4月30日◆16
部屋を出るなりすっかり疲れ切っている事に気付きながら、ユリは無意識に足音を消して階段を下りていた。
今日は本当に色々な事が続いた…。
脳はいつの間にか考える事をやめてしまっていた。
ぼうっとしながら階段を下りていくと、今度は了の声が、居間から荒く上がった。
「ボクは反対ですよ!」
ユリはどきりとして、歩みを止める。
(ん?)
そのまま足音を立てずに、居間に向かい、何故か少し開いたドアの隙間から中を覗くと、了が匠に詰め寄っていた。
今度は何事だというのだ…。
了の顔は焦りと困惑でいっぱいで、必死に匠を責めていた。
「この件に関わることだって、刺激が強すぎると思ってるのに、さらに親を殺した犯人の事まで教えるなんて!」
(…え!?)
ユリは、びくっとしてドアから身を離した。
(…ナニ…? 何の話…?
親を殺した犯人…ってナニ…?)
「でもね、蕪木クン…。」
言いかけた匠を、了が遮った。
「芳生さんがどう考えていようと、ボクは反対です!」
了の声とは釣り合わない余裕の声で、匠が笑った。
「蕪木クンは相変わらず頑固だなぁ。」
「笑い事じゃありませんよ!
あんな繊細な子が、親殺しの話を聞いて正常でいられる筈がないでしょう!」
続けて聞こえた了の言葉に、ユリはパニックになった。
(『繊細な子』って…、クレアの事…?
クレアの親を殺した犯人って事…?
それって…、お母さんは殺されたって事…?)
腰が抜けそうだ。
とんでもない話を聞いてしまったのではないだろうか。
ユリは、ショックで洩れてしまいそうな声を殺して、階段へと引き返した。
風呂どころではない。
(ど、どうしよう、部屋に戻って…。)
階段下まで行って手摺りに凭れると、あろう事か手摺りの木が軋んで、大きな音を立てた。
(…!)
あたふたと手を離すと、居間のドアが勢いよく開いた。
見ると、了が強張った顔でユリを見ていた。
「!!」
聞いていた事を、知られてしまったか…?
体の向きとしては、都合のよいことに、今階段を下りてきたばかりと言う状態になっていた。シラを切れば、誤魔化せるだろうか。
了はただ強張ったままの顔で、ユリを見つめている。
「…。」
「か…蕪木さん…。
ど…どしたの?」
平静を装って笑ってみたが、変な笑顔になってしまった。
了の顔が、みるみる困惑していく。
「いや…。」
そう言って、廊下に出、居間のドアを後ろ手に閉めると、手持ち無沙汰に手を見つめながら、ユリに歩み寄った。
向かい合って立つと、今までの印象以上に背の高いことに気付く。
普段は、ユリがヒールの靴を履いているから、その差なのだろう。
改まって見つめ合って、何だか居心地が悪くなる。
「…ああ、クレアの事、心配した?」
ユリが話を逸らすと、立ち聞きに気付いて見に来たのだと思っていた了から、意外な返答が返ってきた。
「いや……、オレが心配したのは…。」
もごもごと、了は言いながらユリを見る。
その意味は、明白だった。
「…え、私?」
驚くと同時に、ほっと胸を撫で下ろす。
(よかった…。立ち聞き、バレてない…。)
暫く見つめ合うと、了が不意に目を逸らした。
クレアの事があったからだろうか、了らしからぬ態度に思えた。
「ねえ…。」
ユリが声をかける。
呼ばれて、了がユリに視線を戻した。
「ん?」
いつもの眠たそうな目の奥に、まだ少し、戸惑いが見えた。
「私に、詳しく教えられる事?
さっきの、クレアの事。」
ユリが訊ねると、了が口を噤んだ。
「…。」
そしてまたユリから視線を外し、悩んだあと、困った顔をしてユリを見た。
「すまんが、状況によっては、絶対に教えられないかも知れない。
お前に教えるかどうするか、オレと芳生さんで意見が分かれてる。」
「って事は、やっぱりクレアに関係ある事なのね?」
クレアには関係ないと説明したが、やはりそうなのか。
だが、何故クレアの事を調べているのだ…。
ユリが目で問いかける。了は頷き、ユリの考えている事を察したかのように答えた。
「ああ。それだけは、伝えておく。
そして、安易に公開出来ない内容だという事も。
ヒントを言っておくと、『”男爵”の事件とどう繋がるのか、そもそも繋がらないのか、その見極めも出来てない』。」
つまり、クレアもが、”男爵”の関係者と見ているという事か。
と言う事は、クレアの父親であるバークレイも、そうだという事なのだろう。
真実は未だ謎だが、全ての人物が、関係者として繋がってしまった訳だ。
言い難そうに話す了の顔は、夕暮れ時に見た、あのラウンジでの表情によく似ていた。
多分、辛いのだ。
ユリに話す事がそうなのか、クレアを調べる事がそうなのかは解らないが。
「わかったわ。無理には聞かない。
でも、いつか教えて。『教えられないかもしれない』じゃなくて。」
ユリが言うと、了が俯いた。
そんなに言い憚られる事が、クレアの過去にあったというのかと思うと、ユリも辛くなる。
しかし、だからと言って、知らないままではいけない気がした。
黙る了に、ユリが一押しした。
「私は、あの子のお姉ちゃんだから。教えてね。」
『お姉ちゃん』という単語に、了が観念した。
「…わかった。約束する。」
苦笑して、答える。
「ありがと。」
ユリが微笑み返すと、了は苦笑いのまま頷いて、居間へと戻っていった。
ユリは廊下に佇み、思う。
彼はきっと、色々な距離や存在を守ろうとしているのだろう、と。
実はとても優しくて、勘が鋭いのだ。故に、様々な事を見抜いてしまうのだ。
だから見なくていい事も、聞かなくていい事も、知ってしまい、辛い思いを抱かなければならなくなる。
しかしそれだけでは終わらず、その得た全ての事を、守ろうとしているのではないか、と。
その中に、ユリ自身も確実に含まれているのだろうと思う。
だが何故、自分をも守ってくれるのだろう。
そう思うと、よく解らない。
何か、忘れている事はないのだろうか。
クレアと同じように。
もしかして、了に関する何かを、忘れているのではないだろうか…。