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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
4月30日
34/87

4月30日◆15

 ユリは今日一日を振り返る。

 あんなに大変なことがあったのに、もう落ち着いてしまっている自分に驚く。

 菅野が襲撃された事、ユリが拾ったタイピンの謎、監視カメラの不可解な映像。

 それらが繋がっているような気がしてならない。

 何の根拠もないのに、目にした様々な情報が、一本の糸で繋がっているような気がするのだ。

 でも、その糸はあまりに細くて、辿ることが憚られる。

 自分ごときが触れてしまえば、すぐに切れて、一切の解決を見ないまま、闇に葬られてしまうような気もするのだ。

 北代が言っていた。

 菅野は”男爵”の関係者だという可能性が高いと。

 了も言っていた。

 菅野は”男爵”の関係者だと思っていると。

 菅野が、”男爵”と何がしかの繋がりを持っている…。

 それは顔見知りと言う程度のものに留まるのか、それとも、これまで数え切れないくらいの事件に関わるほどの深いものなのか。

 加えて、”男爵”と知り合ったのなら、その切欠は何だったのか。

 もしかしたら、菅野が一連の”男爵”による事件の首謀者なのではないのか?

 否、もしかして、菅野本人が”男爵”ではないのか…?

 取り止めのない思考が深みに嵌って行く。

 疑わしいと思えば思うほど、疑いは現実のものへと成りすましてしまう。

 架空の現実感を伴って、ユリの思考に居着いてしまう。

 ならば、あの”小部屋”は偽装工作(フェイク)なのか?

 ”男爵”の予告以前に”小部屋”の導入を菅野に勧めていたと言う、飛澤やその警備会社はどうなのだ。その事実を知っているのか?

 否、あの”小部屋”を勧めた飛澤たちこそが、”男爵”の関係者なのかも知れないではないか。

 そういえば、飛澤には今日は会わなかった。

 聞けば、本社に呼ばれていたというが、最新鋭のセキュリティを導入していると言えど、警備員一人に警備を任せることなど、果たして在り得る事なのだろうか。

 あの美術館の関係者たちの顔が、頭の中を駆け巡る。

 病弱な顔の張り付いた痩せ細った菅野、傲慢を絵に描いたような北代、如何にも体育会系な飛澤、笑い顔の絶えない匠、いつも眠そうな了、顔の見えない”男爵”…。

 了…。

 そうだ、了…。

 了も謎だ。

 了の住むマンションを見て、益々正体が判らなくなってしまった。

 ”本部長”とは何なのだ。高遠の事なのか?

 了の、”男爵”に関する知識は、匠が一目置くほどのものだと思える。

 了の話の中で、”男爵”を専門に捜査する公的機関があると言っていた。

 了はその機関の関係者なのだろうか?

 だとしたら、所謂、専任捜査官というものなのだろうか…?

 ……。

「クレア、遅いな…。」

 気付いて時計を見ると、クレアが部屋を出て既に四〇分が経っていた。

 ユリはむくっと起き上がると、耳を澄ませた。

 シャワーの音が聞こえない。風呂場で何かが動く音も。

 居間でみなで話でもしているのだろうか。

 ユリが居間へ向かう事にし、ドアを開けた瞬間、下の階でクレアの声が聞こえた。

 それは何かに切羽詰り、哀しみと怒りの篭った声だった。

 急いで階段に向かいながら、その声を聞く。

「教えて下さい! 何故教えてくれないんですか!?

 私の事でしょう!?」

「クレアさんの聞き違いだよ。」匠の声が聞こえた。

「そんな事ないわ!

 十年前、純公園での出来事、菅野のおじさま、私のお父様、私の話以外ありえない!」

 匠の言葉に、クレアの声が一層大きくなった。

 ユリは足を速めて居間へ向かった。

 三階の居間のドアは開きっぱなしで、クレアの後姿が拳を握り締め、震えている。髪は濡れて、恐らく先程まで本当に風呂に入っていたのだろう。出たところで、居間からただならぬ話が聞こえ、聞き流せずに詰め寄ってしまった、と言ったところだろうか…。

「ちょ…、ちょっと…。」

 クレアに歩み寄ると、匠の隣で困惑し切った表情を浮かべた了が、「ユリ…」と呟いた。その言葉に、クレアが勢いよくユリに振り返る。

「ユリさん! ユリさんも知ってるの!?」

「え!? な、何を…?」

 クレアの表情は、普段からは想像出来ぬほど歪み、強張っていた。

 目を見開いて、息が上がっている。相当興奮しているようだった。

「とりあえず、落ち着くんだ、クレアさん。」

 了が声をかけるが逆効果だったようで、「落ち着いています!」とクレアの声が叫びに近くなった。

「教えて下さい!

 十年前、あの純公園であった本当のことって、一体何なんですか!?」

「なにそれ?」

 十年前、菅野、クレアの父親両名の名が挙がり、純公園であった本当と言われる事とは何だ…?

 もしかしてそれは、クレアがなくしている記憶に関係があるのではないのか…?

