4月30日◆6
”男爵”による、初めての犯行予告及び犯行が行われたのは、今から七年前になる。
七年前の三月七日。
フランスの資産家、リチャード・マルティン卿の屋敷に予告状が届いたのだ。
予告状の内容は、十日の深夜〇時に、屋敷の金庫に保管されている”蒼い薔薇”を盗むというもので、予告状通り、盗まれている。
「大英博物館の事件が一番最初じゃないの?」
ユリ、と言うより、世間一般の知りうる限り、”男爵”という怪名を持つ容疑者の一番最初の事件は、二年前のイギリスの事件だ。
「ああ。あの事件は四〇回目の犯行だ。
一般に公表されている限りでは、あの事件が初めての犯行だけどな。」
館長室のソファに前かがみに座り、膝を支えにぶらりと垂れ下げた両手を組み合わせ、了が上目遣いでユリを見上げた。
「四〇回目!?
ずいぶん長い事隠してたのね…」
ユリが驚くが、了はそれには答えなかった。
「”蒼い薔薇”は、マルティン卿の奥君が五〇歳の誕生日を迎えた際に、さる友人から送られた品で、シリング原産の黒ダイアを使用した、薔薇をモチーフとしたアクセサリーだ。
この黒ダイアは大変希少価値の高いもので、シリング国内でも採掘されるのは稀なものらしい。
”男爵”と自ら名乗っての犯行と、最初の獲物の希少価値の高さから、当時”男爵”は宝石コレクターなのではないかと推測された。」
その年の犯行回数は、全部で十二回。翌年、翌々年は八回。その翌年は六回。一昨年は五回。
そして昨年は、二回の犯行にとどまっている。
今年に入っての犯行は、今回の予告が初めてだが、いずれも予告状が届いてから十日後前後に犯行日が指定されており、貴金属類や宝石の類を取り扱う宝石商、富豪たちが身辺警備を厚くし、各々対策をしているにも拘らず、予告された品はまんまと盗み出され、どこぞへと消えてしまう。
「希少価値の高い、珍しいものばかりを盗む。
では、盗んだ品はどうしている?
盗んだものは、そう易々と転売できるものではない。
闇ルートを含む、ありとあらゆるルートが徹底的に捜査され、その捜査の過程で新たに発掘された闇ルートは膨大な量になった。
にも拘らず、”男爵”が盗み出した宝飾類の行方は知れないまま。
一時は、シリング原産の宝石をあしらった宝飾類が狙われているのではと、捜査も絞り込まれたりしたんだが、盗まれたものの中には、シリング原産以外の鉱物を使ったものも数多くあって、結局その説は否定された。」
宝飾品の入手ルートも、みなそれぞれ異なるが、いずれも友人から贈られたもの、賞や勲章として贈られたもの、持ち主は元より、贈り主それぞれの間にも然程深い接点はなく、”男爵”へ繋がる接点は、未だ見付かっていない。
世界中の然るべき機関が捜査にあたっているが、手がかりを何も掴めないまま、今に至る。
「これが男爵についての概要だ。」
頭の中に溢れるほど持っているのであろう”男爵”についての情報を、大まかにまとめ終えた了が、組んでいた両手を解し、すぐに組み直した。
「”蒼い薔薇”のほかには、何が盗まれたの?」
「他にか」と言い、了が即座に答える。
「盗まれたものの中で、特に高価なもの、価値の高いものをいくつか上げるなら、フランスからスペイン王国の王室に贈られ、国立中央銀行に一時的に預けられていた”蝶のはばたき”というトータル五〇〇カラットのダイアをあしらったブローチ、台湾の”故宮博物院”に展示されていた”落陽の光”というエメラルドの原石、日本からリトアニアへ交易友好の証しとして贈られ、”ヴィタウタス大公戦争博物館”に特別展示されていた”兵士の安堵”という時価数千万とも言われる鼈甲のネックレス…。」
そこまで聞いて、ユリが「ほえ…」と声を上げる。
「そのいずれのものにも、何の関わりを見つけられなかったって訳ね。」
「そういう事。
モノ自体の政治的規模がでかければでかいほど、モノの出所は掴み易い。
今のところ、それらのものに注目すべき共通点は、ないとされている。」
「でも、年々、犯行回数が減ってるのね。」
「減ってるね。
ユリは何故だと思う?」
真っ直ぐにユリを見つめたまま了が問う。
「え、何故…。うーん…。」
向かい側のソファで世間話でも聞くような体勢で聞いていたユリは、問われて背筋を伸ばす。
自分が『盗む立場』だったとしたら、犯行回数が減るのは何故だろうと考える。そこには、何故盗むのか、という根本的な切欠が存在する。
欲しいから盗む。相手を困らせたいから盗む。
切欠をそれに絞ったとして、ならば回数が減る理由は…。
「盗むものがなくなって来たから?
