。」
「へえ! すごいじゃない!」
その石が、今、国宝として保存され、もうすぐ日本にやってくるのだ。
大袈裟ではなくユリが驚くと、クレアも頷いた。
「ええ。
とても大きな原石が採れたので、せっかくだからと、管理担当の方が、うちに持ってきてくれたんです。
それを父が母にプレゼントとして加工業者に持って行ったときに、たまたま国王がそのお店にいて、譲って欲しいと言う事で。
父は愛国家ですから、喜んで譲ったと聞きました。」
「え~、もったいなーい…。
でも、クレアの伯母さんのものになったんだから、そうでもないか…。」
身を捩りながら、一人納得もするユリを、クレアが笑った。
「そうですね。
それに、母も装飾品にはあまり興味がなかったみたいなので…。
うちには何にもないんですよ。遺品にもなかったし。」
徐々にクレアの表情が哀しげになっていく。
家族の話は聞かなければならないと思う。ただ、聞けば傷であろう部分を穿り返す事になる。
探偵とは、いつもこんな事をしているのだろうか?
なんとも居た堪れない職業だと、思う。
「へえ…。」
慰める事も失礼な気がして、ただ相槌を打つ事しか出来ないユリを、クレアが振り返り、正面で向かい合うようにして座りなおした。
「ユリさん?」
「ん?」
「ユリさんの家族のことも、聞きたいです。」
クレアが顔を覗き込んだ。
「私の家族?
うーん、あんまり面白くないよ?」
本当に、面白くないのだ。聞けば、大概の人は「聞いてごめん」と言う。
ユリが申し訳なさそうな顔をすると、クレアが首を振った。
「いいんです。
だって、匠おじさまも、カナエさんも、ユリさんの本当のお母さんとお父さんではないんでしょう?」
「うん。
まぁ、言わなくてもわかるわよね、その辺は。」
「はい。でも、どうして…?」
深く頷くクレアに、ユリはふっと笑った後、何故か恥ずかしくなって、俯いて爪を弄った。
「うちのお父さんとお母さんはね、事故で死んじゃったんだ。
私が大学入って、もうすぐ二年ってときだから、もう六年になるかな。」
封印していた訳ではないが、わざわざ話す事でもなく、自然と話さなくなった。
改めて思い出し、そして声に出してみると、考えていたよりうんと時間が経ってしまっていた事に気付く。
「お父さんの海外転勤が決まってね、一年くらいで戻れるし、私も大学があったから、着いて行かなかったんだけど、出発の日に、空港へ見送りに行ってね、もうすぐ滑走ってときに…。」
言葉に詰まったユリを、クレアが心配そうに見つめた。
言いよどんだ訳ではなく、どう表現したら聞き手にとって一番ショックが小さいか、と考えたのだ。
しかし、結局どんな言葉を使っても、与えるショックは変わらないような気がした。
さらに心配そうにしているクレアに、「ああ、ごめん。なんでもないよ」といい、ユリは構わず続けた。
「爆発しちゃったの。飛行機。」
クレアが、息を飲んだ。
「原因は、よく解らなかったんだって。
爆発物らしきものの痕跡もあるけど、それにしてはその爆発は大き過ぎたらしくて、結局ね、飛行機の整備ミスって事で解決して。
暫くは、学校にも行けなくて、ずーっと引きこもってて。
そのときは、まだ実家にいたから。ここの近所だったんだけど。
時々カナエちゃんが食べ物を持ってきてくれたりして、ご飯だけはね、困らなかったの。
あと、お金もあったし…。賠償金とか、貯金とか、ね。」
息の続く限り一気に喋って、一呼吸置く。
忘れようとも、忘れまいとも思わなかった記憶。
ただ、話さなかっただけの記憶を言葉にすると、ついさっきの事のように、記憶は色付き、生々しく、息を吹き返す。
味気ない食事、誰も出ない電話、自分が点けるまで灯る事のない家の灯り…。
ただただ、広い家に独り、部屋に閉じこもってベッドに横たわり、窓から外を眺めていても、特に何も目に止まらない。
何故か涙も出てこなかった。
日々何も考えず、気付くと時間だけが過ぎていた。
「だから、本当に何にもする気力が湧かなくて、一年くらい学校休んで、窓も開けずに家に閉じこもってて。
裁判とか、そういうのも、ほとんど叔父さんとカナエちゃんが行ってくれたし、何にもしてなかったなぁ…。」
暢気な風を装って、天井を見上げると、クレアが言った。
「どうやって、今みたいに…?」
「ん?」
何となしに聞き返して、ユリは部屋の明かりを見上げた。
直視する蛍光灯の灯りは、あの日、ふと心に射した光と同じ気がした。
立ち直るとは、案外簡単なものだと、あの時も思ったものだ。
「うんとね…。」
動いていないのだから汚れないのに、毎日義務のように風呂に入り、決まった時間にカナエが冷蔵庫に置いてくれる食事を温め、時には冷たいまま、口に運ぶ。
夜ベッドに横になれば、一丁前に眠くなる。
何もしていないのに眠くなったりするものなのかというのが、そのときの唯一の発見だった。
しかしある日、いつもどおり冷蔵庫空けると、まだあったはずの食べ物がなくなっていた。
「昨日の晩に食べたときは、まだ残ってたんだよ?
