4月30日◆12
再び車を走らせ、匠の事務所へ向かう。
了のマンションを見たせいか、完全に気の抜けてしまったユリは、ぐったりと席に凭れながら了の後姿に訊ねた。
「そういえば、昨日もうちの叔父さんと話があるって言ってたわね。
”男爵”の話?」
同じ現場で働く者同士、情報交換が頻繁に内密に行われる事自体は、然程不思議ではない。が、最近出会ったにしては、匠と了は打ち解けすぎな気がしている。
「ん? ああ、まぁ…。」
疑いを真とするかのように、了が口篭った。
「言えない話?」
「男同士の話。」
ユリの中で、了は、内容を言うかはともかく、仕事の話なら『仕事の話だ』と言う人間だという決め付けがあった。
だから、言い淀むのは至極プライベートな事なのだと勘繰る。
そして、どこからどう連想したのか、先程ラウンジで立ち聞きした電話を思い出す。
プライベートで男同士の話、そしてあの電話の”彼女”。
疲れているのか、脈絡のない要素を繋ぎとめてしまったユリの思考が導き出したのは、
「あ、もしかして、仲人お願いしてるとか?」
というもので、これには了もすっとんきょうな声を上げて驚いた。
「はぁあ? 誰の?」
「え? あんたと、彼女。」
「…訳が解らん…。」
当然だ。
「あれ?」
困惑しながら、了がバックミラー越しにユリを見た。
ミラーに映ったユリはトロンと眠たそうな目をしながら、首を傾げて考え込んでいた。今の発言に、相当な確信があったようだった。
一体どこからそんな情報を得たというのだろう…。
自分がどこかで口を滑らせたかどうか以前に、そんな私事を何者にも話す事は有り得ない。
「……………俺は彼女いないぞ…。」
これ以上勘繰られるのも面倒くさいので、それだけは釘を刺す。
が、返ってきた答えは、想像を遥かに超えて、方向違いなものだった。
「え、いないの? その歳で?」
「今はそういう話じゃないだろう!」
「うーん?」
どうやら、思考までが迷子のようだった。
了が小さく溜め息を吐くと、後ろでクレアが笑った。
その笑い声が少しくすぐったくて、了は固まりかけていた首を回した。ふと時計を見ると、二〇時二二分と表示されていた。美術館を出て二〇分程経ったところだった。
色々あったとは言え、ずいぶん帰りが遅くなってしまったものだ。
これからさらに、美術館に残っている匠と合流し、再度事務所へ向かわなければならない。
それから夕食だ。
ユリもクレアも、もう少し早く返してやればよかったと思う。
その権限はあった筈なのに、何をやっていたのだろう…。
芳生探偵事務所が見えてきた。
事務所の灯りは落とされて、住居となる三、四階にだけ灯りが窓から洩れている。
昨夜も見て思ったが、ずいぶん古い時代の西洋建築デザインを模倣しているようで、住宅と小さな雑居ビルとが入り乱れるこの区画の中でも、一際目を引くビルだ。
蔦が壁を這い、何種なのか薄ピンクの小さな花を付けている事も、このビルの異種性に拍車をかけているのかもしれない。
「到着。」
了が言いながら、車をゆっくりと停めた。
「ありがと。」
がさがさと車を降り、ユリが言う。
「ありがとうございました。」
続いて降りたクレアもお辞儀をした。
辺りは暗く、街灯や住宅の玄関の照明だけでは心細い。
すっかり暗闇に溶け込んでしまったユリ達が心配で、了も車から降りた。
「どういたしまして。
じゃあ、俺はまだ用があるから。」
「戻るの?」
「ああ。芳生さんもまだ残ってるしな。」
「そか。」
てっきり、匠は匠で帰って来るのだと思っていた。
一緒に帰ってくるのだと納得して、ユリが頷く。
ならば戻るのは早いほうがいいだろうと思った。了は、自分たちが家に入るのを確認してから、引き返すに違いない、とも。
だから家への階段を昇るよう、クレアを促した。
クレアが静かに階段を昇り始める。
そしてユリも階段に足をかけたところで、了が「あ」と声をかけた。
「ん?」
ユリが振り向くと、了がマンションから持ってきた封筒類をユリに向けて差し出していた。
「悪い。預かっといてくれ。」
「うん。」
受け取ると、ずしりと重い封筒が一つあった。
サイズも大きく、分厚い。
何を入れればこんなに重くなるのだろうと、裏返しの封筒をひっくり返すと、表には宛名も住所の記載もなく、切手も貼られていなかった。
ただ雑に、『カブラギさん』と、了の苗字が書かれていた。
「開けるなよ?」
ぼけっと封筒を見つめるユリに、了が不機嫌な顔を造って言った。
「開けないわよ!」
ユリが言うと、了は「よし」とニヤリと笑い、車に乗り込んだ。
それを合図に、ユリとクレアは階段を昇り、了は二人が玄関前まで昇り切ったのを見届けてから、車を発進させた。
ユリは、クレアを先に入れ、了の車のテールランプを暫く目で追った。
企業ビルの並ぶ大通りとは違って、一本路地に入ってしまえば車の通りは少ない。
今は了の車だけが、家の前の路地を走っていた。
その了の車も、やがて角を曲がり、大通りへと消えていってしまった。
ユリは手に持っている封筒を見る。
不思議と、この封筒の中身は、了の仕事に関係する書類なのだと思った。
改めて見ると、『カブラギさん』という文字がとても下手糞だった。
こんな下手な字を書く人間が、了をさん付けで呼び、こんなに重い封筒を寄越す。それはどんな職場で、どんな仕事をしているところなのか。
そしてどんな肩書きを持っていれば、あの車を乗り回し、あの現場を練り歩けるのか。
謎は深まるばかりだ…。
不意に、とても冷たい夜風が吹いた。
初夏に少し足をかけた時期だというのに、鳥肌が立つほど冷たい風だった。
ユリは武者震いをして、体を縮ませた。
と、胸に抱き寄せた封筒から、館長室で了に握られた手から香った、あの甘酸っぱい匂いがした。
蜂蜜のような、花のような、果実のような、この匂い。
「この匂い、なんだっけ…。」
思い出せそうで、封筒に鼻を近づけるが、もう封筒の匂いしかしなかった。
遠すぎない昔に、あの香りを嗅いでいるはずだ。
思い出せない。
でも何故か、あの香りは自分を守ってくれる香りだと思う。
思い出せない記憶がそう思わせているのか、何せ思い出せないから、何故そう思うのか自分でも解らない。
それでもあの香りは、自分を守ってくれる香りだと、そう思うのだ。
蕪木 了。
謎だ。