「どういう事?」

 ユリも問うと、匠が弱弱しく「ユリ、頼むよ…」と言った。

「えっ!? ど、どうすれば…。」

 突然言われ、ユリが戸惑うと、玄関のドアが開き、閉まる音がした。

 そしてゆったりと居間に向かってくる足音が聞こえ、「まったく、何の騒ぎ…?」と声がした。

 カナエだ。

 事務所の点検をしに二階へ降りていたのだろう。クレアの声が聞こえ、何事かと戻ってきたに違いない。

「カナエちゃん!」

 ユリが振り向き、「カナエ、頼む…」と匠が遠くで泣きついた。

 おろおろとする匠たちを見て、カナエが苦笑した。

「まったくもう…。」

 そして徐にクレアに近付くと、ぐっとクレアを抱き寄せる。クレアの顔は、カナエの胸にすっぽりと埋められてしまった。

「っ…!」

「クレア。

 ちょっと落ち着きなさい…。」

 抱きしめながら、カナエが静かに言う。

「おばさま…。」

 不意を突かれ、勢いが鈍ったのか、クレアの声も小さかった。

 そんなクレアに、カナエは小さく囁く。

「いい?

 慌てなくても、ちゃんと教えてくれるわ。あなたに本当に必要な事ならね。

 でも、大人が内緒話をしているときはね、あなたのためにならない事、あなたが知ってはいけない事を話している、そんなときよ。

 そういうとき、無理に聞いてはダメ。心が壊れてしまうから。

 ね…?」

「でも…。でも…、私知りたいんです。

 私が忘れてしまっている事…。思い出さなきゃいけない気がするんです…。」

 カナエの胸元に埋まり、篭ったクレアの声は、涙声になっていた。

「なら、余計焦ってはダメよ。

 知りたくても、知ってはいけない事だってあるんだから。

 神様はね、ちゃぁんと、あなたに必要な事だけを、あなたに伝えてくれるように、みんなを動かしてくれるから。

 じっと待ちなさい。今、あなたの話をしていたのだとして、その話をみながしてくれないのは、あなたを守りたいからよ。

 その気持ちは、無碍にしてはダメよ。」

「おばさま…。」

 だいぶ落ち着いてきたようで、クレアの声からは、すっかり力がなくなっていた。

 カナエは畳み込むように、「わかった?」と問い、抱きしめる手にさらに力を込める。

「…はい……。」

 クレアの返事を聞き、ユリがほう、と溜め息を吐いた。

(さすがカナエちゃん…。)

 ユリ自身も経験がある。

 カナエは説得するのが、妙に巧かった。

 一呼吸置き、カナエが腕の力を緩めると、クレアがふらふらと体勢を直した。瞼が腫れ、頬が紅潮している。その顔で匠を見、俯いた。

「ごめんなさい、みなさん…。」

 クレアが謝ると、匠が弱弱しく笑った。

「いやいや…。

 すまなかったね、誤解を与えるような発言があったのかもしれない。

 クレアさんがいる事を留意しなかった僕らが悪いよ…。」

「…。」

「今の話はね、直接クレアさんに関る事ではないんだよ。

 僕らも、情報の一環として、『らしい』という程度の話しか知らないんだ。

 だから、それを話す事も、少し憚られてね…。」

「そうだったんですね…。

 ごめんなさい、取り乱してしまって…。」

 匠の弁解に、クレアが頭を下げた。憑き物でも堕ちた様に憔悴して、今にも倒れそうだった。

 カナエが、ぽんと、クレアの肩に手を乗せた。

「ほらほら、誤解は解けたんだから、今日はもう寝たほうがいいわ。

 ユリ、部屋に連れてってあげて。」

「うん。

 クレア、いこ?」

 ユリが手を伸ばすと、クレアが「はい…」と握り返した。

 クレアの手は、小刻みに震えていた。

 血の気が退き、風呂上りと思えないほどに冷え切っている。

 みなが見送る中、ユリはゆっくりとクレアの手を曳き、部屋に戻った。

 部屋のドアを閉め、二人きりになると、クレアが手を離した。

「ユリさん…。」

「ん?」

「ごめんなさい…。」

 謝りながら、じわりとクレアの目に涙が溢れた。

「ごめんなさい…ごめんなさい…。」

 居た堪れなくて、ユリはカナエの真似をしてみた。

 クレアをぐっと抱きしめる。

 静かに嗚咽するクレアは、手だけでなく、全身が震えていた。

「…気にしてないよ。

 みんなもね。大丈夫。」

 ユリが言うと、クレアがユリの胸元で「うぅ」と呻った。

「本当は知りたかったんだね…、忘れてしまってる事…。」

「うん…知りたい…。」

 言いながら、クレアがユリの腰に腕を巻きつけた。着ていたワンピースの背中を、ぎゅっと握り締めるのがわかる。

「うんうん。

 でもさ、きっと、慌てたら余計思い出せなくなって、もっと忘れちゃうよ?

 だから、カナエちゃんの言うとおり、待とうね。

 神様がいいって言うまで。」

 神様なんて、信じていない。

 でもこういうとき、神様と言う存在は、とても便利だと思う。

 ユリが一つ、クレアの濡れた髪を撫でると、クレアが小さく頷いた。

「…はい。」

 そして、ユリの腰から手を離す。

 ユリもクレアときちんと間を取り、クレアの顔を覗き込む。

「大丈夫?」

「はい。ごめんなさい。」

 言うほど大丈夫ではなさそうだが、落ち着いたようではあった。

 ユリはふっと微笑んで、もう一度、今度はくしゃりとクレアの髪を撫でた。

「私、お風呂、ザって入ってきちゃうから、一緒に寝よっか!」

 にっこりと笑うと、見上げたクレアも、涙でぐちゃぐちゃの顔で笑った。

「はい…。」

「よし、じゃあちょっと待っててね!」

 ユリはクレアの手をぎゅっと握ったあと、駆け足で部屋を出た。

 手を握ったのは、了の真似だ。

 あのとき、了が手を握ってくれた事が、傍にいるという合図だと思ったから。

 クレアの傍には自分がいる。

 そんな気持ちを込めて。

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