4月30日◆4
「おう、兄さん、連れてきたぞ。」
セキュリティ・ルームへ入るなり、飛澤が言った。
飛澤の後ろから前方を覗くと、了がとつもなく不機嫌な顔をしてモニタの前で仁王立ちしている。
いつもどおりの眠そうな目元が、ユリを睨みつける。
薄暗い室内を照らすモニタの光が、その睨みをさらに鋭いものに演出していた。
ユリがどきりとする。
(う…。
明らかに不機嫌な顔…。)
眉間に皺を寄せ、了の視線に恐怖すると、そんなユリに了が呟いた。
「すまん。」
「…はい?」
突然詫びられて、戸惑う。
「顔を戻す余裕がない。」
何が理由かはまだ判らないが、了は今、かなり焦っているらしい。
「…。
…ぷ。」
思わず、ユリが吹きだす。
「笑うな…。」
照れ隠しなのか、今度は本当に不機嫌な顔をして、了が言った。
「ごめんごめん。
ところで、私の手を借りたいって、どういう事?」
笑いが止まらないユリが訊ねると、了は漸く、落ち着きを取り戻したように表情を和らげる。
「ああ。」
そう言って、ユリが拾ったタイピンを見せる。
了が入れたのか、タイピンはジッパー付きの小さな透明袋に入れられていた。
「タイピンね。」
「ただのタイピンじゃない。」
ユリが頷きながら言うと、了は真っ直ぐユリを見つめて言った。「”男爵”のタイピンだ。」
「え!?」
驚くユリに、了が話し始める。
「”男爵”は今まで、一度も遺留品が見付からなかった事でも有名なんだ。」
「じゃあ、どうしてそれが”男爵”のだって言えるの?」
問うユリに、了が一瞬ぐっと何かを飲み込んで、ユリから目を逸らした。そして少し思いに耽った後、悔しそうな顔をした。
「…俺は、一度目の前で”男爵”を逃した事がある。」
「ええ?」
突然の告白に、ユリが了を覗き込む。
「スウェーデンの事件のとき、たまたま捜査に加えてもらっていた。
去年の二回目の事件だ。
そのとき、そのタイピンを見た。」
了は続ける。
「アイツは、予告状以外、一切の証拠を残さない。
という事は、そもそもアイツの持ち物の類似品は作れないんだ。
そのタイピンを、世界中のマーケットに照合した結果、一般に流通していない、完全なオーダーメイドだという結論に至った。」
「それで『”男爵”のもの』と断定した訳ね?」
タイピンを見つめる了の横顔に、ユリが頷いた。記憶だけで断定という以上、非公式的なものだろう。恐らく、了の確信だけの上で成り立つ結論ではあろうが、了にはそれで十分なのだろうと思う。
「ああ。」
小さく頷いて、了は丁寧にタイピンの入った袋を、ジャケットのポケットに仕舞う。
「実物が手に入った以上、製造ルートも割り出せるかも知れない。
だがまずは、この館内に”男爵”、もしくは”男爵”と接触を持った人間が入ったという事実について調べなくてはならない。」
「うんうん。」
相槌を打ったあと、ユリはぽん、と手を叩く。
「あ、そうか、そこでセキュリティ・ルームなのね。」
「賢くなったな。」
だいぶ余裕が戻ってきたのか、了はいつものように茶々を入れ、ニヤリと笑った。
「失礼ね!」と、ユリもいつもどおりふくれる。
満足したのか、了はすぐに表情を元に戻した。
「このセキュリティ・ルームの監視カメラは、過去一六八時間分の記録が保存出来るようになっているのは思えてるな?
