4月30日◆11
菅野の件があったので、ニ〇時と言う時間になっても、館内は人気に満ちていた。
エントランスにも、刑事と思しき男が数人と、出入り口を見張るように警官が三人ほど立っていた。
了に、正面玄関の前で待っていろと言われたが、車は敷地内の館の正面には乗り入れられないので、フォーラムの正門まで行くことにした。
人がいるために開放されている館の正面玄関を出ると、中庭に照明は少なく、まん前の大きな噴水の水も止まっていた。
敷地を囲う樹木の向こうには、明るく高層ビル群が浮かび上がる。
その様子を眺めながら中庭を行く。途中振り向くと、クレアが下を向いて歩いていた。
暗がりでも、その表情が曇っている事は窺い知ることが出来た。
「またそんな顔してる!」
ユリがいうと、クレアが苦笑した。
「ごめんなさい…。」
「家ついたら、何しようか!」
「どうしましょう?」
「カナエちゃんがご飯作ってる時間かなぁ…。
あ、だったら手伝いしようか!」
「はい!」
正門に着いた頃には、クレアに笑顔が戻っていた。
門付近にも警官が一人いて、ユリとクレアを見るなり、門を少しだけ開けた。
ユリは会釈だけして、門をそそくさと抜けた。クレアも続く。
二人が敷地から出ると、警官は無言のまま門を閉じた。
鉄扉が閉じる音は予想以上に大きく、夜の冷たい空気の中を突き抜けるように響いた。
やがて敷地をぐるりと回る道の角から、車のヘッドライトがきらりと光ながら現れた。
目を細めて見ると、了の車だった。
ユリの前で車を止め、左ハンドルの運転席から、了が顔を出す。
「すまん、待たせた。」
「おっそいわよ。」
「…。」
ユリが嫌味を言うと、了が不機嫌な顔を造った。
その顔を見て、ユリはほっと胸を撫で下ろす。
(そうそう、この顔…。なんか落ち着くのよね…。)
もうすっかり、どの表情が造り顔で、どの表情が冗談なしなのか、わかるようになっていた。それでも、この不機嫌な顔が、ユリにとっての了であり、”了といる”という現実そのもののように思え、そして、”今、なんでもない時”であることの目印のような気がするのだ。
暫し無言でユリを見上げていた了が、「ふん」と鼻で笑った。
「お前だけ歩いて帰るか?」
ニヤリと笑う。
「あ、ムカツク。」
本当にむかついて、ユリがむくれると、横でクレアが笑った。
助手席のドアを開けて、座席を倒し、二人で後部座席に座る。
座り、落ち着いたのを見計らって、了が車を走らせた。
ユリは走り去り際に、左手の門の向こうを見た。煌煌と灯りの点く美術館が見えた。
ついさっき起きた事が、もう現実でないような気がした。
夢を見ていたように、あっという間に夜になった。色んな事があったのに、その実感が一つとして湧かない。
「クレアさん。」
ぼうっとしていると、了が口を開いた。
「まだ気分が優れないだろうから、無理せず言ってくださいね。」
「はい。ありがとうございます。」
クレアが答える。
そして、そのまま終わる。だからユリが『私の心配はしないのか』と突っ込む。そして了が『車酔いしないだろう』と素っ気無くいう。
”いつも”なら。
でも。
「ユリもな。」
予想に反して、と言うより、期待に副わず、了がユリにも声をかけた。
ユリは、どきりとして、「え? あ、うん」と、もごもごと答えた。
気を遣ってくれたのか、妙な気分だった。
何となく居心地が悪くて、ユリは背凭れから背中を離した。
肩を竦め、縮こまったように座り直す。
”いつも”の了でいて欲しかったのに…。
ユリが困惑の表情で了の後姿を見つめた。
了は、当然の事ながら真っ直ぐ前を見、時折バックミラーを見る以外は、首も動かさなかった。
軽くハンドルに添えられた手、その小指に、昼間見つけた傷は暗くて確認できなかった。
傷が見えなかった事で、何故かユリは安心した。
”まだここにいてくれる”と、思った。
ふぅ、と小さく溜め息を吐いて、今度は座席にぐったりと座り込む。
すると、了が、
「ちょっと、途中、うちに寄らせてもらう。」
と言った。
「え!?
