4月30日◆5
了の雰囲気に気圧されて、ユリは押し黙ったまま、了に続いて館長室に入る。
「戻りました。」
了が言うと、匠が振り返った。
「おかえり。
その顔は、何か掴んで来たって顔だな。」
了の顔を見るなり、ニヤリと笑う。
「まだ、確定ではないのですが…。」
了が匠から視線を逸らせた。
いつも自信満々のあいつが、と、了の背中を見守るユリは思った。
了は、しかしすぐに匠をみて、「菅野館長は、まだ見付かりませんか?」と問うた。
匠が目を閉じて、ゆっくり首を振る。
みなが「そうか…」と言った様子で溜め息を吐くと、
「”男爵”のタイピンだったって?」
何をしていたのか、菅野のデスクの上を眺めていた北代が言った。
「十中八九…。」また煮え切らない声で了が答える。
「今、セキュリティルームで、昨夜ここを閉館してから、今朝、芳生ユリがタイピンを見つけるまでの、監視カメラの映像を確認してきました。」
ほう、という顔をして、北代と匠が聞きの体勢になった。
了はそれを確認して、続ける。
「まず、二二時〇五分、まだピンは落ちていませんが、黒い布状の物体がカメラのフレームに微かに入り込んでいます。
その後、二三時五九分、金属らしきものの光の反射を、カメラが捕らえています。恐らく、この直前にタイピンが落ちたのでしょう。
そして最後、〇三時〇二分、人の影らしきものが二体、映っていました。
これは文字通り、床に映った人の影です。
セキュリティルームの責任者、飛澤氏の話では、昨晩はアラームは鳴らなかったようです。
ですから、素直に考えれば、”男爵”か、”男爵”に近しい人物が、この館の関係者にいる可能性が高い。」
「しかも、アラームの鳴るレベルのセキュリティを解除する事が可能な権限を持つ人物…。」
了の言葉に、匠が続けた。了も頷く。
ユリを始め、今回事件の関係者としてこの美術館に出入りをする人間にも、夜、美術館の床に張り巡らされたセンサーと連動したアラームは解除出来る。
解除と偏に言っても、この館内のそれは些か特殊で、センサー自体はセキュリティ・ルームで館内全体のセンサーを止める方法でしか解除出来ない。そこで、センサーに対して、特定のレベルの許可が下されたカードを造り、それを持つ者は”不審物”ではないと認識させることで、事実上セキュリティを”解除”出来る仕組みになっているらしい。
そして今のところ、そのカードを持つことを赦されているのは、この美術館の警備を勤める警備員の当直の者、ユリ、匠、了、北代、館の職員のうちの数名と、菅野だけだと言う事だった。
「北代警部補。」と、了が呼ぶ。
「うん?」
「今、このタイピンが発見された中展示室を中心に、近辺を調べてもらっています。
今までの事件同様、指紋などは見付からないとは思いますが、タイピンほどのものを落としたんです、他にも何か落としているかも知れない。」
可能性にかけて、鑑識班を呼び寄せ、捜査をさせている。
そう説明を受けた北代が、不服そうに眉間に皺を寄せた。
「解った。
館内の捜査指示は、私が引き継ごう。」
腕組をし、了を睨む。
了は真っ直ぐに北代に向かい、
「勝手な真似をしました。」
と頭を下げた。北代が「ふん」と鼻を鳴らす。
「仕方あるまい。
では、私はこれで。
二階にいるので、何かあったら…。」
「わかりました。」
了が言うと、北代はどすどすと大きな足音を立てて、部屋を出て行った。
いつの間にか張り詰めた空気は、北代の足音が聞こえなくなっても緩まなかった。
ユリが横目でちらりと了を見る。
了は先程まで北代が立っていた場所をただじっと睨みつけていた。
その横顔から汲み取れる感情は、ユリの知り得るところではない。
匠も黙ったまま、床の一点を眺めていた。
どのくらい時間が経ったか、了が、ふぅ、と溜め息をついたのを期に、匠がくすくすと笑った。
「気苦労が多いね。」
言われて、了が匠を振り返り、苦笑した。
「たまに堪えます。」
二人の会話にユリが怪訝な顔をする。
「ときに、芳生さん。」
「うん?」
「ここまでに得られた情報から、芳生さんなら、どんな推理をしますか?」
苦笑をすっと仕舞い込んで、了が匠を見据えた。
その表情に、ユリはまた、少し怖くなる。
地下の廊下で見たあの後姿と同じ雰囲気なのだ。
手の届かないところに、了が心を持っていってしまう。
そんな了に、匠が微笑んだ。
「嬉しいねぇ。
素人の意見を聞いてくれるのかい?」
その言葉に、了がキッと唇を噛んで俯いた。
「勉強しなければならないのは、ボクのほうです。」
言われて、匠がさらに柔らかく笑う。
「有り難いよ。
君の気持ちが…。」
了が僅かに首を振って、匠を見上げ、苦笑した。
相変わらず怪訝な表情のまま、二人のやり取りを眺めていたユリは、腹で呟いた。
(何かしら…。
男同士で…。
あ、おっさん同士…?)
