4月30日◆13
「ただいまー。」
ほんの少しの夜風ですっかり冷えてしまった体を摩りながら玄関のドアを開けると、クレアがカナエに挨拶をしていた。
「すみません、今日もお世話になります。」
「お客さんはいつだって大歓迎よ。さ、早くあがって。」
言いながらカナエがリビングのドアを開けると、ふわりとシチューの匂いがした。
「おお、今日はシチューなのね!」
「そうよ。
いっぱい作っておいて正解だったわ。蕪木さんも来るんでしょ?」
「らしいわ。
いっぱい食べそうに見えないのに、ものすっごい量食べてたわよね…。」
「そうかしら?
体力勝負の仕事してる働き盛りの男の人だもの。
そりゃ、いっぱい食べるわよ。」
「そう?
ガリガリじゃないから、フツーくらいは食べそうに見えるけど…。」
ユリが言うと、カナエがニヤリと笑って指を振った。
「ふふふ。あんたは男の人をまだ知らないね。」
「何よソレ…。」
眉を顰めたユリに、カナエはもう一度笑って、「さ、二人も手伝ってちょうだいな」とキッチンへ向かった。
クレアとユリが続くと、キッチンカウンターの上に、今洗ったばかりの野菜が所狭しと犇めき合っていた。
「クレアさんは、トマトのヘタ取りお願いね。」
「はい。」
カナエに言われ、暫し黙々と夕飯の支度をする。
「クレア、元気になった?」
ユリが訊ねると、クレアが笑顔で「はい」と頷いた。
「このおうちにいると、とても安心します…。」
照れくさそうに言うクレアに、カナエが大袈裟に喜んだ。「じゃあ、うちの子になっちゃう?」
悪戯っぽく笑うカナエに、クレアもくすくすと笑う。
「でも、カナエさんのご飯とっても美味しいから、なってもいいかな。」
「あらあら! 嬉しい事言ってくれるわぁ!
ユリなんて、ガツガツ食べるだけで、褒めてくれた事なんて一度もないんだから!」
「あるわよ、何度も!」
「そうだっけ?」
「ひどいわね!」
言い合う二人を、クレアは笑いながら眺めた。
そういえば、ユリの事をまだ何も聞いていなかったが、匠のことを『叔父さん』と呼ぶ以上、その妻であるカナエはユリの母親ではないのだろう。
しかし、カナエとユリは親子か姉妹にしか見えなかった。
おどけながらユリをいじるカナエと、本気なのか乗っているだけなのか歯向かうユリ。
本当に仲が良さそうで、羨ましかった。
既にいない母親と自分も、こうだっただろうか…。
忙しい父親と、こんなやり取りをしたことがあっただろうか…。
ユリもカナエも、そして匠も、いつも笑っている。ユリはいじられる事が多いから、笑い顔と不貞腐れ顔が同じくらいの比率ではあるが…。
それでもいつも賑やかで明るい芳生家は、自分の知る『家族』と異なる空気を持ち、クレアにとって憧れであり、一時的なものでも、安らぎの場所になっていた。
だから少しでも馴染みたい。
手元でヘタ取りをしたトマトですら、そのきっかけの一つなのであれば、大切にしたい。
クレアは、カナエが豪快に盛ったレタスとサラダ菜の上に、丁寧にトマトを並べた。
玄関でチャイムが鳴った。
「あら、来たかしら?
ユリ、出てくれる?」
カナエが言うと、ユリが濡れた手を拭いて玄関へ向かった。
「おかえりー…。あれ?」
出迎えたユリは首を傾げた。
玄関には匠しかいない。
「あいつと一緒じゃないの?」
「ああ、車を仕舞ってるよ。ちょっと待っててやってくれ。」
靴を脱ぎながら匠が言う。
「はーい。」
事務所の敷地には駐車場を作るスペースがなかったので、少し離れた月極の駐車場を契約している。
暗い夜道を来ることになるので、玄関の外で待とうと思い、ユリが靴を履こうとすると、ドアが開いた。
「お邪魔します。」
片足を靴に乗せ、前屈みで見上げるユリに、了がまともな挨拶をする。
「いらっしゃい。
あんたが普通に挨拶すると、なんだかとってもヘンだわ。」
玄関に上がりなおしてユリが言うと、了が不機嫌な顔をする。
そんな了に、ユリはニヤリと笑った。
「上がって。ご飯出来てるよ」
そういうと、了が即座に困惑の表情を浮かべた。「お前が作ったんじゃあるまいな…?」
「どういう意味よ!」とユリがふくれると、了はニヤリと笑って、まるで来慣れているかのような動作でリビングへ行ってしまった。
独り残されたユリは、リビングのドアが閉まった音でやっと、仕返しされた事に気付いた。
(ムカつくわ…。)
頬を膨らませながら自身も戻ると、クレア、了、匠がダイニングテーブルの昨日と同じ席に座っていた。
すっかり料理も並び終わっていて、あとはカナエとユリを待つのみという状態だ。
ユリも、昨日と同じ、了の隣の席に座ると、程なくしてカナエがエプロンで手を拭きながらやってきた。
「さぁさ、食べましょ。」
カナエの声を合図に、食事が始まった。
「蕪木さん、いっぱい作っちゃったのよ。」
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。」
サラダを取り分けながら言うカナエに、了が笑った。
一方でメインのチキンのグリルを切り分けていた匠が、早々に自分の分だけを皿に取り、ユリを指さす。
「ユリ、葉っぱ取ってくれ。」
「葉っぱって言わないでよ。」と言って、サラダボールからサラダ菜を一枚取って渡す。
「葉っぱだろ、これは。」
「サラダ菜よ。」
「名前なんて飾りだよ。」
「ふふっ。」クレアが笑う。
「クレアさんも、食べてる?」
「はい!」
各々発言し、料理を一口、口に運んだところで、匠が切り出した。
「ああ、そうだ、クレアさん。」
「はい。」
「さっき病院に寄ってきたんだが、菅野館長は元気そうだったよ。」
匠の報告に、「まぁ! よかった…」とクレアが泣き笑いをする。
「明日は検査があるから、明後日には退院出来そうだと、先生もおっしゃっていたよ。」
「ありがとうございます。」
匠とクレアのやり取りを聞きながら、ユリは了をちらりと見る。
了は平然とした顔で黙々と食べていた。
「犯人の手がかりはあったわけ?」
ユリが訊ねると、了はユリと視線も合わせず答えた。
「ない。タイピンの捜査と並行して、屋根上の捜査もしたが、結局何も見付からなかった。」
「タイピンも無関係?」
了は関係ありと考えているとは聞いたが、真相はどうだろう…。
「そこまではまだ…。」
事件が起こり、”男爵”のタイピンが落ちていたり、監視映像に不自然な記録が残っていたりという状況はあるが、それらがどう結びつくのか。
了はの仮説は兎も角、警察でも結論を出すには早過ぎる。
「やぁねぇ、食事中にお仕事の話なんか…。」
カナエが溜め息を吐いた。
しかし、「そうですね、すみません。」と申し訳なさそうに言う了に、カナエは表情をころっと変え、手をひらひらさせて笑った。
「あらあら、いいのよ!
ユリが言い出さなければよかっただけだもの。」
「またそういう事言う!」
ユリが怒ると、さらにからかうように匠が指さした。
「ユリ、葉っぱ。」
「サラダ菜よ!」
腹が立ったので、今度はボールごと匠に渡してやった。