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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月1日
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5月1日◆12

「ただいま。」

 風呂を出、声をかけながら部屋のドアを開けると、床にペタリと座り込んで雑誌を眺めていたクレアが、にこりと笑った。

「おかえりなさい。」

「おや、疲れてないの? 大丈夫?」

 クレアは「はい。」と頷きながら、

「今日は、あんまりユリさんとお話してなかったから。」

と苦笑した。

 我が家はカナエと言う優秀な専業主婦が居れど、家の仕事と称される作業はなかなか片付かない。

 事務所の掃除や、庶務は全てカナエの役割で、数名いる従業員も手伝ってはくれるが、大抵は来客や調査の外出で手が回らない。

 自ずと家の事は後回しになり、カナエが夜遅くまで起きて家事をする事は、日常茶飯事になっていた。

 ユリも普段はもちろん手伝うが、美術館の依頼を受けてからは家にいないので、カナエはまた一人で、その作業をこなさなければならない。

 なので、客人と言えどクレアはそれなりに扱き使われた筈で、疲れていない筈がなかった。

 それなのに、起きて自分を待っていてくれた事に、ユリの涙腺が思わず緩くなる。

「今日は何してた?」

 ユリが訊ねると、クレアが満面の笑みで、

「今日は、カナエさんにお料理を教わってました。」

と答えた。

「何教えてもらった?」

「私、お料理出来ないので、凄く簡単に作れて、栄養も摂れるスープを教えてもらいました。」

 照れくさそうに言うクレアを笑いながら、夕飯に出ていたスープの事だと悟る。

「夕飯に出てたやつね?

 あれは、カナエちゃん特製”ごちゃまぜスープ”よ。」

 名の通り、その場その場にある材料のみを、構わず混ぜて作るスープなのだが、出汁の所為なのか、何故かいつ食べても同じ風味がし、旨い。

「とってもおいしいですよね、あのスープ。」

 クレアが言うと、ユリも頷いて、「ごちゃまぜなのに、何であんなにおいしいのかしら…」と首を捻った。

 話しながら、思いの外、クレアが元気そうだったので、ユリはクレアに疲れが見えるまで話そうと思い、ベッドの上で胡坐をかいて座った。

 クレアもユリに倣って、ベッドに腰掛ける。

 ユリは何度か静かに深呼吸したあと、一番気になっている事を聞く。

「お兄さんのこと、もっと聞いていい?」

 探りながら、クレアの目を見据える。

 クレアの瞳はとても綺麗なグリーンで、いつ見ても吸い込まれそうになる。

 だかよく見ると、赤茶の濁りがあった。

 見つめられて照れくさいのか、クレアがふと視線を外した。

 しかしすぐにユリを見ると、小さく頷く。

「はい。

 兄とは、少し歳が離れていた事もあって、あまり喋った記憶がないんです。

 日常的な会話はしていましたけど、何かを相談したり、一緒に遊んだりすることは、あまりなかったかな…。

 でも…。」

「でも?」

「行方不明になる少し前、突然私の手を取って、こう言ったんです。

 『記憶を埋めたままなら、きっと幸せになれる。

 だから、そのまま生きていくんだよ。

 許さないのは、僕だけで十分だ』って。」

「え?」

 突如、意味深な言葉が発せられ、ユリが怪訝な顔をする。

 思い当たる事といえば、やはりクレアが忘れているという、十年前の記憶以外にない。

 思いを巡らすユリに気付いていないのか、そして妙に穏やかな顔をして、クレアは構わず続けた。

「そのときは、何の事だかさっぱり解らなくて。

 だから、頷くだけで終わってしまったんです。

 でも、今なら、意味が解るんです。」

「十年前の、記憶ね…。」

 ユリが言うと、クレアが静かに笑った。

「はい。

 きっと、とても哀しい事があったんです。

 だから、私は忘れてしまったんだわ…。

 でも兄は、それは思い出さなくていいって…。」

 そうか。だから…。

「だから昨日、あんなに取り乱したのね…?」

「はい。

 私が忘れてしまっている事を思い出したら、兄に繋がるような気がして…。」

 初めて会った日、思い出さなくてもいいと言っていたのは、わざわざ言うような事ではなかったからなのだろう。

 馴染み、ある程度事情を知った相手だから、改めて本音を語ったに違いない。

「そっか…。」

 ユリは俯いて、ただ納得するしかなかった。

 どこかで生きているかも知れない兄。

 ふとしたときに取り乱してしまうほど、会いたい気持ちは強いものなのだ。

 会えない人なら、どんなに想い焦がれても、心が大きく揺さぶられる事はない。

 だが、会えるかもしれない人なら、それが実の兄なら尚更、我を忘れてしまうほど、焦がれてしまうのだろう。

 普段自制をしているなら、余計に。

 だから、話はもっともっと聞きたいが、掘り下げれば下げるほど、クレアが落ち着いていられなくなってしまう気がして、ユリは話題を振ったことを後悔しながら、話を変える事にした。

「お母さん、どんな人だった?」

 静かに問うと、クレアは、それまで浮かべていた、ずしりと重い翳を携えた笑顔を、ぱっと明るくして、

「母は、とても優しくて、明るい人でしたよ。」

と答えた。声も、若干だが、元気になった。

「綺麗な人?」

「うーん…。

 母より綺麗な人は沢山いるって思いましたけど、でも、双子の伯母が王様と結婚出来るくらいですから、綺麗な人なんだと思います。」

「いいなぁ。

 カナエちゃんなんか、プクプクしちゃって、もっと痩せればいいのにね!」

 今となってはすっかり母親であるカナエを思い浮かべる。

 同じ”母親”なのに、どうしてこうも違うのだろう。

 がっくりと肩を落とすと、クレアが笑った。

「ふふふ。

 でも、カナエさん、とっても綺麗な人だと思いますよ。」

「本人いないから、お世辞言わなくて大丈夫だよ!」

 ユリが手をひらひらさせながら苦笑すると、クレアは思いっきりの笑顔で、「お世辞じゃないですよ。とてもステキな人」と繰り返した。

「あはは。

 本人に言ってあげてね。

 踊って喜ぶわ。」

「はい。」

 一変に空気が変わった。

 母親に対しては、悲しい思い出はあれど、それは沈むほどの傷にはなっていないようだった。

 ユリはほっと胸を撫で下ろす。

 思い出の中の全てが哀しいものになっては、生きている意味がなくなってしまうくらい自分にも価値を見出せなくなる事を、経験上知っているから。

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