欲しいものがなくなったのかな…?」
「そうだな。
さっきも、芳生さんが言っていたが、何か目的があって盗み回っているなら、その目的次第では、盗むものは、盗むほど少なくなって行く。
もちろん、無差別に盗み回っているのなら、『飽きた』という可能性だって否定出来ない。」
「うんうん。」
ユリが頷く。
了の言う『飽きた』が真実なら、だいぶ人間臭い容疑者だと思う。
遺留品を残さない犯行の完璧さ、予告どおりに事を成し遂げるという完結さ、正体を掴ませないという完全さ、どれをとっても、有り得ないくらい機械的な気がする。ここにどんな感情があるか、朧気には感じるが表現出来ない。
「犯人像って、出来てるの?」
「出来てるよ。」
ユリの問いに、了がまた即座に答える。
「当ててみるか?」と挑戦的に言われて、ユリが腕組みをする。
「うーん…。
厳重な警備を掻い潜って、失敗ナシ。
運がいいのね…。」
と、ユリらしいといえばそれまでだが、少し見当違いな回答をする。
了が呆れた。
「…なに?」
「運がいいって言うのは、人物像として適切だと思うのか?」
可哀相なものでも見るような表情で、了が訊ねた。
「うん」と、ユリが何の迷いもなく答えると、匠が隣で笑った。
了は首をがくりと落とした。
そして肩を揺らして少し笑った後、はぁと溜め息を吐いて、ユリを見上げる。「それだけか?」
「計画実行能力は、ズバ抜けて高いわよね。」
「それは同意するところだな。」
やや捻くれた回答をする了に、ユリが「素直じゃないわね」とふくれる。
「盗みの手口は詳しくは知らないけど、どの道、盗み出せてるなら手段自体は問題ではない気がする。
あ、という事は、目的のためには手段を選ばない人物なのかな…。」
最後に付け加えたユリの一言に、了が一瞬ぴくりと眉を顰めた。
本当に一瞬の事だったので、見間違いかと思った。
「何?」と問いたかったが、了の視線があまりに真っ直ぐにユリを射ていて、問う事自体躊躇われた。
眉を顰めたその一瞬の目付きは、今まで見たどの了の目付きより鋭かった、ような気がする。
それでいて、瞳は光がすぅっと消えてしまったようにマットで、感情自体はなかった、ような気がする。
だがそれも一瞬の事で、それと認識する前に何もかもが元に戻ってしまうから、気のせいか見間違いかと思う外なく、ユリはこの日何度目か、戸惑いを覚えた。
ふと気付いたときに感じる、そして一瞬で消えてしまう、了の全体から溢れる得体の知れない何か。
それは、見知らぬ人物と対峙しているときに感じる不安定さとは比べ物にならないくらい、ユリの心を不条理に揺さぶる。
意識的に造る表情は、溢れ出てしまう真の感情を隠すためのものなのかも知れない。
不意に、了が思いを巡らすユリの顔を覗き込んだ。
「目を開けたまま寝るのは特技なのか?」
「寝てないわよ!」
弄られ、つい大声が出る。
ユリの反応にニヤリと笑って、了はまた「それだけか?」と聞いた。
「え…、ああ、うん。
あとはね…。」
ユリは最後に、何となしに思ったことを語った。
「話を聞いていて、一番強く思う事って、『何かを恨んでいる』ような気がするっていうところかな…。拘ってるって言うか…。」
口に出して、思った。”男爵”の犯行が機械的だと感じた部分に付随する感情が『憎しみ』や『執着』なら、しっくりくる、と。
それが何故しっくり来るのかは説明出来ない。
だが、ユリの中でそうであるなら、納得が行った。
興味深そうに、「ほう?」と了が言う。
「叔父さんがさっき、何か目的があって盗み回ってるんじゃないかって言ってたけど、そうだとするなら、転売目的か、コレクションのためかっていう発想が自然だとは思うんだけど…。
でもそれにしては、警備が厳重な場所を多く狙ってるし、きっと何をおいても『これが欲しい』と思って盗んでる感じなの。」
相変わらず、”男爵”の犯行の詳細は把握していない。
だが、今までに盗み取ったものの種別や、存在価値、所有者の世間的な地位から弾き出される難易度は、判り易いほど高い。
わざわざそれらを選ぶ理由は知れないが、そこにある感情は、汲み取る事が出来るかも知れない。
「人がそこまで気持ちを入れて行動する時って、ポジティブな想いより、むしろネガティブな想いが強いときだと思うのよ…。」
頭の中の不確定要素が、言葉にする事で形になっていくのが解った。
これは思い込みというのとは違う、強いて言うなら、直感のようなものだ。
ユリの言葉に、了が呆然とした。
「………。」
「…何よ?」
「まともな事を言ったんで、びっくりした。」
「ちょ!
