5月1日◆5
ラウンジを後にし、セレモニー・ホールを覗き込んだ。
すっかりブルーシートは外れていて、豪華な装飾の施された柱や窓が露わになっている。
その窓を眺めていると、斜め上の方、ちょうど庭に真正面に向く壁の天井付近に、カーテンに隠れた小さな窓があることに気付いた。
近付き、カーテンを除けると梯子がついていて、窓まで昇れるようになっていた。
ゆっくり梯子を昇り、窓までたどり着くと、窓は思いのほか大きく、窓辺はユリくらいの体型の人間なら座れるくらいの広さがあった。
ユリは窓辺の足場に腰を下し、窓から外を覗くと、六角塔の屋根が真下に見えた。
「屋根上へ出られるようになってるのね!」
梯子がカーテンにすっぽりと隠されていたから、恐らく普段は使用禁止なのだろう。
しかし…。
「いい眺めねぇ…。」
ユリは溜め息をついて、窓に凭れた。
柔らかな朝日に照らされて、中庭の芝生に付いた朝露が輝いている。
遠くに見える高層ビル群が、朝靄の所為で空と同化しそうになっている。
「退屈したら、ここに来ようかしら。」
口に出して、いいアイデアだと思った。
ユリは暫しぼうっと景色を眺めたあと、もう一度溜め息をついて、中庭を見下ろした。
ガヤガヤと声がして、警官と刑事と思われる人物の数名が、美術館を出て行くのが見えた。
捜査がひと段落着いたのだろうか。
ユリは注意深く梯子を降り、エスカレータを下って二階へ下りた。
案の定見張りの警官数人がいるだけで、二階はすっかり人気がなくなっていた。
今だとばかりに特別展示室に入る。
やはり南向きの特別展示室には眩い朝陽が差し込み、昨日はブルーシートで見えなかったが、部屋の中心にある円形の舞台が、まるで演劇舞台のようだった。
ベランダに出ようと窓に手をかけるが開かないようで、窓越しにベランダの足場を覗き込む。
昨日はここで、菅野のカフスを見つけたのだ。
そして当の菅野は、このベランダの真上の屋根の上で、気絶していた。
カフスが落ちていたのは、ここで揉み合ったからなのだろうか。
しかし、監視カメラの映像には、揉み合った様子は映っていなかった。
だったら、屋根上に運ばれたときに落ちてしまったのだろうか。
そして、暗闇の中に映った二つの人影は、館長と犯人のものだったのだろうか。
犯人は菅野の顔見知りか?
それとも、あの人影は二つとも犯人のものなのか…?
だとすると、犯人は複数なのか? しかし、ほかの時間に人影が映った映像はなかった。
(…難しいわね…。館長の証言ですべてはっきりするんでしょうけど。)
展示会まであと三日。
男爵は来るのか…。本当に”紅い泪”を盗み出す気なのか…?
(私たちはちゃんと守れるのかしら…?)
「不安だな…。」
思わず声を漏らすと、背後から声がした。
「不安になっちゃったか?」
「!」
驚き、振り返ると、了が立っていた。
いつもどおり眠そうに、そして少し、ニヤリと笑って。
「また迷子かと思ったけど、大丈夫そうだな。」
「な…っ、大丈夫よ! 失礼ね!」
嫌味でも言ってやろうかと思っていたのに、いざ目の前にいると、安心して何も言えない。
ユリがぐっと言葉を飲み込み、頬を膨らますと、了がふふんと笑った。
「職場に行ったんじゃなかったの?」
まだ機嫌が戻らない、というむくれた表情のままユリが問うと、了がすっと真顔になった。
「思いの外、用事が早く済んだ。」
「病院は?」
「行って来た。」
「早いわね…。」
ユリが言うと、了が怪訝な顔をした。
「早いわねって、お前、今、何時だと思ってるんだ?」
「え? まだ十時になってないんじゃないの?」
答えると、了が額に手を当てた。
「時計くらい持ち歩けよ。もう昼過ぎだぞ。」
「えええ!!!?」
そんな長時間ウロウロしていたのだろうか。もしや、セレモニーホールの窓辺で眠ってしまったのでは…。
ユリがショックで絶句していると、了がニヤリと笑った。
「もうちょっと体内時計を鍛えたほうがいいんじゃないか?」
「うっさいわね!」
からかわれ、拳を握り締めて抗議する。
が、やはり嬉しくて、安心してしまって、それ以上抗議する気にもならない。
いつの間に、こんな風になってしまったのだろう…。
抗議が止んだのを確認して、了が館長室に戻ろうと提案した。
ユリは当然素直に従う。
相変わらず早足の了のあとを、ユリが少し小走りで追う。
高い身長と、大きな背中と、すらりとしたバランスのよい肢体と、さらさらと揺れる髪。
見上げて追いながら、ふとまた小指に目をやる。
傷はなくなっていて、その代わり、赤いインクが付いていた。
今日はきっと、もうどこにもいかない。
傍にいてくれる。
そう思い、ユリはそっと胸を撫で下ろす。
このまま、もう何もなければいい…。
何もなければ…。