4月30日◆1
◆
目の前で、何かが強烈に光った。
そして、遠くのほうで、どん、という音がした。
黒い煙が、青く深く広がる青空に向かって登っていた。
硝子越しに、何かが激しく燃えていた。
ザワザワというささやきが、誰かが叫んだのを期に、悲鳴と怒号に変わった。
泣き叫び、視界の端で崩れ落ちる人影も見えた。
そんな中で…。
足が動かなくて。
何も考えられなくて。
感情の一切が消えてなくなってしまった。
瞬きをする事も出来なくて、ただただ、呆然と、目の前の炎を見つめていた。
やがて誰かが腕を掴んで、肩を揺さぶった。
何か言っている。
耳に入ってくるのに、受け止めることが出来ず、そのまま逆の耳から出て行ってしまったみたいに、聞き取ることが出来なかった。
でも微かに覚えている。
あの人は言った。
生きてくれ、と。
笑ってくれ、と。
オレが君の手足になる。
頭にも、口にも、目にもなる。
オレは君のために何でもする。
君がもう一度笑ってくれるなら…
なんでも…
◆
ピピピ…、と、耳障りな機械音が聞こえる。
「ぐぅ」とも「うぅ」とも聞こえる音を喉で鳴らして、まだ目を閉じたまま、手で音源を探す。
ひやりと固い何かが手にあたり、指先でボタンを探し、押すと、音が止んだ。
そこでようやく目を開け、手に持っているものを見る。
「五時十五分…。」
口に出して、また目を閉じる。
何故こんなに早くに目覚ましがなっているんだっけ…。
再び見出した夢の中で、ユリが考える。
すると、耳元で、
「ダメですよ、ユリさん。起きないとまた蕪木さんに見抜かれますよ。」
と声がした。
「それは嫌だ…。」
”蕪木”で思い出した。
今日も美術館へ行くのだ。
腫れぼったい目を開けると、目の前でクレアが笑った。
「おはようございます。」
「おはよ…。早いねぇ。」
クレアはもうすでに、服を着替えていた。
「はい。
ユリさんは朝弱いんですか?」
「私、朝はめっぽう弱いわ…。
いつまででも寝ていられるもの。」
最長記録は四日間だと言うと、クレアがくすくすと笑って、
「さっき、カナエさんが朝食の準備が出来たって、知らせてくれましたよ。」
言われて、やっと起き上がる。
そして思い切り伸びた。
横になっていた事で昇っていた血が下がり、頭も冴えてきた。
「よし、ご飯食べて、支度して。
今日も美術館に行かないといけないからね。」
「はい!」
ユリはまず四階に添えつけられた洗面台で顔を洗い、部屋に戻るとガサガサと着替え始めた。クレアは後ろを向いて、着替えを待った。
着替えを終え、髪を結い上げると、キャミソールもホットパンツも脱ぎっぱなしで、シーツを直す事もせず、急いで居間へ向かう。
廊下には、カナエの作ったコーンスープの香りが漂っている。
ユリは思いっきりその匂いを吸い込んで、居間のドアを開けた。
「おはよー。」
そう言って、即座に唖然とする。
「…。
……。
げ。」
何事かと、ユリの陰から顔を出したクレアも、「まぁ!」と驚く。
了が、匠とともに朝食を摂っていた。
「やあ、クレアさん、おはようございます。」
「お…、おはようございます。」
そう言って、了はユリに目もくれずに、朝食に視線を戻した。
「私には挨拶なし!?
