5月1日◆9
菅野やバークレイの事は、これ以上聞いても憶測を募らせるか、はぐらかされるばかりだと思った。
そして何より、ユリの興味は依然、”男爵”にあるのは変わらない。
何でも聞いていいというので、”男爵”についても、もう少し聞いておきたかった。
「”男爵”について、まだ聞いてない事が、いっぱいありそうな気がするわ。」
「例えば?」
ユリの口から出た”男爵”という言葉に、了が少しだけ表情を固くした。
「うーん、そうね。
例えば、声を聞いた人はいないの?」
「声?」
「そう。
だって、あんたもハチ合わせになった事があるんでしょ?」
何気なく言った一言に、了が「む…」とバツの悪そうな顔をする。
その様子を逸早く察知したユリは、ここぞとばかりにからかう。
「あ、そこ痛いとこ?」
言われて、了が「うるさいよ」と不機嫌な顔をした。
「ま、着眼点はいいと思うが、残念ながら声を聞いた事のある人間はゼロだ。
俺の場合、アイツと対峙したときも、逃げたときも、声どころか息遣いすら聞こえなかった。
訓練されているのかどうかは判らないが…。
今まで現場にいて、アイツを目にした人間の中で、はっきり声を聞いた人間はいない。」
声はおろか、息遣いもか…?
そんな事があるのか?
疑問に思うところだが、人の息遣いは案外と聞こえにくいものでもある。
ユリは「ふぅん…」と相槌を打ち、「そういえば」とさらに問う。
「何で”男爵”って呼ばれてるの?」
実は常々思っていた事だが、正直”男爵”という名称は、あまり格好いいものではないと思う。
眉を目いっぱい歪めて言うユリの気持ちを了も察したようで、了は少しだけ苦笑して、説明を始めた。
「アイツがそう呼ばれ始めたのは、三〇回目の事件のときからだ。
それまでは、”四二二号”と呼ばれていたらしい。」
「”四二二号”?」
「フランス国家警察、総合情報中央局公認、重要犯罪者リスト番号。
四二二番目。
もっとも、最初は重要犯罪者だとも思われていなかったから、四二二番目にリストアップされたのも、十回目の犯行以降だがな。」
何度聞いても、ずいぶん長い事放置しておいたものだ。
「”男爵”ってのは、真っ赤な予告状、それにプリントされたマーク、そして、何より本人の格好から、マスコミが面白がってつけたニックネームさ。」
「格好? 自分で名乗ったのかと思ってたけど、違うのね。」
「そ。
黒いマント、黒いシルクハット、黒いタキシード。
顔には仮面舞踏会に使いそうな仮面を着けて、頭部のほとんどが黒い布で巻かれている。
だから表に出ているのは、口の周りと、精々仮面の隙間から見える目だけ。」
「はぁ…。マンガの世界ね…。」
ユリが呆れると、了が「まったくだ」と笑った。
「じゃあさ、目の色は見えるわけね?」
「ああ…。多分な。」
「多分?」
了の答えにしては、ずいぶんと曖昧だ。
「アイツの犯行時間は深夜が多い。
犯行予告のあった装飾品は、大概煌煌と灯りに照らされて警備されていたりするんだが、盗み出す瞬間、アイツは必ず全ての灯りを消してしまう。」
「電気消しちゃうの?」
実に単純な理解だが、そこがユリらしいと思った了が、わざと呆れて見せた。
「…まぁ、短絡的に言うとそうだが…。
ブレーカーを落とすだけの初歩的な方法から、電線や自家発電装置を壊す手法まで様々だが、兎に角アイツがものを盗み出す瞬間は、いつも暗闇なんだ。
その中で対峙したところで、見えるものは少ない。」
「たまに刑事ドラマとかであるじゃない? バッテリーに繋いだライトとか。
ああいうのは?」
「ああいうのは、じっとしているターゲットに対しては有効な照明になるが、すばやく動いたり、細かな動きをするターゲットに対しては、戦力半減以下。
役に立った試しがない。」
言われるとそうかも知れない。
そうそうピンポイントで人を照らすような事は出来ないのだろう。
「電気を消されないように出来ないの?」
「情けない事に、その辺の知識はアイツのほうが上手のようでね。
今まで、過去の犯行を踏まえて、電源やバッテリー、送電線に至るものの警備に人や設備を割いても、結局アイツは全ての光源を断つ。」
そこまで聞いて、ユリが「じゃあ」と言った。
「内部にスパイがいるんだ?」
「は?」
唐突に言われ、了がきょとんとする。
「だってそうじゃない?
