4月29日◆8
警視庁と事務所は、歩いて三〇分でたどり着く距離にある。
実は、美術館と事務所の距離も、同じようなものなのだ。
都心の、さらに中心地に位置する区画ではあるが、それでも事務所付近からはちらほらと住宅が立ち並び、少し行けば団地や小さなアパートのある完全な住宅地になる。
事務所はそんな中で、四階建ての比較的背の高い建物だ。
その三、四階にある自宅からの眺めは、とてもよい。そして特に眺めのよい位置にある部屋を、匠夫妻はユリに宛がった。
その事務所の前で、カナエがみなの帰りを待っていた。
遠巻きにカナエを見付けたユリが叫ぶ。
「ただいま~!」
手を振ると、カナエも手を振り返した。
小太りで背の低い、エプロン姿のカナエは、風に揺れるショートボブの髪を、振っていた手で押さえ、また手を振り直した。
声の届く距離まで近付いて、クレアが言う。
「お邪魔いたします。」
「おかえり。
クレアさん、いらっしゃい。疲れたでしょう?
お腹空いてない?」
「お腹空いたぁ!」
クレアへの問いに、ユリが答える。
「まったく恥ずかしいね!
ごめんねぇ、こんな子と一緒じゃ疲れたでしょうに。」
苦笑するカナエに、クレアも「楽しかったです!」と笑う。
「取り敢えず、早く上がって。お茶入れてあげるわ。」
そう言って、カナエは匠に目で合図だけして、事務所の脇の階段を登る。
ぞろぞろと三人も続き、家に入る。
普段ユリが脱ぎ散らかしている靴が綺麗に片付けられ、クレア用のスリッパがぽつんと置かれていた。
そそくさとユリが靴を脱ぎ、玄関に上がると、カナエが「靴ちゃんとして!」と叱った。
ダイニングも兼ねる居間に通され、温かい紅茶を出された。
料理好き故に食器にも拘りを持つカナエが選んだティー・セットは、育ちのよいクレアが見てもそうと解るくらいのよい品で、クレアがその事に触れると、カナエは大喜びした。
一口飲むと、体の筋肉がほぐれるような感覚を覚えた。
疲れていないと思っていたのは頭だけだったようだ。
ゆっくりと紅茶を味わうクレアに、カナエが訊ねる。
「どこ見て回ったの?」
「警視庁とか、大使館にも連れて行ってもらいました。」
「よく迷子にならなかったな!」匠が茶化し、「ちょっと!」とユリが応戦する。
「まったく、この子はすぐ迷うから。」
「道が判りづらいのが悪いのよ!」
ユリが言いながらトンとテーブルを叩くと、玄関の呼び鈴が鳴った。
「お、来たかな?」と言って匠が席を立つ。
居間のドアの向こうで、玄関の扉が開く音がし、次いでゴソゴソと会話や何かの物音がする。
やがてドアが開き、匠に続いて了が現れた。
「こんばんは。」
了の姿を確認するや否や、(あ、コイツの事、忘れてたわ…)と思ったユリの顔を見て、
「俺の事を忘れてたって顔だ。」
と了が不機嫌な顔をした。
「むっ。」
(カンの鋭いヤツ…。)
何か言ってやろうと思ったが、うまい言葉が出てこずモゴモゴしている間に、キッチンに入っていたカナエが顔を出した。
「あらあら、いらっしゃい。」
「お邪魔します。
突然お邪魔して、申し訳ありません。」
丁寧に挨拶をする了に、カナエが手をヒラヒラとさせた。
「とんでもない。うちの主人が無理矢理呼んだんでしょ?
