4月30日◆9
手の甲が何かにぶつかった。
重たいまぶたを持ち上げると、額に当てた手が落ちて、ソファの縁に当たっていた。
「…。」
眠ってしまったのか。
ユリは、真正面の壁にかかった時計を見る。
中庭での一件からこの館長室へ戻り、了と話をし終わって、まだ十分程しか経っていない。
なのに体はぐったりと重く、姿勢を正すのだけで一苦労だった。
了が仕事が終わったら、クレアと一緒に家まで送ってくれると言っていた。
ここにいたほうがいいのだろうか。
しかし、じっとしていると、何だか気が滅入る。
「動き回ったほうが気が楽になるかな…?」
言いながら、腰を上げる。
うん、と背伸びをすると、コキコキと背骨が鳴った。
「どこに行こう…。」
動き回ると言っても、館内は菅野の事件や”男爵”の捜査をしている真っ最中だ。
どうしようかと部屋を見回すと、転寝の前よりさらに室内は薄暗くなっていた。
夕焼け色の空が、窓から見える樹木の間から覗いている。
寝起きのせいか、少し肌寒い。
ふと、飛澤の顔が頭を過ぎった。
「飛澤さんに会いに行こう。」
思い立ったら何とやら。
ユリはもう一度背伸びをして、館長室を出た。
館長室の脇にある職員事務所の入り口と並ぶ地下への階段を下る。
青白い小さな電球が、階段を弱弱しく照らす。
無意識に階段を下って、地下通路にたどり着いた。
階段と同じように青白い明かりに照らされた通路は、つい数時間前に通ったときとは全く違う場所に思えた。
一歩歩くたび、カツンと足音が響く。その音がとても大きくて、自然と歩みが慎重になる。
ゆっくりゆっくり廊下を行き、何度か角を曲がると、見慣れた鉄扉が見えた。
扉は、何故かストッパーが引っかかって、半開きになっていた。
飛澤がいる。
不思議とそう確信して、ユリは思いっきり扉を開けた。
「飛澤さんっ!」
しかし予想に反して、セキュリティ・ルームには誰の姿もなかった。
「………あれ…?
誰もいないのかな…。
っていうか、ここに誰もいないの、おかしくない?」
「どうされました?」
不意に後ろから声をかけられ、ユリは「うわ!!」と大声を上げた。
振り向くと、いつもの警備員がいた。
「あ…、け…警備員さん…。
ビックリした…。」
胸に手を当てるユリに、警備員が済まなそうな顔をする。
「申し訳ありません。
どうされました? 迷子ですか?」
「えっ…いえっ、その…。
ここの主任さんの、飛澤さんに会いに来たんですけど…。」
もじもじと答えるユリに、警備員が微笑んだ。
「飛澤さんなら、本社に呼び出されて、暫く外出すると言っていましたよ。」
「ああ、そうだったんですか。
中に誰もいなかったから、なんでだろうと思って…。」
ユリはまだ落ち着かなく、よく解らない受け答えをする。
「今、臨時の見回りをしているんですよ。
地下を周るだけなので、開けっ放しにしてしまって…。」
警備員が苦笑した。
「そうですか。ごめんなさい、お仕事中。
では…。」
ユリも愛想笑いをして、頭を下げ、元来た道を、今度は早足で戻った。行きはあんなに気になった足音も、まったく気にならないほど、焦っていた。
やがて地上階への階段にたどり着き、手摺りに掴まり項垂れる。
「…あー、ビックリした…。
飛澤さんいないんじゃ、ここにいてもしょうがないか…。」
ふぅと溜め息をついて、階段を昇る。
職員通路へ上がり、エントランスへ向かう。
ロビーにはちらほらと警官の姿が見える。
やはりまだ捜査中のようだった。
警官を眺めながら、エスカレータに歩み寄る。エスカレータは何故か止まっていた。館内は一階一階天井が高いため、エスカレータも普段見かけるものより長い。
ユリはエスカレータを昇り始めた。
一段昇るたびに、二階の様子がはっきりとしていく。
複数人の話し声と、重いブーツが歩き回るような音がひっきりなしに聞こえる。
あと数段残すところまで昇ったところで、ユリは手摺りから二階を覗いた。
こちらもまだまだ捜査中といったところで、ユリごときがウロウロ出来る状態ではなさそうだ。
ユリは三階へ向かう事にした。
三階を覗くと、二階とは一転、人の気配が全く感じられなかった。
二階のがやつきは聞こえるものの、三階のフロアに入ってしまうと、歩き回るのを躊躇うほど静かだった。
見回すと、昨日までラウンジの入り口にかかっていたブルーシートが外れていることに気付いた。
そういえば、昨日、了が『明日にはシートが取れるらしい』と言っていた。
また響いてしまう足音に気をつけながら、ユリはラウンジへ向かった。
そしてまるで悪戯中の子供のように、そっと中を覗く。と、その瞬間、ドキリと心臓が止まりかけた。
西日が真っ直ぐ差し込む窓辺のカウンター席に、了の姿が見えたのだ。
了は背凭れの低い、脚の長い丸椅子に腰掛け、じっと何かを見ている。
カウンターには何かの資料だろうか、紙が無造作に広げられている。
(あいつ…仕事中かな…。)
ユリは息を潜めて、了の横顔を見つめた。
西日の逆行のせいではっきりとは見えないものの、その表情は何かに想い耽っているように見える。
(謎だなぁ…やっぱり…。
警察の人とかに『さん』付けで呼ばれたり、北代警部補に強く出なかったり、”男爵”の事に詳しかったり…。
