5月1日◆10
美術館を出、ひとまず病院へ向かう。
もちろん菅野に面会など出来ないだろうが、何となく、行こうと思った。
菅野が入院している都立病院は、美術館からシリング大使館へ向かう途中にある。歩いて二十分もあれば行ける距離だ。
歩き始めると、あっという間に病院に着いた。
普段から健康優良児な上、親類や友人も病気とは無縁なメンツばかりなので、病院には全くと言っていいほど縁がない。
来たのは、六年ぶりか。
さて、着いたはいいがどうしようかと正門前で思案していると、病院の正面玄関から、見覚えのある男性が出てきた。
バークレイだ。
思わず、ユリは正門から少し離れた街路樹の陰に隠れた。
大使は徒歩で正門を出、大使館へ向かって歩いて行った。
(館長のお見舞い終わったのかしら?)
しかし、今朝も思ったが、今も改めて思う。
(大使って偉い人なのに、一人で出歩いたりするのね…。)
偉い人は黒塗りの外車に乗っている、というチープなイメージしか持ち合わせていない。
大使ともなれば、その身に何かあっては大変なので、ボディガードの一人はついているものとも思ってもいたが、現実はそうではないらしい。
ユリは少しガッカリしながら、バークレイを大使館まで尾行した。仄かにバークレイがこの後、何か怪しげな行動をするのではと期待したが、特に何もなく、大使館に到着してしまった。
仕方なく、バークレイが大使館に入るのを見届けてから、警視庁方面へと向かう事にした。
途中、帝都ホテルの前を通る。
然して珍しいわけでもないのに、おのぼりさんのように、ホテルを見上げながら歩く。
(は~…。
何度みても…っ!)
思いかけて、何かにぶつかった。
「あ!」
ユリは勢い余ってよろけ、足元の段差を踏み外し、危うく転びそうになった。
すぐに体勢を直し、相手の顔も見ずに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!」
恥ずかしくて頭を下げっぱなしにしていると、相手が目の前に立ち、ユリの顔を覗き込んだ気配がした。
「こちらこそ、前をよく見ていなくて。お怪我はありませんか?」
静かな男性の声だ。
恐る恐る顔を上げると、赤茶の斑の入ったグリーンの瞳の、金髪の青年が穏やかに微笑み、立っていた。
ユリと同い年くらいだろうか。
少年と見紛うくらいにあどけない、しかしとても顔立ちのよい青年だった。
「ああ、大丈夫です!」
ぼうっと見とれていたユリが慌てて答えると、青年はにこりと笑い、
「よかった。
では、急ぎますので、失礼します。」
と立ち去った。
ユリはその後姿を眺めながら、
(やっぱり落ち着きないのかしら、私…。)
と思った。
頭をポリポリとかき、再びホテルを見上げる。
そしてふと思い出して、青年を振り返った。
が、すでに青年の姿はなかった。
何故かユリは、あの青年に見覚えがある気がした。
が、その感覚すら少し不安定なもので、本当に見覚えがあるかは自信がない。
暫し記憶を探りながら歩いてみるが、結局何も思い出せず、気付けば警視庁まで来ていた。
と、場所を認識した瞬間、少し距離の離れた真正面に了の姿を確認した。
「あ。」
了は何故か、ガッカリしながらユリに向かって歩いて来る。
そして目の前まで来、いきなり「また迷ってんのか…」と言ってきた。
「違うわよ!」
ユリがむくれると、了がニヤリと笑う。
もう何度、このやり取りをしただろう。
そういえば、了がここにいるということは、匠は既に帰宅したという事だろうか。
「叔父さんはもう家?」
「ああ。」
「そ、ありがと。」
ユリは手短に礼を言い、立ち去ろうとした。が、了が「あ…」と呼び止めた。
「ん?」と振り返ったユリは、了の表情を見て、ドキリとした。
了は少しだけ哀しそうな顔をして、ユリを見ていた。
しかしすぐに困ったような顔で笑い、「いや…。なんでもない」と言うなり、踵を返して行ってしまった。
取り残されたユリは、首を傾げる。
「…? どうしたんだろ…? ヘンなの。」
思えば、朝もこんな感じだった。
何か、伝えたい事でもあるのだろうか…。
ユリは了の後姿を目で追った。
歩き方はいつもと変わりない。
姿勢がよく、実に堂々と歩いている。
その後姿は、やがて警視庁の近くにある、政府の庁舎へ入って、見えなくなった。
「あれ? そういえば、あいつ、どこ行くんだろう?」
ユリは了の入った庁舎に近付き、正門前にある置物のように形の整えられた、黒い光沢のある石に彫られた、その建物の名称を読む。
(検察庁…?)
そうだ、一昨日も了はこの建物へ向かって歩いていた。
仕事だろうか?
刑事なら検察庁へ入るのも、おかしな事ではない気もするが…。
何かが腑に落ちなかった。
が、それ以前に、自分自身がここをうろつく理由がない。
(こんなところでウロウロして、不審者扱いされたらたまらないわ…。)
そう思い、ユリは足早に事務所へと向かった。