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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
4月30日
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4月30日◆8

 職員通路や館長室とは反対側の、ショップの隣にある急病人専用の医務室にクレアは運ばれ、ユリは館長室へ戻された。

 少し経って、救急車と消防車のサイレンが聞こえた。がたがたと慌しく館内がざわめき、すぐに再びサイレンが鳴った。

 恐らく、菅野を搬送するのだろう。

 館内のひんやりとした空気で頭が冴えたのか、さっきよりは何かを考えることが出来る状態になった。だが、何を考えていいのか、そこまで思考が巡らない。

 ぼんやりと窓を眺める。

 中庭を臨む喫茶店と違い、その裏側にある館長室からは、目隠しのために深く植えられた樹木しか見えない。

 もう陽も当たらない館長室は、照明を点けないと足元ですら見難いほどに薄暗い。

 後ろで、ドアが開いた。

 振り向く気力が湧かず、ユリは窓の外を眺めたまま、歩み寄る足音を聞いていた。

「疲れたか?」

 声をかけられた。

 振り向かなくても判る。

 了だ。

 そう思った途端、顔が見たくなって声の方を見る。

 了は、ソファに座るユリの前で、ソファのサイドに両腕を置いてしゃがみこんで、ユリを見上げた。

 暗がりで見る了の顔は、普段にも増して丹精で、そして少し、やつれているようにも見える。

「…ううん、大丈夫…。

 クレアの様子、どう?」

「大丈夫、気を失ってるだけだ。

 心拍数も安定してるらしいし、病院には連れて行かなくても大丈夫そうだ。

 彼女さえよければ、今日も芳生さんちに泊まってもらうつもりだと、芳生さんが言ってた。

 大使も相変わらず忙しいそうだから。」

 了の声は、とても穏やかに柔らかく、まるで内緒話をするように、囁くように発せられた。

「うん…。

 ねぇ、菅野館長は…?」

 ユリの問いに、了が「ああ」と考え込んだ。

 その様子に、ユリが慌てる。

「ま、まさか!?」

「ああ、いや、すまん。考え込むクセが…。」

 首を振って苦笑した。

「腹部に鬱血の痕があったから、恐らく殴られて気絶してしまったんだろう。腕のあちこちに擦り傷があったらしいから、気絶したあと、屋根上に運ばれたんだろうって、北代が言ってた。

 まだ意識が戻らないんで、救急車を呼んで、病院へ連れて行ってもらった。

 隊員の話だと、命に別状はないだろうって。」

「そう…。

 私が拾ったカフス、館長を屋根上に運んだときに、引っかかって落ちたのね…きっと…。」

「だろうな。」

 詳細は異なるものの、大凡のユリの見解は間違っていなかった。

 ユリも了も、どこか気力が伴わないまま、伏目がちに見つめ合い、小さな声で言葉を交わす。

「近くにタイピンが落ちていた事から推測するに、恐らく運んだのは”男爵”と見ていいだろう。」

「…なぜ…。」

 ユリが呟いた。

「ん?」

「なぜ、館長がそんな目に?」

 ユリの問いに、了が困った顔をした。

「だって、”男爵”のタイピンが落ちていて、その夜に館長がそんな目に遭ったって事は、”男爵”と鉢合わせてる訳でしょ?

 でも、予告日まであと四日あるし、”紅い泪”だってまだ搬入されてないし、おかしいじゃない。

 ”男爵”じゃないとしたら、タイピンはどうして落ちたの?

 誰が持ってきたの…?」

 繰り出されるユリの疑問に、了が口を結んだ。

「蕪木…さんは、どう思ってるの…?」

 聞くと、了はさらに困った顔をした。

「…あ…。」

 はっとして、ユリも呼吸を整える。

「私、うっかり、ぽろっと言っちゃうかも…。

 やっぱりいいよ。

 大事な事だもん…。」

 立場上、言えない事は山ほどあるだろう。

 了について周っているから、時折捜査の確信に触れる事はある。

 だが、それ単体では、その情報は何の価値もない。

 ましてや、探偵になり立てのユリに、その情報を効果的に使う術などない。

 しかし、そうと解っていても、何人にも教えることの出来ない情報はある。

 こういうときも、了が遠くに思えて仕方がない。

 俯くユリに、了が微笑んだ。

「まぁ、いいさ。」

 その笑みに、ユリは息を飲む。

(あ、笑った…。

 こんな風に笑うんだ…)