どういう意味よ!」
テーブルを叩いて立ち上がったユリに、匠が手を叩いて大笑いした。
呆然とし終えたのか、了がソファの背凭れにぐぅっと深く凭れ掛かった。
傍らに置かれたクッションに預けた腕で頬杖をついて、脚を大きく広げて仰け反り座る姿は、とてもふてぶてしかった。
「実行力が高いことは、今までの”実績”で否定の予知はない。」
了が静かに言う。
「運がいい…、というのはさておき、」
「さておかないでよ。」
突っ込むユリをちらりと見て、ニヤリと笑う。
「なるほど、まぁ、君らしいと言えば君らしい。」
「だな。」と匠も同意して頷く。
「何よ。
情報が少なすぎるのよ…。」
そう言ってふくれるユリに苦笑して、了は窓の外に目をやる。
表情はすぐに、真顔に戻った。
「何かを恨んでいるっていうのは、気になるな…。」
「でしょ?」
得意げに、ユリが身を乗り出した。
「とはいえ、何に恨みを抱いているかは、本人以外、神のみぞ知るってところか…。
可能性に過ぎないしな。」
「警察では、どんな犯人だと思ってるの?」
「ん? …ああ…。」
ユリに聞かれて、了が口篭った。
そしてまた前屈みの姿勢に戻し、今度は組んだ両手の指を遊ばせながら、
「警察…というか、『”男爵”を追う公的組織』ってのがあってな、そこでの見解が、警察でも取り入れられている訳だが。」
「そんな組織があるの?」
「まぁ、捜査本部のようなものだという解釈で問題ないが…。
そこでの見解は、手口や、予告状の筆跡から、『幼少の頃から高度な教育を受けた形跡が見られる一方、文体に僅かながら幼い性格が垣間見える』。
つまり、どことなく純粋な一面を持ち合わせ、センシティブな人物である…と。」
遊ばせている指を見つめながら、了が淡々と説明をする。
「せんしてぃぶ…。」
「敏感、細やかな、繊細な、という意味だが、まぁ要は、神経質とも取れる一面を持っているようだ、と。」
頷くユリ。
「最初の犯行、つまり七年前の三月七日から一年は、一ヶ月に一度のペースで犯行に及んでいるため、犯行が終わってから次の犯行までの間、最長一ヶ月は次の犯行を行う国へ入国し、生活している可能性が高いとの予測から、入国管理、空港のセキュリティチェックを含め、各国の情報を照合した。
だが不思議な事に、期間をどれだけ長くしても短くしても、犯行を行う国を巡っている人物は存在しない。
偽装パスポートの使用の可能性もあるが、該当する記録がない。」
了の指が遊ぶのを止めた。
「あまりに当て嵌まるピースがないために、一時は模倣犯、もしくは複数犯説まで浮上したが、今は同一犯説に落ち着いている。」
「なぜ?」
「大抵の犯行は、犯行予告があるために、選任捜査員だのなんだの、大量の目撃者がいる訳だ。
中には、予告があるたびに現場へ駆けつける他国の捜査員もいる。
そんな人間の目の前で、あいつはいつも同じような身のこなしで現れ、獲物を奪って消えていく。
犯罪成功率の高さから、捜査員や関係者の中にスパイや、変装された者がいるかも知れないと調べるが、なんの痕跡も見つけることが出来ない。」
「訓練すれば、同じように動いたり、同じ体型になったりする事も出来るんじゃない?」
ユリの問いに、「人間、そこまで便利には出来ていないものだ。」と了が答える。
「でもさ、たまに会う人の体型とか、そこまで明確に覚えてるもの?」
確かにそうなのだ。
毎日見ている相手ならともかく、ここ最近ともなれば、それこそ数ヶ月ぶりの目撃になるはずだ。印象より痩せているとか、太っているとか、こんなに背が高かったかとか、普段でも再会に伴いふと疑問に思う事項は沢山ある。
犯罪者なのだから、写真資料くらいはあるだろう。
だがそれだって、現場でその写真と本人を見比べている人間がいるのかと問われれば、やはりいないのだろうと思う。
なら、『いつも同じように』という印象は、ずいぶん曖昧なものだ。
「お前の言いたい事はよく解る。
ただ、単独犯が複数犯へ変わったところで、結局手がかりがない状況は変わらないんだ…。
結局この七年間、何一つ手がかりを得られないまま、犯行だけが繰り返されている。
警備システムや、警備体制が進歩しているにも拘らず、ヤツには追い付けないでいる。」
「屈辱的だろうね。」