いくらなんだって、個人宅ならまだしも、ある程度厳重な警備をして、セキュリティもしっかりしてる施設から、そんな風に軽々とものを盗み続けられる訳ないもの。」
ユリの意見は尤もだ。了が困惑する。が、困惑してはいるものの、了や警察とて無能ではない。可能性として内通者の存在については捜査したに違いない。
「…でもなぁ…。」
了がもごもごと呟いた。反応から察するに、都度可能性を疑いはするものの、結局該当者無しという結論になってしまっているのだろう。
ここで、それまで傍観していた匠が、ゆっくりと話し始めた。
「共犯は…。
何も毎回同じ人物である必要も、スパイ同士に関連がある必要もないよね。」
了が匠を睨んだ。
正確には、匠自身を睨みつけた訳ではない。
匠の言葉の意味に、過敏に反応しての目付きだった。
「?」
ユリは解らないようだったので、匠が補足をする。
「だからさ、例えば、去年は二回しか犯行に及んでいない訳だけど、その二回目の犯行はどこだったっけ…?
えーっと…。」
「スウェーデンのユングベリ伯爵邸です。」
いつもより数段低い声で、了がフォローする。
言われて、匠が「そうそう」と指を振った。
「スウェーデンの、例えば警備にあたっていた警察機構でも、屋敷の人間でも誰でもいいんだけど、その中にいたスパイと、今回の事件の関係者である我々の中に、関連のある人物がいる必要はないよね?
もちろん、そうである以上、各人がスパイをするだけの理由や、利益がある訳で、もしかすると、その点については、実は凄く近しい関連性があるのかも知れない。」
匠の声は、とても穏やかだった。
「”男爵”のファンって可能性は?」
「うーん…。
そこまで議論で遊びたくはないが、でも〇%と否定するには、情報がなさ過ぎるよね。」
ユリの問いに匠が答えると、了が口に手を当て、考え込んでしまった。
匠がさらに続ける。声は穏やかに、表情は面白そうに。
「もしかすると、元々はスパイとしてこの美術館に配属された人間ではないかも知れない。
予告状が届いて、もしくは届く前に何らかの方法で、次に狙う場所がここだと知ったかはわからないけど、”男爵”が『盗む』とアクションを起す前の段階で、既にこの美術館で働いていたり、警視庁にいて、この捜査を担当する部署に配属されている可能性だって、あるかもしれない。」
そんな訳が…と突っ込もうとするが、匠の言葉は微妙な間を空けながら続く。
「事件ありきのスパイではなく、本当に偶然、ここを”男爵”が狙ったためにスパイになってしまった人が、ここの関係者にいるかもしれないね。
という事で、蕪木クン。」
「はい。」
呼ばれて、了が考えるのをやめた。
姿勢を正し、匠を真っ直ぐに見ている。
「ここまで言えば、大丈夫かな?」
「はい。大丈夫です。」
やり取りの意図が見えない。
ユリが怪訝な顔をすると、匠がニヤリと笑った。
「よかったな、ユリ。
蕪木クンが、バークレイ一家の家族旅行について調べてくれるそうだよ。」
「…は?
どうしてそういう事になったの?」
そもそも、いつなったのだ…。
ユリがもっと怪訝な顔をすると、了が苦笑した。
「まぁ、わからんわな…。
要人の調査には、それ相応の根拠がなければならないと言っただろ?」
「うん。」
「今の話で、芳生さんは、この美術館の関係者全員に、スパイ容疑をかけたんだ。」
了の説明に、「うん」と頷いては見るが、まだよくわからない。
ユリは暫く呆けた後、いきなり理解した。
「………あ、そうか。」
美術館の関係者には、バークレイも含まれるのだ。
「え? でもさ…。
なんで叔父さんなの?
あんたが提案したって事にすればいいんじゃないの?」
すると匠が、「ま、その話は追々な」と言った。
「なによ、また秘密!?」
ユリがふくれると、匠は大笑いをして誤魔化した。
一方で居ても立ってもいられないと、了が立ち上がった。
「では、ボクは捜査の手配をしてきますので…。
今日は、戻れないかも知れません。」
「そうか。
これ以上は情報もなさそうだし、僕らも帰ろうか、ユリ?」
「え?
そんなテキトーでいいわけ?」
確かにここにいても、出来る事は少なそうだ。
勝手に机を漁るわけにも行かない。
ユリが聞くと、匠が「大丈夫だろ」とニヤリと笑った。
「叔父さんがいいっていうなら、いいけど…。」
そう言いながら頷くと、立ったままやり取りを眺めていた了が「送りましょうか?」と言った。
「あ、お願いしようかなぁ。」
匠が調子よく答え、立ち上がった。
ユリはこのまま真っ直ぐ帰るのも勿体無い気がしたので、「まだ明るいし、私は歩いて帰るわ。」と答えた。
「そうか。
気をつけて帰るんだよ。」
言いながら早々に館長室を出て行く匠に、「うん」と頷く。
続いて退室しかけていた了も、笑いながら「気をつけろよ」と言った。
笑っているのが気になったのだが、ユリが素直に「うん」と言いかけると、了がすかさず「迷子に」と付け加えた。
「うっさいわよ!」
ユリの反応に、了は満足気にニヤリと笑って出て行った。
やりっぱなしにされたユリは、暫く頬を膨らませて不貞腐れたあと、よいしょとソファから腰を上げた。