あんたんち、見られるの!?」
ガバっと後ろから詰め寄るユリに、了はバックミラー越しに怪訝な顔を向けた。
「中には上げないぞ…。
車の中で待ってもらう。」
「ちぇー。」
つまならさそうにふくれるユリを、クレアが笑った。
「ねぇ、一人暮らし?」
ユリの質問に、「ああ」と了が簡単に答える。
「三十超えたオトコの家…。
ちょっとしょっぱいアパートと見たね。」
勝手な想像を膨らませて、ユリが指を立てた。
「クレアはどう思う?」
指をクレアに向ける。指されたクレアは、「うーん」と首を傾げたあと、前に座る了の後頭部を見つめて微笑んだ。
「蕪木さんは、こんなステキな車を持ってるくらいだから、凄く立派なマンションに住んでると思います。」
「えぇえ! そうかなぁ?」
ユリがぼすっと音を立てて背凭れに凭れると、了が車のスピードを緩め、ウィンカーを出した。
「着いた。」
そう言われて窓の外を見、ユリは呆気にとられた。
「え…。」
車は、クレアと出会った昨日、街を案内しているときに通りかかった、あの高級マンションの正面玄関前のロータリーに止まっていた。
レディアッシュタワーマンションと言う名のそのマンションは、企業ビルに負けず高層で、確か三〇階建てだ。
一フロアに四世帯分の部屋があり、どの部屋も東か南を向いている、大変日当たりのよい造りになっている。
広告では、四人家族を対象にした賃貸マンションで、最低でも月三〇万円の賃貸料がかかるとあった。最上階の部屋ともなると、価格は四倍にもなるらしい。
そんなマメ知識が走馬灯の如く脳裏を過ぎったユリに、了が言った。
「ちょっと待っててくれ。」
「こ…ここ…?」
呆けるユリが訊ねると、了がニヤリと笑った。
「ざまみろ。」
これをしょっぱいと言うなら言ってみろという顔だ。
「なにがよ!」
何だか悔しくて、ユリが歯向かった。
そんなユリに、了はもう一度ニヤリと笑い直して、慣れた動作で颯爽と中へ入っていってしまった。
天井まで貼られた総ガラス張りのエントランスの中はポストエリアになっていて、その奥、住人専用のエントランスは、一転、中が見えないよう銀色の壁と自動ドアに囲まれている。ポストの脇にある自動ドアの横には、カードをスライドさせる溝らしきものがあって、了はそれにカードをスライドさせると、今度は添えつけられた小さなディスプレイを覗き込んだ。
網膜認証だ。広告に書いてあった。
ユリは、妙に細かく覚えている自分に腹が立った。
しかし、何故この都心にある高級マンションの名前が、『ポルターガイスト』の異名を持つ『グレイレディ』に因んだ名前なのか、よくわからない…。
「信じられない…。
クレア、当たりね。」
尚も呆けているユリが言うと、クレアがくすくすと笑った。
「あいつ、やっぱりただの刑事じゃないんだわ…。」
「そうですね。
なんだか、他の刑事さんたちとは、雰囲気が違う感じがします。」
クレアが同意した。
「例えば、どんな職業の人なんだろう…?」
「うーん…。」
二人で悩んでいると、了が出てきた。手には何か、封筒のようなものを幾つか持って、さっさと車に乗り込む。
「行くぞ。」
「あれ、もういいの?」
「郵便物を取りに行っただけだから。」
「そんなの、帰ってから取ればいいのに…。」
ユリが怪訝な顔をすると、了が振り返ってニヤリと笑った。
「残念なお知らせです。」
「…?」
「俺も今晩は芳生家に泊まる事になっている。」
聞いた瞬間、後頭部を鈍器で殴られたくらいの衝撃が、ユリを襲った。
「芳生さんと話があってね。
さぁ行くぞ。」
ユリのショックを尻目に、了はのうのうと言い放って、車を発進させた。
夜、自分の部屋の窓から見えるあの高層ビル群の夜景の光の中に、こいつの家の灯りが含まれていたとは…。
そしてあろう事か、うちに泊まると言っている…。
鬱陶しいと感じる反面、何故かとても嬉しい。
なんなのだ。
傍にいてくれると判れば安心し、どこかに行ってしまうと思えば不安になり、嫌味を言われればむかつきながら安らぎ、そして、時々その全てが感じられなくなって、怖い…。
愛憎の感情、両方を持つ羽目になろうとは、出会った三日前は想像だにしなかった。
ふと見下ろした手には、まだ、握られ、撫でられた感覚が残ったまま。
ユリは複雑な思いのまま、了の横顔を見つめ、溜め息を吐いた。