4月30日◆14
夜遅めの食事は、いつの間にか高遠の”武勇伝”という名の暴露大会と化し、料理が尽きたところでお開きとなった。
「ユリ、片付け手伝って!」
先に食べ終わり、キッチンに戻っていたカナエが、皆が席を立ったのを見計らってユリに声をかける。
「はーい。」
「私も手伝います。」
ユリが立つと、クレアも立って言った。
「あら、じゃあ、お願いするわ。」
カナエの返事を待って、クレアもキッチンへと向かう。
一方で、匠が了を呼ぶ。
「蕪木クン、いいかな?」
「ああ、はい」と言って席を立った了が、ユリに振り向いた。
「ユリ、封筒どうした?」
先程預かった封筒の事だろう。
「ん? ああ。はい。」
手渡すと、「ありがと」と短く言って、了は、匠が座る居間のソファセットへ歩いて行った。
(ありがと、だって…。)
今まで、どちらかと言うと計算高く言葉を発していた了の口から出たとは思えないくらい自然な礼に一瞬呆けたユリに、カナエが叫んだ。
「ユリ、手伝って!」
「はーい。」
再度呼ばれてキッチンへ向かい、クレアに倣って洗い物を手伝う。
残飯処理も、残飯自体が少なかったので手早く終わり、カナエも加わり、後片付けはあっという間に終わった。
食事が遅くなってしまったので、風呂が冷めてしまっただろうと、カナエが風呂の支度を始める。
ユリとクレアは一時、ソファで話し込む匠と了の邪魔にならぬよう、ユリの部屋へ向かった。
部屋に入り、部屋の真ん中に置いたテーブルに、二人で向かい合って座る。
ユリがゲッソリとした顔でテーブルに突っ伏すと、クレアが「疲れましたね」と笑った。
すっかり元気になったようだ。
「ねえ?」
ユリが顔だけ起して、クレアを見る。
「はい?」
「クレアの家族の事、聞かせて欲しいな。」
クレアが笑って頷いた。「いいですよ。」
「お兄さんのお話は、この間聞いたから、お父さんとか、お母さんとか…。」
体を起こし、クッションを抱いて座りなおし、ユリが言うと、クレアが哀しそうに笑った。
「母は、亡くなりました。」
「ごめん!」
クレアが言うなり、ユリがバツの悪い顔をして謝った。
しかし、クレアはにこりと笑い、「大丈夫ですよ」と言う。
「母が亡くなったのは、家族で日本に来たその翌年です。
私が七歳になって間もなく。
大きな事故に巻き込まれたとかで、遺体の損傷が激しいので、葬儀も遺体を表に出さないまま行って、そのままお墓に埋めました。」
内容と似つかわしくなく、クレアの声は穏やかだった。
「どんなお母さんだった?」
「優しい人でした。いつもニコニコしていて。
父が多忙だった事もあって、家ではいつも私と兄と母と三人きり。
でも、母のお蔭で、淋しいなんて思ったこと、一度もありませんでした。
メイドというか、ヘルパーの方に、家の手伝いをしてもらっていたんですけど、そういう人がいるのに、母は自分で料理をしたり。私の国では、ヘルパーは家主や家族と一緒には食事をしない風習だったんですけど、母は進んでそういう人たちを食卓に招いて。
平等と平和を何より愛していました。」
懐かしい記憶を辿るように、クレアが窓を見る。
レースのカーテン越しに見える夜景は、いつもどおり綺麗だった。
「日本には、どうして?」
十年前の旅行。父が多忙で一見離れ離れな家族が、突然の旅行。
本来は理由など要らぬものだが、何故か気になった。
「どうしてだったかしら…。
あの時、家族旅行をしようと言い出したのは、父だったんです。」
「へぇ。」
「母も兄も私もとても嬉しくて、すぐに行こうって決まって。
父はすぐに休みを取っていたので、多分、仕事が一段落したとか、そういう理由だったと思うんですけど、とにかく突然の旅行でした。
でもとても楽しかった。とりわけ、母はとても喜んでいました。
そして、帰国してすぐに、父が駐日大使に選ばれて…。」
