表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男爵は嘲笑う  作者: 謳子
4月29日
17/87

4月29日◆8

 警視庁と事務所は、歩いて三〇分でたどり着く距離にある。

 実は、美術館と事務所の距離も、同じようなものなのだ。

 都心の、さらに中心地に位置する区画ではあるが、それでも事務所付近からはちらほらと住宅が立ち並び、少し行けば団地や小さなアパートのある完全な住宅地になる。

 事務所はそんな中で、四階建ての比較的背の高い建物だ。

 その三、四階にある自宅からの眺めは、とてもよい。そして特に眺めのよい位置にある部屋を、匠夫妻はユリに宛がった。

 その事務所の前で、カナエがみなの帰りを待っていた。

 遠巻きにカナエを見付けたユリが叫ぶ。

「ただいま~!」

 手を振ると、カナエも手を振り返した。

 小太りで背の低い、エプロン姿のカナエは、風に揺れるショートボブの髪を、振っていた手で押さえ、また手を振り直した。

 声の届く距離まで近付いて、クレアが言う。

「お邪魔いたします。」

「おかえり。

 クレアさん、いらっしゃい。疲れたでしょう?

 お腹空いてない?」

「お腹空いたぁ!」

 クレアへの問いに、ユリが答える。

「まったく恥ずかしいね!

 ごめんねぇ、こんな子と一緒じゃ疲れたでしょうに。」

 苦笑するカナエに、クレアも「楽しかったです!」と笑う。

「取り敢えず、早く上がって。お茶入れてあげるわ。」

 そう言って、カナエは匠に目で合図だけして、事務所の脇の階段を登る。

 ぞろぞろと三人も続き、家に入る。

 普段ユリが脱ぎ散らかしている靴が綺麗に片付けられ、クレア用のスリッパがぽつんと置かれていた。

 そそくさとユリが靴を脱ぎ、玄関に上がると、カナエが「靴ちゃんとして!」と叱った。

 ダイニングも兼ねる居間に通され、温かい紅茶を出された。

 料理好き故に食器にも拘りを持つカナエが選んだティー・セットは、育ちのよいクレアが見てもそうと解るくらいのよい品で、クレアがその事に触れると、カナエは大喜びした。

 一口飲むと、体の筋肉がほぐれるような感覚を覚えた。

 疲れていないと思っていたのは頭だけだったようだ。

 ゆっくりと紅茶を味わうクレアに、カナエが訊ねる。

「どこ見て回ったの?」

「警視庁とか、大使館にも連れて行ってもらいました。」

「よく迷子にならなかったな!」匠が茶化し、「ちょっと!」とユリが応戦する。

「まったく、この子はすぐ迷うから。」

「道が判りづらいのが悪いのよ!」

 ユリが言いながらトンとテーブルを叩くと、玄関の呼び鈴が鳴った。

「お、来たかな?」と言って匠が席を立つ。

 居間のドアの向こうで、玄関の扉が開く音がし、次いでゴソゴソと会話や何かの物音がする。

 やがてドアが開き、匠に続いて了が現れた。

「こんばんは。」

 了の姿を確認するや否や、(あ、コイツの事、忘れてたわ…)と思ったユリの顔を見て、

「俺の事を忘れてたって顔だ。」

と了が不機嫌な顔をした。

「むっ。」

(カンの鋭いヤツ…。)

 何か言ってやろうと思ったが、うまい言葉が出てこずモゴモゴしている間に、キッチンに入っていたカナエが顔を出した。

「あらあら、いらっしゃい。」

「お邪魔します。

 突然お邪魔して、申し訳ありません。」

 丁寧に挨拶をする了に、カナエが手をヒラヒラとさせた。

「とんでもない。うちの主人が無理矢理呼んだんでしょ?