 暗がりで濃淡の濃くなった陰影の所為で、了の笑顔はとても大人っぽく見えた。

 否、そもそも六歳以上年上の人だ。大人ではあろう。

 だが、今見える大人っぽさは、言うなれば、包容力、と置き換える事が出来そうだった。

 了はユリをじっと見上げたまま、ソファのサイドに置いた手を躊躇いがちに浮かせ、暫し彷徨わせた後、再び置いた。

 何かに触れようとして、思い留まったようだった。

 置かれた手は、ぎゅっと握られて、再び彷徨わないよう自粛しているように見える。

「正直に言うと…。」

 了がゆっくり言った。

「オレは、館長は”男爵”の関係者だと思ってる。」

 それは先程、北代に詰め寄られて躊躇っていた事ではないのか。

「え?」

「最初の日、飛澤さんに会った時のこと、覚えてるか?」

「うん。」

「あのとき、俺は飛澤さんに、『館長が俺たちの事を何て言っていたか』聞いた。」

「聞いてた。」ユリが頷く。

「飛澤さんは、俺たちを『消防法について調べに来た人』と聞いたと言っていた。

 予告状の事も知らなかった。」

「でも、それって…。」

 余計な騒ぎにしたくないという、菅野の本音もあったのではないのか…。

「俺は気になって、何となく鎌をかけてみた。」

 飛澤と話を終え、館長室に戻ったときのことだ。


――スキさえつかれなければ、小部屋については充分過ぎる設備ですね。

――些か神経質すぎるとお思いでしょうね。

――いえ。

 むしろ、あれくらいないと、足りないでしょうね。

――あのシステムと小部屋を導入して、やっとあの”男爵”と〇の地点で並んだ、という気分ですよ…。

 あの”男爵”に狙われると思うと、どうしても神経過敏になってしまいましてね…。

――なるほどね。


 はっきりと覚えている。

「…フツーの応対に思えたけど…。」

「問題は、あそこまで神経を使ってセキュリティに拘っている割りに、飛澤さんに真実を伝えていないという点だ。

 どうしても”男爵”を阻止したいなら、出来うる限り警備関係の人間には情報を伝えておくべきだ。」

内通者(スパイ)が入り込んでたら大変だと思ったんじゃないの?」

 そういう心配もするかもしれない。

「そんな心配をするなら、そもそも君たちの立ち入りを許可するほうが間違ってる。

 君たちがどうの、ではなく、内通者を疑うなら、普通に考えればまず真っ先に、新しく外部から入ってくる人間を疑うはずだ。」

 答える了に、尚もユリは問う。

「その逆を突いたっていうのは?

 普段出入りしてる人の中に内通者がいたら判らないかも知れないから…。」

「外部の人間が、普段一緒にいない人物が内通者かどうか、どう見分けるんだ?」

「知らない人の方が、怪しい動きを見つけてくれたり、色々細かなところまで見てくれるって思うんじゃない?」

「普段その人がそういう動きをしているか、部外者が見極めるのは難しい。

 何に対しても疑ってかかってくれるという点では、ユリの意見も道理が通るが、内部の者が疑わしいなら、同じくらい外部の者も疑わしいはずだ。」

 問えば問うほど、自分の言い分の方が有り得ないと思えてくる。

 確かに、普段一緒にいる人間より、外部から入ってくる人間の方が疑わしいだろう。

 内通者の可能性を見極めたいなら、館内に入る人間は極力顔見知りに留めておいた方が楽だ。

 その逆を突く、と言う事はつまり、それだけスキが生じると言う事に他ならない。

 あの”小部屋”を導入するくらい神経質になっているのなら、完全に外部の人間の出入りは避けたいと思うのが、普通の人間の考えではないのか…。

 ユリが納得した顔をすると、了が続けた。

「そして、何より、館長の発言だ。」


――あのシステムと小部屋を導入して、やっとあの”男爵”と〇の地点で並んだ、という気分ですよ…。


「”男爵”は凄いって、考えてるって事でしょ…?」

「確かにそうだろう。

 だが考えてもみろ。

 あの”小部屋”を導入したのは、予告が届くずっと以前、今年の初めだ。」

「あ…。」

 ユリは小さく驚く。

「オレがあの発言をするなら、前以て予告が来ることが確実に判っていた時だ。

 事の順番を考慮すれば、あの場での発言は精々、『導入しておいてよかった』とか、その程度に留まると思う。」

 弱っている思考で考えても、その言い分は確かにそうかもしれない。

「え、でも、だって…。」

 例え予め”シリング展示会”を開催すると決まっていたとしても、それで展示するものを盗みに”男爵”が現れると判っていた場合にしか、そのセリフは言えないかも知れない。

 なら何故、菅野は”男爵”が現れると考えたのか…。

 ”男爵”について、了すらも知らない何かを知っているのか。

 ユリが戸惑って黙り込んでいると、了がふぅと息を吐いた。

「ま、飽く迄も推測に過ぎない。

 ”男爵”を捕まえれば、全部判る事だ。」

 そう言って、膝に置いたユリの手の上に、了が自分の手を乗せた。

 その手は冷たく、大きく、優しい。

「今は取り敢えず、捜査は警察に任せて、休んでくれ。」

「…大丈夫、疲れてない…。」

 ユリが首を振ると、了がまた微笑んだ。

「そう思ってるだけだ。

 自覚している以上に疲れてるはずだ。

 ゆっくり休んでくれ。

 芳生さんには了解を取ってる。

 クレアの目が覚めたら、家まで一緒に送る。」

 そう言って、了がぽん、とユリの手を叩いた。

「…うん…」と、素直に従うと、乗せた了の親指が、ユリの手の甲を撫でた。

「俺はまだ仕事があるから、もう少し待っててくれ。」

「…解った。」

 ユリが頷くと、了は「じゃあ、またあとで。」と言って立ち上がり、館長室を出て行った。

 その後姿を見つめながら、手の甲を摩る。

 まだ了の手の感覚が残っていて、立ち去った後も傍にいてくれているような錯覚を覚える。

 ユリは小さく溜め息をついて、ソファの背凭れに寄りかかり、手を掲げる。

 握られた感覚だけが残る手の甲には、当然何もない。

 その甲を額にやると、ふわりと何かの香りがした。

「ん…。この香り…。」

 どこかで嗅いだことのある香りだ。

 どこで、だろう…。

 花とも柑橘果実とも蜂蜜とも似た香り。

 記憶を辿るが、解らない。

(あいつ、何かつけてるのかな…。)

 ユリは目を閉じ、そのまま暫し浅い眠りに入った。

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