5月1日◆4
あれだけ低頭していたにも拘らず、匠はノックもせずに館長室のドアを開けた。
「大使…。」
突然ドアが開いたので、デスクで探し物をしていたバークレイは大層驚いて、デスクの上にあったペン立てに手をぶつけ、豪快に倒した。
「っ…!」
が、偶然バークレイの手元を見ていたユリは、その瞬間に彼が何かを後ろ手に隠したのを見た。
「…と、まだ終わってませんでしたか。失礼しました。
もう一度出ますので…。」
匠がぼりぼりと頭を掻きながら退室しようとすると、匠の背中にバークレイが声をかけた。
「いや、いい。
ちょうど見つけたところだ。」
そう言って、後ろに隠した手を、するりとポケットに突っ込んだ。
(何隠したのかしら…。)
自慢ではないが、動体視力はよい。
手を後ろに隠す瞬間、遠目にも見えたのは、白い小さな箱のようなものだった。
「そうですか。
では、病院へ向かわれますか? お迎えがないようでしたら、刑事が何人かおりますから、送らせますが…。」
匠が言うと、バークレイが頷いた。
「ああ、そうだな。頼むよ。」
バークレイの返事に、ユリが小さく首を傾げた。
大使ほどの人物が、迎えもなく移動をするのか…?
そもそもここへはどう来たと言うのだろう?
歩いてか?
ユリの疑問を他所に、匠が答える。
「わかりました。
じゃあ、ユリ、留守を頼むよ。」
「はーい。」
ユリが返事をすると、匠とバークレイは館長室を出て行った。
すれ違い様、バークレイがユリを一瞥した。
バークレイを目で追っていたユリと、視線が合う。ユリは悪戯のばれた子供のように肩を竦め、俯き加減でバークレイを見上げ、バークレイは表情一つ動かさず、早々にユリから目を離した。
まるで取るに足らないものを見たかのように。
ドアが閉まると、息を止めていたユリが大きく溜め息を吐いた。
「はぁ…。ずいぶん横柄な大使さんです事…。」
首をぐっと下げると、首筋が痛んだ。
相当に緊張していたようだ。すっかり凝って、今更ながらに攣りそうになっている。
ぐるりと首を回すと、ぐにゅ、と奇妙な柔らかい音がした。
「しっかし、何探してたんだろう。慌てて隠してたのは箱みたいだったけど…。」
首を解しながら、デスクに近付く。
ペン立てが倒れたままなので、元に戻した。
デスクの上はそれ以上散らかってはいないので、探し物は引き出しの中にあったのだろう。
念の為、いくつか引き出しを開けてみるが、漁った様子は見受けられなかった。よほど丁寧に探したのだろう。
匠の忠告ではないが、これ以上の詮索は無理な気がして、引き出しを閉め、ソファに腰を下ろす。
窓の外はやっと”早朝”ではなく”朝”という明るさになった。
何の事情かは知らないが、何故ここまで早く館へ向かわなければならないのか…。
館内は空調と、微かな足音以外、何も音がしなかった。
人気を感じない訳ではないが、寝静まった朝方の家によく似ている。
空気は透き通っているのに、重く冷たい。
ぼうっとしていると耳鳴りがした。きっと静か過ぎるのだ。
「じっとしてるのも退屈だし、一周りくらいの間なら、ここを空けても大丈夫でしょ。」
伸びをしながら立ち上がると、足早に館長室を出、エントランスへ向かう。
南向きのエントランスは、清々しいほどに朝日が差し込んで、床がキラキラと光っていた。
一昨日、ここでクレアを初めて見た。
長い髪を靡かせて歩くクレアは、とても綺麗な人形のように見えた。
そのクレアを、鋭い視線を向けて追う了の横顔も、思い出した。
あのとき、了の表情から感じた事、今思うと、間違いではなかったと思う。
了はあの時点でクレアの過去も知っていて、クレアがこの美術館を訪れる事を待っていたに違いない。
それは、了が追う”何か”についての情報を得るために必要な事だったのだ。
ユリは、ふぅ、と息を吐いて、まだ動いていないエスカレータを昇った。
二階は警官や刑事が多かったので、そのまま三階へ向かった。
三階はまるで人気がなく、灯りも最低限しか点いていないので、少し暗かった。
ラウンジを覗くと、偶然見てしまった了の横顔を思い出す。
あの寂しそうに、苦しそうに歪んだ横顔を。
あの手に握られたロケットは、了にとって、どんな存在なのだろう…。
了は、いつ来るんだろう…。