 ごめんなさいねぇ、お疲れなのに。

 ゆっくりしていってくださいね。」

「ありがとうございます。」

 ユリへの不機嫌な表情とは一変、穏やかな顔になった了が頭を下げる。

 カナエは了ににこりと笑った後、ユリに「ご飯並べるの手伝って」と声をかけた。

 匠は、クレアの対角の席に了を座らせ、その向かいに座った。

 そして、了の隣、クレアの向かいをユリの席にし、カナエ用にユリとクレアの間に臨時席を設けた。

 席が決まって、カナエの自慢料理がテーブルに食み出るほど並び、匠がパンと手を叩いたのを合図に、食事が始まる。

 面々、思い思いの会話をしながら、カナエの料理を口へ運ぶ。

「蕪木さんは、”高遠(たかとお)さん”の下で働いてるんですって?」

 カナエがサラダを取り分けながら、了に訊ねる。

「はい。そろそろ三年になります。」

「”高遠さん”って、叔父さんの同級生っていう?」

 ユリが聞く。

「ああ。

 高遠とは大学の同期でね、色々彼の悪戯に付き合わされたりしたもんさ。」

 匠が答えると、了が「昔から”ああ”なんですか?」と聞いた。

「うん。とにかく事件大好き。

 あらゆる事件に首を突っ込んでは、何か厄介事を持ち帰って来るオトコだったよ。」

 匠が大笑いした。どうやらかなりの厄介者らしい。

 高遠とは、匠と同じく同期のカナエが、

「大学二年のときだったかしら、匠さんが、高遠さんの持ってきた厄介事に巻き込まれてね。いつの間にか、ユリのお母さんと私も巻き込まれてて。

 ユリのお母さんとお父さんは、その頃知り合ったのよ。

 ある意味、高遠さんのご縁ね。」

と笑いながら、「あら、クレアさん、ちゃんと食べてる?」とクレアにも声をかける。

 クレアは「はい」と言いながら、取り分けられた料理を綺麗に食べていた。

「お父さんとお母さんが? へぇ…。

 クレアさん、これカナエちゃんのオススメメニューよ。」

 ユリも言いながら、料理を指さす。

「頂いてます。凄く美味しいです。」

 にこりとして、クレアが答えると、何故か匠が「それはよかった」と返事をした。

「高遠自身は、相変わらず独身なんだからなぁ。

 人の世話を焼くのも好きでね。」

「いい人なんだ?」

 ユリが言うと、匠は「ははっ」と笑ったあと、

「それは安直過ぎるなぁ。」

とニヤリ顔をした。

「ある意味、日本一のワルモノですからね。」

 匠の言葉を受け、了が涼しい顔で言う。

 了の言葉に、匠が大笑いをした。

「それは言えてる!」

 とても要点を突いていたのか、匠がいつまでもクククと笑った。

「クレアさんは、いつまで日本にいらっしゃるの?」

 カナエがクレアに訊ねた。

「一週間くらいを予定しています。」

「あら。その間は、どこに泊まるのかしら?」

「今夜はこちらにお邪魔して…、明日からは父の自宅を予定しているのですが、父は多忙で、帰り時間も区々ですし、付き人もいないので、どうしようかと…。」

 クレアが困った顔をすると、笑い終わった匠が「今回は一人きりで来日かな?」と訊ねた。

 クレアが「はい」と答える。

「よければ一週間、うちに来てくれてもいいんだけど、ねぇ?」

「うん。うちはまったく困らないけど。

 明日にでも、お父さんに聞いてみるといい。」

 カナエの提案に匠が頷いて、クレアに微笑んだ。

「ありがとうございます。」

 今度は遠慮せず、クレアが素直に言った。

 一通り料理がなくなり、各々の腹も満たされた。

「あ~! お腹いっぱーい!」

 食後に出された紅茶を飲みながら、ユリが席に着いたまま伸びをした。

「ユリは、男性の前なんだから、もうちょっと気を遣わないとさ…。」

 見兼ねて匠が嗜める。目の前では了が何も見えていないと言いたげな表情で、紅茶を啜る。

「いいじゃない!」ユリがふくれると、了がティーカップをソーサーに静かに置いて、ユリを見た。

「迷子に寝坊に大飯喰らい。恐れ入る。」

「なっ! なんで寝坊の事知ってるのよ!?」

「君の朝の顔を見れば判る。」

 ユリが焦ると、了が眉をくいっと上げて、憎たらしい顔をする。

「そんな訳ないでしょ!? 叔父さん言ったでしょ!」

「僕じゃないよ」と、ニヤニヤしながら匠が言う。

 そのやり取りに、クレアが笑った。

「んもお! みんなして!」ユリがふくれた。その顔に一通り笑った後、匠が了を覗き込む。

「そうだ、蕪木クン。

 もう少し話出来るかな?」

「はい」了が頷く。

「ユリ、クレアさんにお風呂の案内してあげて。」

 洗いものをしていたカナエが、キッチンカウンターからひょいと顔を出した。

「はーい」言ってユリが席を立つと、クレアも倣って立つ。

 そのクレアを、了が呼んだ。

「クレアさん。」

「は、はい。」

 突然呼ばれて、クレアがどきりとする。そして少しだけ、頬が赤くなる。

(あら、また…。)

 ユリが横目でちらりと見る。

「ちょっと早いですが、また明日。」

 了に言われて、クレアが照れながら笑う。

「あ、はい、また明日。」

 そして恥ずかしそうに頭を下げて、居間を出て行った。

(…何このやり取り…。)

 成り行きを見守っていたユリが、怪訝な顔をし、すぐにある事に気付く。

「…、む?

 私には挨拶ナシな訳!?」

 ふくれるユリを、了はちらりと見て、「じゃあな」と冷たく返した。

「むっかつく! ふんっ!」

 勢いでのやり取りだが、解っている。

 あの態度はわざとだ。

 その証拠に、傍らの匠はニヤニヤと笑ったままだ。

 ユリは頭では判りつつも、勢いを抑えられず、ふくれたまま居間を出て行った。

 そんなユリを見送りながら、了はニヤリとしたあと、ユリが消えたドアに向かって、微かに、静かに笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