4月29日◆9
クレアにバスルームの使用方法を説明し、来客用のタオルとパジャマを手渡したあと、ユリは一時自室に戻った。
カナエは食事の後片付けに明日の朝食の下準備中、匠と了は事務所へ行ってしまった。
明日も今日と同じ時間に事務所に集合と言われたので、忘れないうちに、ユリは目覚ましをセットし直す。
今朝の教訓を活かし、もう十五分前にセットする。
それをベッドのサイドテーブルに置いた後、ユリはごろんとベッドに転がった。
カチャカチャと洗いものの音や、サーというシャワーのような音、バイクが横切る音、複数の靴音が、夜の静けさの中で時折聞こえる。
疲れているのか、思考が落ち着かない。
が、ふと、了の顔を思い出した。
「何よ、なんで今あいつを思い浮かべたのよ…。」
と独り言を言い、寝転がったまま首を振り、またぼうっとする。
遠くで聞こえていたシャワーの音が止まった。
頭が重くて起き上がらず、そのまま音を聞いていると、やがて引き戸が開き、階段を登る軽い足音が聞こえ、部屋のドアが開いた。
「戻りました。」
クレアの声を聞いて、今気付いたかのように、ユリががばっと起き上がる。
「あっ、おかえり!
じゃあ、私も入ってきちゃうね。
疲れてたら先に寝てていいから。」
そう言って普段寝ているときに来ているキャミソールとホットパンツを手に取ると、そそくさと部屋を出た。
静かにドアを閉め、ふぅ、と一息吐く。
そして部屋の前に伸びる廊下を歩き、階段を下りると、玄関に了の姿が見えた。
「あ。」
ユリが声を出すと、了がユリを見て、「お邪魔様」と言った。
「お帰り?」
「ああ。」
「ふーん。」
ユリが了の真似をして素っ気無く言うと、了がニヤリと笑った。
「寂しいだろ。」
「んなっ。
何言ってんのよバカ。」
ユリがムキになって言い返すと、匠が「ごめん、見当たらなかったよ」と言いながら、居間から出てきた。
「いいですよ、芳生さん。
では、これで。今日はお邪魔しました。
久しぶりに大勢で食事をして、楽しかったです。
ありがとうございます。」
「こちらこそ、突然呼びつけてしまって、申し訳なかったね。
またちょくちょく遊びに来ておくれ。」
礼を言う了に、匠がにこりと笑う。
「はい。またお邪魔します。」
「じゃあ」と言って踵を返す了の背中に、ユリが「バイバーイ」と声をかける。
すると、了はほんの一瞬、ユリを振り返り、認識出来るか否かと言うほど微かに顔を歪め、低い声で「じゃあな」と言い、出て行った。
(あれ…。なんか、不機嫌だった…?)
首を傾げるが、匠は気付いていない様子でさっさと居間へ戻ってしまったので、気のせいと思いながら、ユリは風呂へ向かった。
まだ夏前だというのに暖かな陽気に加え、今日はクレアと二人、相当な距離を歩き回って、思いの外汗を掻いていた。
気持ち悪くて、乱暴に服を脱ぎ、思い切り熱いシャワーを浴びる。
汗だけではなく、何か重いものも流れていくような気がして、ユリは暫くシャワーの下でぼうっとした。
肌が見る見る赤くなっていく。
少し熱すぎるのか、だが、熱いとは感じない。
さらにシャワーを浴びたところで、ようやく熱さを感じ、手早く髪と体をゴシゴシと洗い、勢いよく湯に浸かる。
ザバっと湯が溢れ、バスルームの床に広がり、すぐに排水溝に吸い込まれていった。
「…はぁ…。
まだ事件に関って二日目なのに、なんか色々あった気がしてならないわ…。」
今日は北代と出会い、美術館で迷い、クレアと出会った。了の想像しえぬ表情を見、高遠の名を聞き、いつもより賑やかな食事をした。
ただそれだけなのに、大量に情報を得たような気がして、脳が重い。
「そうだ、飛澤さん。
今日は会わなかったな。明日は会えるかなぁ。」
ニコニコと笑う飛澤の顔を思い出す。
「高遠さん、か…。」
了の上司ならば、同じように刑事なのだろうか。
聞けば、両親の出会いの切欠になった人物だという。
会ってみたい。
何となしに思って、しかし瞬時にげんなりする。
「会うって事は、あいつ経由じゃないと、今の時点では無理なのかも…。あいつの伝手は使いたくないわ…。」
その”あいつ”は、今日静かながらも大量に飯を食べて帰っていった。
その量たるや、普段大飯食らいとカナエがいうユリよりも多かったから、半端ないと思う。料理がテーブルから食み出るほど用意されていた理由が、よく判った。
しかしその割りに、了は見た目にも引き締まった体をしていて、決して太くはない。
「しっかし、あいつも何考えて今日ウチに来たのかしら。」
言いながら、話が出来るか訊ねた匠に対する表情が、今思うととても真剣だった事が凄く気になった。
「叔父さんとの話、何だったんだろう。
帰り、不機嫌だったし…。」
帰り際の、あの表情がフラッシュバックする。
「なんだろう…。」
不機嫌、というには語弊があるのかもしれない。
あれは、そう。
思いつめているような、何か言いたげな表情のような気がする。
普段何の躊躇もなく言葉を吐き出しているように見える了が、言い淀む事などあるのだろうか、と思う。
出会って、見てきた表情を一つ一つ思い出す。
昨日の今日だと言うのに、記憶は驚くほど曖昧になっていて、思い出す了の顔も、いまいちはっきりしないでぼやけている。
「ん? 何考えてんの私…。
あー! 早く出て、クレアさんとお話しよう!」
ユリは気付いて苛立ち、バっと立ち上がると、湯を撒き散らしてバスルームを出て行った。