でも、朝起きたらなかったの。
でもお腹空いてないから、ないなら別にいいや~って思って、冷蔵庫閉めようとしたら…。」
牛乳を挿す棚に、手紙が貼ってあった。
「手紙?」
「うん。
手紙って言うか、メモね。」
その手紙には、見慣れたカナエの字が綴られていた。
短く、簡潔に。
「『もう泣き止んだでしょ?』って。」
カナエは、ユリが泣いていない事を知っている。
でもその言葉は、ユリの心に、不思議としっくりと嵌る言葉だった。
「何だかよく解らないけど、それ読んだらね、急にお腹空いて…。」
しかし、食べ物はなにもない。
だから、ユリはこの家に走り、玄関のドアをガサツに開けるなり、一言叫んだ。
『ご飯!』と。
「笑っちゃうでしょ?
一年ぶりに喋った言葉が、『ご飯!』だったの。カナエちゃん大爆笑よ!
笑われて気付いたんだけど、髪ぼっさぼさで、すっごいだらしないカッコで、家からここまで走ってきたのね。
もう恥ずかしくて恥ずかしくて…。
カナエちゃんに着替え取りに行ってもらって、その間にご飯食べて。
そのときにね、この家に住みたいなって思って…。
叔父さんに相談したら、大学続けるならいてもいいって言うから、学校戻って…、どしたの?」
喋るだけ喋って、急に目の前のクレアの目に、とてつもない量の涙がたまり、溢れそうになっている事に気付いた。
聞かれて、クレアが嗚咽を始める。
「だ…だって…。」
「やだ!
これ、泣く話じゃないから!」
ユリが慌ててクレアの肩を揺さぶると、クレアが激しく首を横に振り、序でに堪え切れず泣き出した。
「十分泣く話ですぅ!」
「あはは。
参ったな…。」
気落ちされた経験は幾らでもあったが、この話で泣かれたのは、これが初めてだった。
泣く事は同情に近いという意識があるからなのかも知れないが、正直落ち込まれるよりは、泣かれるほうが気が楽だった。
が、かと言ってどうしていいか解らないのは変わりなく、ユリは縋るように時計を見た。
既に〇時を回っていた。
「あ、もうこんな時間。
もう寝ようか。眠れる?」
言うと、クレアは泣き笑いをしながら、「はい」と頷いた。
ユリも「よし」と頷き、「じゃあ、おやすみ」と、そそくさと電気を消し、ベッドに飛び乗り横になった。
一瞬暗闇に包まれた部屋の中で、徐々に、窓の外から入り込む月明かりに照らされたクレアの顔が浮かび上がる。
クレアはにっこりと笑っていて、しかし流れた涙の筋が、頬に出来ていた。
クレアは「おやすみなさい」と涙声で言った後、ユリの隣に寝転び、ユリにシーツをかけ直した。
薄目を開けたまま、その様子を見ていたユリは、ほんの少しだけ、あの時何故泣けなかったのか、解った気がした。