昨日一昨日と発見される事のなかった、このタイピンが落ちていた付近に近づいた人間が、ユリ以外にいれば、その人物が容疑者か、それに近しい人物と言えるかも知れない。」
了の調査の結果、今回の改装工事は夜に行われているという事だったが、昨夜と二日前の夜は、改装業者は館内に入っていないという事だった。ちなみに、それは予定通りの事だという。
「うんうん。」
ユリが頷き、しかしすぐに思いつく。
「あ、でもさ…、それって…。」
「ん?」
「他にいなかったら………、私って事?」
身に覚えがないのだが、そう言われてしまうのだろう…。
「そうかもな。」
もちろんそんな事は有り得ない事くらい、了も承知している。が、ここは弄るに限る。
またニヤリと笑う了に、ユリが大口を開けた。
「な…っ!!」と、抗議を始めようとしたユリの声を、飛澤が遮った。
「兄ちゃん、嬢ちゃん。
取り敢えず、昨日の晩、ここを閉鎖した後の映像を映すぞ。」
飛澤の言葉に、了が真顔に戻る。
「お願いします。」
返事をして、モニタに視線を移す。ユリも、了に倣ってモニタを見上げる。
数十個並ぶモニタ群の中に、一つ、二周りほど他より大きなモニタがある。それが、ブツっと一瞬消え、ある光景を映し出した。
右上に白い文字で、『中展示』『4/29』『18:00』と表示されている。
室内を上部から映した映像なので判り難いが、西側の中展示室のようだった。
昨日、十八時頃の中展示室を映しているらしい。
時折、警備員らしき人間の後姿が早足で映り、去って行く。
どうやら、何倍速かで再生しているようだ。
表示されている時間が、数秒で一分、経過している。
「営業時間内は、客の出入りこそないが、改装工事の業者の連中の出入りはある。
ただ、もう粗方、改装は終わってるから、日中の業者の出入りはそんなに多くない。ちょっと偉いやつがウロウロして帰るだけって感じだな。
実際の作業者も、夜、ちょろっと来て、シート取って細かな点検をしたり、窓だの何だのってデリケートなところの改装だけなんで、人数もそんなに必要ないんだとさ。」
と言う事は、昼間に限らず、夜も誰かしらの出入りはあるという事なのだ。
当然の事ながら、セキュリティ・ルームには当直の警備員がいて、カメラの確認や、定時の見回りは行っているという。
「ただ、昨日は当直のメンツの事情で、見回りの時間が、いつもと違う時間だったんだよ。
確か、閉館後にすぐと、朝だな。夜中の見回りはやらないで、映像の監視だけだった。」
了が顎を撫でた。
「いずれにしても、日中に落とせば、誰かの目には留まって、何らかの報告が入ってもおかしくない…。」
「なら、やはり閉館後か…」と眉間に皺を寄せた了が、直視していたモニタに何かを見つけた。
「ん?
今、一瞬何か映ったな…。
映ったというか、入り込んだというか…。」
『22:05』くらいだった、と了が言うと、「巻き戻します」と操作していた警備員が言う。
分数が10、9、8と戻っていき、6から5に変わる瞬間、部屋の中心に黒い何かが映った。警備員が、今度はコマ送りでその部分を表示し、一時停止をする。
「これ…、布??」
形状からすると布のようだった。マントがたなびいているかのように、暗がりの中にそれは映り、そして一瞬にして消えている。
横にいる了が、じっとモニタを凝視している。
「よう、なんなんだい、こりゃ?」
飛澤が、眉をハの字にして問うた。
「これは…。」ユリが言いかけると、
「いや、昨日見回った時に何もなかったところに、誰の持ち物でもないものが落ちてたので、誰かが入り込んだんじゃないかと。」
と了がユリを遮った。すると、飛澤が眉をさらにふにゃりと曲げ、
「なんだい、あんたら、ここのセキュリティを信用してないのかい?
誰かが入り込んだら、瞬時に判るぜ。
昨日の晩はアラームも鳴らなかったからな、多分部内者だろうぜ?」
と言った。
「…そうか…。」
少し考えてから、了が言う。
何か思いついたのだろうか。
「何?」
ユリが訊ねると、「いや…」と、了が悩んだまま答える。視線は相変わらずモニタに向いたままで、顎に当てていると思っていた指は口許にあった。
微かに、爪を噛む仕草をしてからすぐに腕組をし、モニタを直視したまま飛澤に言う。
「飛澤さん、取り敢えず、朝までの記録を見せてください。」
「おう。」
軽快に答えた飛澤が警備員に指示をする。
黒い何かが映った場所から、先程と同じ倍速で映像が流れていく。
そして、〇時に差し掛かったあたりで、突如きらりと、何かが小さく光った。
「あっ、今、キラって!」
ユリが指をさすと、警備員が映像をコマ送りで戻す。
時計が『00:00:00』と『23:59:59』の間で揺れている。その数字のすぐ下、ちょうどユリがタイピンを拾った場所で、窓からの月明かりに照らされ、突然キラリと光った何かが映っている。
「タイピンが落ちたのは、このときなんだな…。」
了の中で、この光はタイピンと確定したらしく、後ろを見向きもせず、片手を挙げて続きを促す。
さらに映像は進んでいき、時計が『03:02』の付近で、また何かが映った。
「…?
影…か…?」
了が眉を顰める。
「え?