匠が呟くと、了が下を向いたまま苦悶の表情を浮かべる。
「ええ。」
一度は、直に取り逃がしているという。
その悔しさは、計り知れない。
「ふぅん…。
で、さっきのタイピンか…。」
ユリが言うと、了がやっと顔を上げた。
「ああ。
最初で最後の手がかりかもしれない。
慎重に、確実にやりたい。」
珍しく、了が感情で物をはっきりと言った、と思った。
そして、その瞳。ユリを見ているのに、意識がユリにないときの目。
また、前を真っ直ぐに見、ユリなど手の届かないところに心を持っていってしまった目だ。
何を見ているのか。何を掴もうとしているのか、どこに心を持って行ってしまうのか。
何故ここまで、『”男爵”を追って来たのか』。
執着とは違うが、”男爵”に対し、執念のようなものを感じる。
それが悔しさなのか、悔しさゆえの執念なのか、ユリには判らない。
暫し見つめ合って、ユリがぐっと唇を噛む。
唐突に、館長室のドアが開いた。
「失礼します。
蕪木さん。」
声がしてドアに目をやると、いつも見かける警備員が立っていた。
「はい」と、了が返事をする。
「北代警部補がお呼びです。」
「ああ、すぐ行きます。」
警備員は、了の回答を聞いて一礼をし、すぐにドアを閉めた。
立ち上がりながら、「芳生さんも…」と言う了に、匠が、
「僕はここでクレアちゃんと館長の戻りを待つ事にするよ。
必要があったら呼んでくれ。
基本的に、ここでの行動は、ユリに任せようと思っているんだ。」
と、ユリを見た。
「え!?」
初日にも同じ事を言われたが、本気だったのかとユリが驚く。
「出来るね、ユリ?」
いつもと同じ笑顔だが、声は普段よりトーンを落として、真剣さが漂う。
ここまで来たのだ。やらない訳にいかない。
「うん! がんばる!」
拳を握り締め、返事をするユリに、了が一言呟いた。
「心配だ…。」
「なっ…。」
ユリが反論しようと了を振り返ると、了は早足で館長室を出て行ってしまった。
むくれたままドアを見つめるユリに、匠はくすりと笑った後、「ユリ」と呼んだ。
「蕪木クンはね、口ではああ言っても、いつもお前の事を心配して、フォローしてくれてるんだよ。」
「そうかしら…。」
そう言いながら、素直じゃないのは自分も同じだと思う。
何となく、常に自分を視界の隅においてくれていることは、ユリも気付いている。
「そのうち判るさ。」
匠が微笑んだ。
あまりに優しく微笑むので、何かあるのかと勘繰る。
ユリが困惑したまま匠を見ていると、後ろから了の声がした。
「行かないのか?」
振り返ると、了が不機嫌な顔をドアの隙間から覗かせている。
「行く! ちょっと待って!」
ユリが踵を返すと、その背中に「頼んだよ」と匠が言った。
「うん!」
振り返り、にこりと笑って返事をすると、ユリは了に駆け寄った。
了がドアをもう少しだけ開け、ユリに出るよう促す。
ユリが出ると、後ろ手にドアを閉め、了は早足で職員通路を歩き出した。ユリが追う。
追いながら、地下でしたのと同じように、了の手を見下ろす。
小指の擦り傷が、また目に入る。
思いの外、細く整った指に、手入れされているような綺麗な爪。その爪の間に、黒い汚れを見付けた。
インクだろうか。
思いながら、了を見上げる。
不意に、了がユリに振り返った。ちらりと見、また前を向く。
そう、そんな感じ、とユリは思う。
ユリを視界の隅に入れる行動が、正に、今の仕草だ。
守られているのだと思う。
何故かは解らないが。
(あ、だからか…。)
ユリが、また小指を見る。
擦り傷が気になったのは、守られていると無意識に解っていたからだ。
ユリを守ろうとしている指に傷がある。
それが関係あるか否かは解らないが、傷がある事が不安なのだ。
それは、守りきってくれないであろうという不安ではなく、守る事で、自己犠牲を伴うのではないかという不安だった。
逸れてはいけない、追いつかなくては、と思ったのはきっと、守るという無言の姿勢からも、それを感じ取ったからなのだと思う。
逸れてはいけないなら、常に傍にいて、どこかに行ってしまわないように掴んでいるしか方法が見付からない。
ユリは了のジャケットの背中の裾を掴んだ。
了が驚いて振り返る。
下を向いたまま裾を掴むユリに、了は小さく首を傾げたあと、ふっと困ったような苦笑をした。