でもああやって書類見てる姿、いつものあいつらしくなくて、不思議…。)
憎まれ口と嫌味の塊は、時折、優しい微笑と思いつめたような表情を見せる。
ユリは、了について何も知らない。
知りたいと強く思っているわけではないが、やはりユリの中の了らしさが見えないと、不安になる。
ユリは、了が手元で何かを弄っているのに気付いた。
ちらちらと、西日を受けて光るそれは、ペンダント型のロケットのようだった。
改めて見れば、了の視線は書類ではなく、ロケットに注がれていた。
(意外…。アイツがロケットなんて。)
わざわざロケットを持つのだ。当然、中には写真が入っているのだろう。
ユリがそう考えた刹那、了が突然顔を歪ませ、カウンターに額を当てて蹲った。
肩越しに見える横顔が、哀しみを必死に堪えている。目はまるで涙を抑えるようにきつく閉じられ、ロケットを弄っていた手は、ぎゅっと握り締められ、微かに震えていた。
ユリの鼓動が早くなった。
また知らない顔を見た。
そして、それはひょっとすると、見てはいけない顔だったかも知れない。
あれほどまでに了を哀しませるあのロケットは、一体なんだろう…。
知りたい。が、ユリにその権利はないように思えた。
堪らずユリが目を背けると、携帯の着信音が鳴った。了が素早く反応し、ジーンズの後ろポケットに手を突っ込み、携帯を取り出す。
「蕪木です。…はい…はい………いえ、大丈夫です……そうですか、すいません。
………………俺としては…そうしたいのは山々なんだけど、という感じです…。」
口ぶりから、相手は了の目上のようだ。
声に、普段の生意気さがない。
「私生活は関係ないでしょう。
…まぁ、はい。
慎重に行きたいです。彼女もいますし…。」
(彼女? やっぱり、”彼女”…かな?)
恋人を指すのだろうか。
(あ、さっきのロケット、彼女の写真でも入ってた…?)
でも、ならば何故、あんな顔をする…?
ユリが邪推に近い思考をめぐらすと、了が突然慌てた。
「いや、そういう意味じゃなくてっ。
ちょっ! 違いますよ!」
電話口の相手も、同じような想像をしたようだ。
(珍しい…あいつが慌ててる。
照れてる…のかな…?)
そう思いつつ、ユリは何故か寂しくなって、覗くのを止めた。
と同時に、こちらも何故か、怒りが込み上げる。
くるりと回って、入り口の壁に寄りかかり、了の声だけを聞く。
「いえ、今日は登庁予定はないです。このまま帰ります。
………もういいです…はい。」
そろそろ話を終えそうな中、了が「あっ、本部長」と相手を引き止めた。
ユリは思わずラウンジ内の了に視線を戻す。
(”本部長”ぅ??)
聞きなれない単語に眉を顰める。
”本部長”とは、噂の高遠の事か?
ユリが考えながら、了の話も聞き続ける。
「菅野の過去、その後、何か出ましたか?」
(お??? 菅野館長の過去…?)
了は菅野が”男爵”の関係者だと考えていると言っていた。
だから調べているのは当然としても…。
今、何故呼び捨てにしたのだ…?
「…はい……はい……ああ…なるほどな。
…………いえ、まだ…それとこれとは、まだ繋がらないので…。」
納得したり、否定したり、忙しい。
相手の言葉も聞けないと、まったく会話の内容がつかめない。
盗み聞きするだけ無駄に思えてきた、そのとき。
「いえ、クレア・バークレイの件は、保留でお願いします。
昔の話過ぎますから…。」
(クレアの事も調べてる…? どういうこと…??)
ユリの心臓が、再び鼓動を早めた。
(どうしよう…。
聞いちゃいけない事、聞いちゃったのかな…。)
菅野とともに、了がクレアについて調べている。
”昔過ぎる事”について。
まさか、了はクレアまで”男爵”と繋がりがあると考えているのではなかろうか…?
「………ダメだ…。
私じゃ解らない…。」
ユリは首を振った。
解るはずがない。
菅野の事も、クレアの事も、了の事だって、出会ってまだ幾日も経っていないのだから、知らなくて当然だ。
探偵とは、ここまで情報を得ないものなのか…?
そう思いつつ、ユリはこの事件に関わってから、事件だけでなく関係者についてすら、自ら動いて情報を得ていない事に気付く。
他人の事など、どう知ればいいと言うのだ。
当人から聞く事以外に、つまり、当人が言わない事にこそ、知らなければならない情報が隠れているのに、その方法が解らない。
これではダメじゃないか…。
ユリは自責した。
これでは、何のためにここにいるのか解らない。
自分がここにいる理由。
匠はただ人手が足らないという理由だけで、自分を事件に関わらせたのか?
ユリは首を振る。違う。
匠が常に、何か考え、『理由のない事はしない』事を、ユリは知っている。
ならば、この事件にユリが関わる理由があるはずだ。
そしてそれは何となく、匠に聞くのではなく、自分の手で答えを導き出さなければならないような気もする。
ユリはそこまで考えて、ラウンジに背を向けた。
クレアは大丈夫だろうか。
もう、意識を取り戻しているだろうか。
ユリは、思いっきり鼻から息を吸い、空気を胸に溜めたまま、足音を立てないよう非常階段へと向かった。
解らない事がある状況なら、今得られる事を少しずつでも得ていかなければ。
その手始めに、ユリは『クレアの容態について』を選んだ。