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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月1日
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5月1日◆2

「じゃあ、行ってくるね!」

 事務所のビル下まで見送りに出て来たクレアに、ユリが声をかける。

「蕪木クンに、病院を出るときにクレアさんに連絡を入れてもらうよう言ってあるから、おじさんの具合については、その電話で聞くといい。」

 匠が言うと、クレアは「はい」と言って頷いたあと、「あ、ユリさん!」とユリを呼んだ。

「ん?」

 駐車場の方角に顔を向けていたユリが、クレアに振り返る。

「手のひら、貸してください。」

 クレアが物をねだるように、手を差し出してきた。

「手のひら?

 …はい。」

 おどおどとクレアの手の上に自分の手を、手のひらを上にして乗せると、その手のひらに、クレアが指先で何か描き始めた。

 形は把握出来ないが、指の動きや感覚から、同じ形状のものを何度か繰り返し描いているようだった。

「?」

 ユリが首を傾げると、クレアは手のひらを見つめたまま笑って、

「”エル・シ”のおまじないです。」

と言った。

「”エル・シ”?」

「はい。

 ”エル・シ”は、シリングの神話に出てくる天使の名前です。

 その昔、シリングに雨が降らず、人々が雨を願ったとき、雨の神様が意地悪をして、シリングの土地を水浸しにしてしまったんです。

 そのとき、水を退かせ、雨の神様を叱り、シリングの人々を守護すると約束してくださったのが、”エル・シ”です。」

 国土の多くが砂漠地帯だというシリングで、『雨を止ませる天使』が好意的に語り継がれている事に、ユリは少し疑問を持った。

 が、他国の神話に文句を言う筋合いはない。

「ふぅん…」と言うと、クレアが続けた。指はまだ、動いている。

「シリングでは、安全や幸せを願うとき、”エル・シ”の印である天使の羽を、手のひらに書くんです。

 だからこれは、ユリさんの安全を願う、おまじないです。」

 言い終わるのと同時に、指が止まった。

 おまじないは終わったようだ。了の車もやって来た。

「…ありがと。じゃあ、今日は”エル・シ”に護って貰うわ。」

 ユリが笑うと、クレアもにこりと笑った。

「はい。」

 クレアの声に被るように窓が開き、「お待たせしました」と了の声がする。

 振り返り、匠が前に倒した助手席を跨いで後部座席に座る。

「行ってきまーす。」

 車内で手を振ると、クレアも手を振り返した。

「行ってらっしゃい。」

 車がゆっくりと静かに、クレアの横を過ぎ、大通りへと発進した。

 クレアは車が見えなくなるまで、事務所の前で手を振り続けていた。

 大通りに出て暫くして、それまで無言だった匠が口を開いた。

「しかし、いいのかい、蕪木クン?

 今日こそ、美術館にいたいんじゃないのかな?」

 真後ろにいるユリには見ることは出来ないが、声の調子から、いつものヘラヘラした匠ではない気がした。

 匠の言葉に、了も普段より低い声で答えた。

「いたいですよ。だから可能な限り、合流するつもりでいます。」

「職場の用事は、他に任せられないのかい?」

「そうしたいところなんですけど…。ボク以外にやれる人間がいなくて。」

 そこまで聞いて、ユリが口を挿む。

「ねぇ? 何で『今日こそ、美術館にいたい』の?」

「秘密。」

 了が即答したので、ユリが口を尖らす。

「なによ…。」

「行けば解るさ。美術館にいるんだから。」

「絶対解らないと思うわ。」

 了の付け足しにユリがむくれると、ミラー越しに了がニヤリと笑った。

「頭悪いからか?」

「失礼ね!!」

 そのやり取りに、匠はいつもどおり大笑いをした。

 そして、間もなく美術館の正門に着いた。

「着きました。」

 了が車を停めると、素早く匠が降り、座席を倒す。

「ありがとう、今日も助かった。」

 ユリが降りるのを待って、匠が席を戻しドアを閉める。

 了が運転席から助手席の下ろした窓の向こうの匠を覗いた。

「では。何かあったら、美術館のほうに連絡しますので。」

「うん。」

 匠は頷き、左手を軽く上げて、美術館へと歩き始めた。

 ユリも匠について歩き出し、少し振り返って「じゃあね~」と手を振ると、了が慌てて呼び止めた。

「ユリ。」

「ん?」

 立ち止まり、よく見ると、了は困惑した表情を浮かべていた。

 暫し了の言葉を待つが、何かを躊躇っているのか、何も言わない。

「……。」

「……なによ…?」

 痺れを切らしたユリがわざと不機嫌な顔をすると、了は苦笑し「…いや、なんでもない…」と答えて、運転席で座りなおすと、走り去ってしまった。

「…?」

 首を傾げつつ振り返ると、匠の姿は既になく、ユリは慌てて美術館へ向かった。

 何を言おうとしたのだろう。

 昨日から何か変だ…。

 何か訊ねても、今まではただ単純に部外者のように扱われただけだと思っていたのに、昨日は明らかに何かを隠していると見え見えで、そして隠し切れずに見えてしまった部分を、了や匠が慌てて隠していた。

 了に於いては決して深く知る仲ではないが、了も匠も、隠すべき事を迂闊に隠しそびれる事自体に、無縁の人物のような気がしていた。

 だから違和感がある。

 自分を包む世界が、急にバランスを崩したような気がする。

 今日もその延長なのだろうか。

 隠し事の幾つかは、いつか教えてくれる、と約束したが、果たしてそれは守られるのだろうか。

 不安に思えてくる。

 自分を取り巻く状況にも、交わされた一つ一つの言葉の確実性に対しても…。

 加えて、あんな事があった昨日の今日なのに、了が近くにいない。

 まったくそんなつもりはなかったのに、こんなに心が依存していたのか、と自分でも驚くほど、了がいないという状況に心細さを感じている。

 からかわれ、清々するとムキになった事を後悔するほど、手元がすかすかとし、足元が不安定に揺れている気がする。

 しかし一方で、そう思う自分が許せない。

 もし了が、今日美術館に来たら…。

(泣くほど嫌味言ってやる…)

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