なんであんたがいるのよ!」
「僕が呼んだんだよ。
迎えに来てもらうお礼にね。」
突っかかるユリに匠が答えると、了が嫌味なほどの哀しげな表情を浮かべた。
「すみません、お邪魔だったようですね。」
「ユリさんにとっては…」と付け加えて、ふぅ、と溜め息を吐く。
「なっ!」
「あらあら、なぁに、ユリ…。お客様に失礼でしょ?」
大騒ぎするユリを、キッチンからスープを運んできたカナエが叱る。
「ごめんなさいね、粗忽な娘で…。」
「いえいえ、奥さんがお気になさる事では…。」
尚も言う了の座る椅子の背凭れを、ユリがバンと叩いた。
「んもおおお! みんなして朝から何なのよう!」
皆がからかっているのは明確で、ふくれるユリの横で、クレアは腹を抱えて笑った。
それから早々と朝食を摂り終え、家を出る。
今日はほんのりと雲がかかって、陽が柔らかく、涼しい一日になりそうだった。
「クレアさんはうちにいてくれてもよかったんだよ?」
みなについて出てきたクレアに、匠が言った。
「はい。
でもおじさまにも会いたいし。」
クレアが答えると、匠が一瞬顔を曇らせ、すぐにいつもの笑い顔になった。
「ああ、そうだったね。」
(?)
ユリが首を傾げると、目の前に了の車が停まった。
事務所の駐車場に停めてあったのを、取りに行っていたのだ。
「お待たせしました。」
今日は降りずに、助手席側の窓から、運転席からひょいと顔を出して、了が言った。
「ほんっと待ったわ。」
ユリが言うと、了は即座に不機嫌な顔を造って、「気に入らないなら、乗らなくていいぞ」と言い返す。
「むっ!
…乗せてください…。」
ユリが折れ、了がニヤリする。
(何度見てもムカツクわ、あの笑顔。)
ユリがふくれるのを、また面白そうに見ながら、了が助手席のロックを外した。匠が席を倒し、後部座席にクレアとユリを乗せる。
そして席を戻し、車に乗り込んだ。
完全にドアが閉まるのを確認して、了が車を発進させる。
「クレアさん。」
徐に了がクレアに声をかけた。
バックミラーでちらりとクレアを見る。
「は、はい。」
「気分が悪くなったら、言ってください。
すぐ停めますから。」
「はい。ありがとうございます。」
了の気遣いに、クレアが照れた。
「なんで私にはそういう事言ってくれない訳?」と、すかさず突っ込むユリに、「君は車酔いしそうに見えない」と了も即答し、匠が大笑いした。
最早お決まりとなったやり取りに、クレアも笑う。
「叔父さんはなんで、自分の姪がこれだけ言われてて笑ってるのよ!?」
ユリが匠の耳たぶを引っ張った。「いてて」と言いながら、匠が笑いを堪える。そして、くふふと笑い締めると、匠は穏やかな顔で言う。
「蕪木クンの悪態には、そこはかとなくユリへの愛情が感じられるからねぇ。」
「どこによ!? 寛容すぎよ!」
今しがたの表情はどこへやら、匠はまた大笑いを始める。
すると、匠の笑い声に消されそうなほど小さな声で、クレアが言った。「でも…。」
「ん?」
「匠おじさまのいう事、何となく判ります。」
「クレアまで!?」と、ユリがクレアに顔を近づける。
「あ、違いますよ。
私の兄も、無口で、時々口調もきつかったけど、その分、相手の事、心配してたから。」
もじもじと指をいじるクレアに、ユリがさらに詰め寄る。
「クレアの立派なお兄さんと、コイツは比べちゃダメよ!」
言われて、それまで黙っていた了がぽつりと呟いた。
「まったく、みんなで勝手な事ばかり…。」
了の愚痴に、匠がまたまた笑った。
笑われて、了がちらりとバックミラーを見る。
後方確認のついでに、ユリの顔が見えた。
おたふく風邪でもひいたように、頬を膨らませて、窓の外を眺めている。
ふと、ユリが了の視線に気付いた。
一瞬だけ、ミラー越しに目が合う。
出会って三日目、ずっと思っていた。
凛と、光の差した瞳だ。
真っ直ぐにものを見つめ、穢れを知らない。
だからたまに、見つめられるのが怖い。
射抜かれそうになるから。
だが、怖い理由はそれだけではない。
了は溢れ出しそうになった記憶をぐっと仕舞い、ユリの視線から逃げるように、ミラーから目を背けた。