5月1日◆6
いつの間にか稼動していたエスカレータを使って、一階へ降りる。
「そういえば、菅野館長、どうだった?」
ユリが訊ねると、前に乗っている了が、振り向きもせずに答える。
「検査はどれも特に異状なし。
ちょっと腹部がまだ痛むらしいけど、内臓にも影響はなかったらしいし、打撲の痕が消える頃には、痛みもなくなってるだろうって。」
どういう経緯で襲われたかはさておき、その程度の怪我で済んだのは幸いと言うべきだろう。
「そっか。よかった。犯人については?」
「ん?」
了が口篭った。
「うん…。」
「…何? 見てないの? 犯人。」
さらに聞くと、了は少しだけ首をこちらに向けて、すぐ戻した。
表情までは見えなかったが、戸惑っているようだった。
「いや…。」
「何よ? 私は聞いちゃいけない事?」
口には出したが、ユリにも解っている。
もしそうなら、即答する筈なのだ。
「そういうんじゃないんだが。判断しかねるところでな…。」
煮え切らない了の答えに、ユリは眉を顰めた。
それから了は、「芳生さんと会ってから、話すよ」と言ったきり、口を閉ざしてしまった。
程なくして到着した館長室は、ユリが出たときのままの状態で、匠の姿も見えなかった。
「あれ? 叔父さん、まだ帰ってきてないのかな?」
ユリが言うと、了が神妙な顔をする。
「どこかへ行ったのか?」
「うん。
大使を病院に送るって、さっき出てったのよ。」
「病院に?」
そう言って、了は顎に手を当て、考え込んだ。
「聞いてないの?」
「ああ、予定では、今日は一日美術館にいて、職員と美術品の確認をするって話だったんだが…。」
ユリがバークレイから直接聞いた話とは、ずいぶん違う。彼は、病院に行く前に探し物があるので、美術館に来たと言っていた。
「そうなの?
あ、そういえば、館長室でちょっと怪しげな感じだったけど、何か関係ある?」
ユリが、今朝大使が探し物をしていたと思われるデスクを見ながら言うと、了が「どんな風に?」と問うた。
「うーん。
なんかね、探し物があるけど、人に見られたくないものだからって言って…。
私たちは一旦部屋を離れたんだけど、途中で戻ったら机で何か探してて、見付けたみたいなんだけど、隠しちゃったのよね。」
箱のようなものが見えた事は、伏せた。
内緒にしておきたかった訳ではない。不確実な情報であるので、出さないほうがよいと思ったのだ。
振り返ると、了は無言のまま、ユリの視線に倣ってデスクを見つめていた。何か考え事をするときにする、鋭い目付きだ。
そのままソファに腰を下ろし、睨み続ける。
ユリも了の向かいのソファに座り、暫し黙って了を見つめていたが、それも耐えられなくなった。
「…ねえ。」
恐る恐る声をかけると、了の表情があっという間に元に戻った。
「ん?」
「叔父さんが言ってたわ。あんたが大使を疑ってるって。
この事も私には話せない?」
今朝、美術館にバークレイが訪れるという事に対して了が抱えている疑問や疑い。ユリのような素人が首突っ込んでよい訳がない事くらいは承知している。
それでも聞きたいのは、了と何かを共有したいという無意識から来る感情なのかもしれない。
ただそれだけの事で、という後ろめたい気持ちも、ない訳ではない。
訊ねるユリに、了が困惑の表情を浮かべた。
「もしかして、昨日の夜、クレアが怒っていた事とも、関係があるんじゃないの?」
言葉にする事で、確信へと変わる。
どんなに了が知らぬ存ぜぬと隠しても、きっと、そうなのだろう。
ユリが堪え切れず顔を強張らせると、了はやれやれと言った表情で苦笑いをし、呟いた。
「あまり、余計な事に関わらせたくないんだよなぁ…。」
しかしとても小さな声だったので、聞き取れなかったユリが「ん?」と聞きなおすと、了はさらに苦笑して「いや…」と首を振った。
「俺の捜査に差し障りがあったら困るから、詳しくは話せないなぁ、と言ったの。」
聞き取れなかった上に、こちらのほうが了らしい理由だったので、「…まぁそうね、当然だわ。」とユリも納得した。
すると、了がニヤリと笑った。
「お、物分かりがいいな。」
馬鹿にされてむっとはしたが、自らも言ったとおり、当然の理由だ。
「当然でしょ。
今回の私の仕事は、”男爵”から”紅い泪”を護る事だもの。
大使が怪しいとか、そういうのは専門家に任せればいいわ。」
言うと、了が吹き出しそうになるのを必死に堪えて、「いい心がけだ」と言った。
「無理やり納得してるのよ!
ほんとはすっごく知りたいんだから!」
ユリが膝をトンと叩くと、了がまた苦笑した。
「悪いな。立場が立場だけに、俺から話せる事は結構少ない。」
「いいわよ。」
本当はよくない。
だが、我が侭は、やはり言えない。
野次馬心が完全に退いた訳ではないが、困らせたところで何がどうなる訳でもない。