4月30日◆7
二階へ上がると、私服警官と思しき人間が、朝より人数を増して忙しなく動き回っていた。
隣に立っていた了が、北代を見つけ、声をかける。
「北代警部補。」
「蕪木。
遺留品と思しきものは、見付かりそうもないな。」
一通りの現場の捜索は終わったのだろう。北代が歩み寄りながら言った。
「じゃあ、タイピンが唯一の手がかりか…。」
了が腕組みをして考え込んだ。
「菅野館長も、まだ連絡が取れないらしい。
予定を把握している事務員に聞いたら、今日は外出・面会に限らず、予定は入っていないそうだ。」
「そうですか…。」
(菅野館長、どこ行っちゃったんだろう…。)
如何なる私用があれど、こういった施設の責任者ともなれば、一報は入れるだろうと思う。しかし、菅野からの連絡はなく、昨日美術館を出て以降の行動を知る者もいない。
「菅野館長が”男爵”の関係者である可能性もある。
監視映像記録の人影の件もある。
色々な状況を鑑みて、然るべき手配が必要なんじゃないのかね?」
北代が、じろりと了を睨み上げた。
了は口を噤んだまま、北代から視線を逸らす。
何故だろうか。先ほどから了に、いつもの歯切れのよさがない…。
「菅野館長の事は…。
暫く様子を見させてください。」
言葉を選んでいるのだろうか、ゆっくりと言う了に、北代が畳み掛ける。
「カフスが落ちていた事、もしかすると…。」
「それは…。」
詰め寄られ、柄になく了がたじろぐ。
万が一に、菅野の身に何か起こったのであれば…。
そこに”男爵”が関係しているのであれば…。
否、菅野こそが”男爵”である可能性も、状況からは否定出来ない。
そうならば、捜査は然るべき方面へ、急いで転向しなければならない。
「どうするね?」
もう一度圧され、了が俯いたまま頷いた。
「判りました…。
手配の準備をします。」
満足げにふんぞり返って、「よろしく頼むよ。」と言い、北代はふいと展示室の奥へ行ってしまった。
残された了は、身動ぎせず、俯いて立ったままだった。
顔には、悔しさが滲み出ている。
「大丈夫…?」
堪らず、声をかける。
こんなとき、いつもの了なら声をかけられるだけ屈辱だと見栄を張るだろう。
でも、今はそんな事連想も出来ないくらい、了は全てのものが落ちてしまったように立ち尽くしている。
ユリに声をかけられて、了はふと顔を上げた。
顔には、もう苦笑いの表情が浮かんでいる。
「君に心配されると、余計情けなくなる。」
「失礼ね!」
せっかく気を遣ったのに、とむくれるユリに、了が吹き出した。
「なっ…。」
何がおかしいのか吹き出した了に言い返そうとするが、同時に、ユリはどきりともしている。
初めて、嫌味なく笑った…。
今まで、どこかしらで裏に秘めたものがあったような笑顔しかしなかった了が、純粋に笑ったのだ。
本当の了は、どれなのだろう…。
ユリが怪訝な顔で了を見上げる。
すると、口を押さえて息を整え、了は真顔に戻った。
「すまんすまん。
こんな事をしている場合じゃないな。」
「コロコロ変わりすぎよ…。」
ユリが言うと、「君ほどじゃないよ」と一言嫌味をいい、北代の元へ向かって歩いて行った。
その後姿を眺めながら、ユリは再度考える。
一体どれが、本当の了なのだろう、と。
何かを真っ直ぐに見つめ、時折感情の一切を消し去る。不機嫌を装い、嫌味を言うくせに、ユリの手を振り払おうともせず、不意に笑う。
実体のない、雲のような不安定さを醸し出しながらも、そこにいるという安心感をいつの間にか与えられた。
ユリは解らない事に苛立ちを覚え、ぎゅっと拳を握った。
そして、また逸れてはいけないと思い、了の後を追う。
しかし、一歩踏み出した瞬間、中庭からとてつもない悲鳴が聞こえた。
「! 何!?」
辺りが一斉にどよめく。
キョロキョロと見回すユリに、了が叫んだ。
「ユリ! 中庭へ!」
「えっ、中庭!? って、もしかしてクレア!?」
そうだ、中庭には、クレアがいる。
思うが早いか、ユリが走り出す。
下りのエスカレータを駆け下り、エントランスの回転ドアをぐいと押すと、高く吹き上がった噴水の水飛沫が風に吹かれ、少し顔にかかった。
西に傾いた陽は強く、じり、と肌を焼いた。
噴水を回り込み、広い中庭を見回す。
クレアは…。
いた。
クレアは、中庭の真ん中の花壇に囲まれたベンチの前で、美術館を見、脅えていた。
「クレア!!」
駆け寄り、肩を掴む。
「あ…ああ…あああぁ…おじさま…。」
「え?」
クレアの言葉に、ユリが、クレアと視線を揃える。
美術館。否、もう少し上だ。
ユリが慎重に視線を動かす。
すると、六角形の塔の上、緑色の屋根に、違和感のある”もの”があった。
「!?」
目を凝らす。
段々と焦点が合っていき、それは”もの”ではなく”人”だと気付く。
「菅野館長!!!?
どうしてあんなところに!!」
紛れもなく、それは菅野だった。
仰向けに、そして頭を地面に向け、屋根の上に、まるで投げ捨てられたみたいに倒れていた。
眼鏡だろうか、きらりと光っている。
重力によって腕は地面に向かって下がって、今にもずり落ちそうだ。
ユリは呆然とその光景に見入ってしまった。
思考が止まってしまっていた。
ドサっ、と、後ろで崩れ落ちた音がする。
はっとして振り返ると、クレアが倒れている。
「クレア!!」
慌てて抱き起こすが、クレアの顔面は蒼白で、呼吸も消えそうなくらい小さい。
「クレアしっかり!
しっかりして!!」
言いながら、ユリ自身も腰が抜けている事に気付く。
どうしよう、どうしよう…。
気ばかりが焦って、次にどうすべきか解らない。
ふと、複数人が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
目をやると、館内で見かけた私服警官が数人、こちらへ走って来ていた。異変に気付き、駆けつけたのだろう。
ユリの元まで来た警官は、クレアの体を抱き上げ、別の警官がユリを支え起こした。
立ち上がりながら屋根を見ると、制服を着た警官が何人か屋根に上がっていた。
菅野の体が滑り落ちないように、体勢を変えている。
「ハシゴ!? ダメだろ!」
と声がする。
ユリの体を支えていた警官が、肩を叩いて館内へ戻るよう促した。
ユリは何も考えられず、ただ黙って従った。