どのへん?」
ユリが身を乗り出す。映像は、了が声を上げた時点で止まっているが、若干過ぎてしまっていて、何も映っていない。
「そのあたり、コマ送りで見せてください。」
言われて、警備員がゆっくりと巻き戻していく。
やがて画面右端、特別展示室と繋がる入り口付近の床に、ぼんやりと何かが映った。
「影だ…。」了が即座に言った。
「人影だ。
それも、二体…。」
特別展示室に誰かがいたという事だろうか。
「同時刻の、特別展示室の映像は観られますか?」
了が言うと、操作をしていた警備員が手際よく映像を切り替えた。
表示された時間は『03:02:20』、場所は『特展示』とある。
しかし、映し出された特別展示室の映像には、何も映っていなかった。
「……。」
「どういう事?」
ユリが聞くが、了は上の空のようで、答えもしないまま、また片手を挙げた。合図に合わせて、中展示室の表示に戻り、また映像が進む。
やがて画面全体が明るくなっていき、仄かに光が差し込んだ。
夜が明けたのだ。
時計を見ると『05:58』を過ぎたところだった。
そしてすぐに、見覚えのある姿が三度、カメラ前を行き来した。
「…。
迷子か…」
紛れもない。ユリの姿だ。了が呆れる。
「違うわよ!」とユリが言うと、後ろで飛澤が笑った。
四度目にカメラ前を通ったところで、ユリがしゃがんだ。
「あ、ピン拾った!」
そのユリの声に答えるように、了が前かがみになっていた姿勢を正した。「ここまででいいな…。」
そして、もういいの?というユリの顔を見た。
手を借りたいと言われはしたが、何もしていない気がする。
「…。
芳生さんのところに戻ろう。」
「あ、うん。」
ユリが頷くと、了が小さく頷き返して、飛澤を振り返る。
「飛澤さん、有難うございました。
最後に一つ。
今朝から、館長の姿が見えませんが、何か知りませんか?」
了の問いに、「館長、いないのかい?」と飛澤が答えた。
「さぁ、オレはここに五時には来てたが、見かけなかったなぁ。
監視カメラにも映ってた記憶もないぜ。」
肩を竦める飛澤に、了は本当に納得した表情で「ありがとうございます」と頷いて、
「行こう。」
ユリをちらりと見、さっさとセキュリティ・ルームから出て行ってしまう。
「うん。
飛澤さん、有難うございました。」
ドアの前でユリが頭を下げると、飛澤は腰に手を当てて胸を張り、にかっと笑う。
「いいってことよ!
また困った事があったら、いつでも来な!」
ユリもにこりと笑い、すぐに踵を返した。
了の足音が、聞こえなくなりそうだったからだ。
廊下を見ると、既に了は角を曲がってしまっていて、姿は見えなかった。
追いつかなくては。
何故か逸れてはいけない気がして、ユリは走った。
角を曲がると、了の背中が見えた。
姿勢のいい、体格より大きく見える背中だ。
軸がブレず、真っ直ぐ前を見つめて歩いている。
少し長めの髪が、歩くたびにふわりとなびく。
駆け寄り、手を伸ばせば背中に触れるくらいまで近付いたところで、ユリは走るのをやめ、早歩きに変えた。
大きな手がぐっと握り締められ、規則正しく前後に揺れる。
(頭の中、”男爵”でいっぱいって感じ…。)
了を見上げながら、ユリが思う。
すると、まるで見透したようなタイミングで、了がユリを呼んだ。
「ユリ。」
突然呼ばれて、ユリの心臓が一瞬止まる。
「は、はいっ。」
「”男爵”について、どの程度の知識がある?」
了は振り向きもせず、問いかけた。
「…実は、新聞で読む程度の知識しかないの。
今日、叔父さんに聞こうと思ってた…。」
「そうか。」
ユリの答えに、了が短く言う。そして、
「あとで、”男爵”について可能な限りの情報を教える。
時間を作ってくれ。」
いつもより低い声で、了が言った。
ユリは、やっと認めてくれたような気がして、「うん!」と力強く答える。
そして、セキュリティ・ルームを出たときの気持ちを思い出す。
この人から逸れてはいけない。
確かにそう感じた。
散々ムカツクと繰り返してきた相手だというのに、抱く信頼はいつの間にか篤くなっていた。
それに気付いた瞬間、何かを真っ直ぐに目指す後姿に自分の歩みがついていかなくなりそうで、怖くなった。
ふと、了の手を見る。
何で作ったのか、小指に掠り傷が見えた。
すると今、すでに逸れそうになっているような気分になり、ユリは無意識に、了の手を握ろうと手を伸ばし、そしてもう少しで触れる、というところで、急に躊躇い、手を引っ込めた。
予期せぬ感情に、ユリは戸惑った。
手持ち無沙汰になった両手を、祈るように握る。
赦されるなら、その背中にしがみ付いてしまいたいくらい、逸れるのが怖くてたまらなかった。