「誰がおっさんだ。」
突如、了が不機嫌な顔を造ってユリを見た。
「えっ!?」
声に出てしまったのかと口を抑えると、「君はわかり易過ぎる」と、了が腰に手を当てた。
「うっ」とたじろぐユリに、匠が大笑いをする。
地下から戻ってから、いまいち了に強く出る気になれない。ユリが珍しく圧されているのを見ながら一頻り笑い終えた匠は、何故か靴を脱ぎ、ソファに登って背凭れに腰掛けた。
「蕪木クン、僕の推理だが…。」
「はい。」
了が姿勢を正す。
「僕は君ほど、”男爵”に関する情報を持っていないから、何とも言いようがないのが本音だ。
でも、その上で敢えて推理するならば…。」
匠が人差し指を振った。
「”男爵”と菅野館長、延いてはシリングとの間に、何らかの深い繋がりがあると見ていいと考えている。」
匠の言葉に、ユリが目を見開く。が、了は至って冷静に、表情一つ変えない。
「”男爵”とシリングとの間にも、ですか…。」
「うん。」
平然と答える匠に、了が悔しそうな顔をする。
「…なるほど…。
やはり芳生さんは鋭いですね。」
「いやいや。
飽く迄も推理だからね。
最初に言ったように、僕は”男爵”についてはそれほど深い理解はない。」
と、匠が両手を振って否定した。しかし、「ただ…」と続ける。
「なんとなくね、何かの目的があって盗みまわっているようにしか、見えなくてね。
そして、シリング王国の展示会。
この美術館とシリングの繋がり、館長と大使の繋がり。
今回の条件だけで見ると、どうしても繋がりを考えてしまうものさ。」
この美術館に呼ばれ、訪れた日に、飛澤から聞いたシリング大使と菅野の”偶然”の出会い。そこから今日までの間に、この美術館とシリングを結ぶ糸が何本か見えた。
一見ただの偶然でも、それは意図的に創られたものかも知れない。
あの時は考えすぎかと首を振ったが、可能性は〇ではない。
「そうですね。」
了が頷いて、腕組をした。
ここで、ユリがきょろきょろと室内を見回す。
「そういえば、クレアは?」
「ああ、クレアちゃんなら、中庭へ散歩に行くって、出て行ったよ。
昼間のうちは、捜査官もいるし、安全だろうと思ってね。」
匠が答える。「そっか」と、ユリは返事をして、徐に手を叩く。
「あ、ねえ。
叔父さんと蕪木さんの時間があるなら、”男爵”について教えてよ。」
「ああ、そうだな」と了が頷く。
「僕は構わないけど、”男爵”について日本で一番詳しいのは、蕪木クンだからね。」
匠が肩を竦めて、「僕の話は、役に立たないかもなぁ」と続けたので、ユリが了を見上げた。
「…あ、”男爵”オタク?」
ユリの言葉に、了が呆れ、匠が笑った。
その様子に、ユリは少し、ほっとする。
よかった、いつもの了だ、と。