クレアの声が徐々に消えていった。
声につられるように、笑顔も消えた。
「…どうしたの?」
「その頃から、母が凄く淋しそうな顔をするようになったんです…。」
「なぜ?」
「解らないんです。
最初は、父が海外赴任になったのが淋しいのかと思っていました。
でも、何となく違うのかなって。
それから暫くして、事故に…。」
ユリは、発する言葉が思いつかず、黙って聞いた。
「それからは、兄と二人で、国から支払われる父の給与の一部で生活していました。
生活するには困らない額でしたけど、二人でする食事はとても味気なくて。」
ユリにも、覚えはある。
独りでする食事。
いつもそこにいたはずの両親が、突然いなくなり、空いた穴。誰も座らないダイニングテーブルの椅子は、あるだけ無意味に思えてくるのだ。
「でも、ヘルパーさんたちが、とてもよくしてくれて。
みんな、『あなたのお母様に良くして頂いたご恩があるから』って。
日替わりで来る人たち、みなが、食事を一緒にしてくれて。
母を亡くした悲しさは変わらなかったけど、一緒にいてくれる人がいたから、結構大丈夫でした。」
だから、そんなときにともにいてくれる人がいる事は、この上ない心の支えなのだ。
「うんうん」と、ユリも頷く。ユリにとっては、匠やカナエだ。
「でも…。
母の三年目の命日が過ぎた頃、今度は突然兄が、いなくなって…。」
「…いなくなる理由が解らないって、言ってたね。」
行方不明の兄。仲が良かった兄妹は、離れ離れになった。
「はい。
私も小さかったから、国王が婚約した少しあと、という事しか覚えてないんです。」
「そっか…。」
「それからは、父と私二人だけですけど、父は日本にいて、忙しくて電話もする時間もないし、帰ってくる時間も。
だから、実質一人ぼっちでしたね」
そこで話が途切れ、同時にユリがクッションに顔を埋めた。
「…ごめんね。
なんだか、悲しい事思い出させちゃったね。」
声がクッションで篭る。
「そんな事ないですよ。
それに、今はカナエさんっていうお母さんも、ユリさんっていうお姉さんもいるから。」
クレアがにこりと笑うと、ユリが泣きそうな顔をする。
「がんばる、私。」
「はい!」
お互い親を失った者同士、傷の深さは違えど、感じる痛みや抱える哀しみは同じだと思う。
「ユリー!」
突然、下の階でカナエがユリを呼んだ。
「はーい!
ちょっと待っててね。」
ユリが階段まで出ると、カナエが階段下で立っていた。
「なぁに?」
「お風呂の支度終わってるから、クレアさんにどうぞって言って。」
「はいはーい。」と返事をしながら、先に了が入ればいいんじゃないかと提案すると、カナエが苦笑した。
「言ったんだけど、話し込んじゃってダメなのよ…。」
「何の話?」
「さぁ?」カナエが首を傾げる。
「ふぅん…。
まぁいいや。わかった。」
ユリは頷いて、部屋へ戻り、クレアに声をかける。
「お風呂どうぞって。」
「あ、はい。
じゃあ、お先にいただきます。」
そう言って、クレアが立ち上がり、部屋を出た。
ドアが閉まると、クレアの空気がまだ残る部屋に独りになる。
ユリはベッドに寝転んだ。
仰向けで見上げる白い天井に、小さな染みを見つけた。
五年前、ユリがこの家に引き取られたときに張り替えた新しい天井なのに、もう染みが出来ている。
六年前、両親が死んで、一年後、この家に引き取られて以来、思い返してみれば両親の死には触れずに生きてきたような気がする。
哀しいし、今でも恋しいが、泣いてばかりもいられない気がして…、とは言え実は、両親が死んだ事に関して、一度も泣いたことがいないのだった。
ただ実感がなく、そして、流すだけの涙が出ないのだ。
何故かはわからなかった。
非情なのかとも自分を疑いもしたが、そうでもないのだ。
(現実感がないんだわ…。)
ユリはふと思い立って、そして納得してしまった。