ごめんなさいねぇ、お疲れなのに。
ゆっくりしていってくださいね。」
「ありがとうございます。」
ユリへの不機嫌な表情とは一変、穏やかな顔になった了が頭を下げる。
カナエは了ににこりと笑った後、ユリに「ご飯並べるの手伝って」と声をかけた。
匠は、クレアの対角の席に了を座らせ、その向かいに座った。
そして、了の隣、クレアの向かいをユリの席にし、カナエ用にユリとクレアの間に臨時席を設けた。
席が決まって、カナエの自慢料理がテーブルに食み出るほど並び、匠がパンと手を叩いたのを合図に、食事が始まる。
面々、思い思いの会話をしながら、カナエの料理を口へ運ぶ。
「蕪木さんは、”高遠さん”の下で働いてるんですって?」
カナエがサラダを取り分けながら、了に訊ねる。
「はい。そろそろ三年になります。」
「”高遠さん”って、叔父さんの同級生っていう?」
ユリが聞く。
「ああ。
高遠とは大学の同期でね、色々彼の悪戯に付き合わされたりしたもんさ。」
匠が答えると、了が「昔から”ああ”なんですか?」と聞いた。
「うん。とにかく事件大好き。
あらゆる事件に首を突っ込んでは、何か厄介事を持ち帰って来るオトコだったよ。」
匠が大笑いした。どうやらかなりの厄介者らしい。
高遠とは、匠と同じく同期のカナエが、
「大学二年のときだったかしら、匠さんが、高遠さんの持ってきた厄介事に巻き込まれてね。いつの間にか、ユリのお母さんと私も巻き込まれてて。
ユリのお母さんとお父さんは、その頃知り合ったのよ。
ある意味、高遠さんのご縁ね。」
と笑いながら、「あら、クレアさん、ちゃんと食べてる?」とクレアにも声をかける。
クレアは「はい」と言いながら、取り分けられた料理を綺麗に食べていた。
「お父さんとお母さんが? へぇ…。
クレアさん、これカナエちゃんのオススメメニューよ。」
ユリも言いながら、料理を指さす。
「頂いてます。凄く美味しいです。」
にこりとして、クレアが答えると、何故か匠が「それはよかった」と返事をした。
「高遠自身は、相変わらず独身なんだからなぁ。
人の世話を焼くのも好きでね。」
「いい人なんだ?」
ユリが言うと、匠は「ははっ」と笑ったあと、
「それは安直過ぎるなぁ。」
とニヤリ顔をした。
「ある意味、日本一のワルモノですからね。」
匠の言葉を受け、了が涼しい顔で言う。
了の言葉に、匠が大笑いをした。
「それは言えてる!」
とても要点を突いていたのか、匠がいつまでもクククと笑った。
「クレアさんは、いつまで日本にいらっしゃるの?」
カナエがクレアに訊ねた。
「一週間くらいを予定しています。」
「あら。その間は、どこに泊まるのかしら?」
「今夜はこちらにお邪魔して…、明日からは父の自宅を予定しているのですが、父は多忙で、帰り時間も区々ですし、付き人もいないので、どうしようかと…。」
クレアが困った顔をすると、笑い終わった匠が「今回は一人きりで来日かな?」と訊ねた。
クレアが「はい」と答える。
「よければ一週間、うちに来てくれてもいいんだけど、ねぇ?」
「うん。うちはまったく困らないけど。
明日にでも、お父さんに聞いてみるといい。」
カナエの提案に匠が頷いて、クレアに微笑んだ。
「ありがとうございます。」
今度は遠慮せず、クレアが素直に言った。
一通り料理がなくなり、各々の腹も満たされた。
「あ~! お腹いっぱーい!」
食後に出された紅茶を飲みながら、ユリが席に着いたまま伸びをした。
「ユリは、男性の前なんだから、もうちょっと気を遣わないとさ…。」
見兼ねて匠が嗜める。目の前では了が何も見えていないと言いたげな表情で、紅茶を啜る。
「いいじゃない!」ユリがふくれると、了がティーカップをソーサーに静かに置いて、ユリを見た。
「迷子に寝坊に大飯喰らい。恐れ入る。」
「なっ! なんで寝坊の事知ってるのよ!?」
「君の朝の顔を見れば判る。」
ユリが焦ると、了が眉をくいっと上げて、憎たらしい顔をする。
「そんな訳ないでしょ!? 叔父さん言ったでしょ!」
「僕じゃないよ」と、ニヤニヤしながら匠が言う。
そのやり取りに、クレアが笑った。
「んもお! みんなして!」ユリがふくれた。その顔に一通り笑った後、匠が了を覗き込む。
「そうだ、蕪木クン。
もう少し話出来るかな?」
「はい」了が頷く。
「ユリ、クレアさんにお風呂の案内してあげて。」
洗いものをしていたカナエが、キッチンカウンターからひょいと顔を出した。
「はーい」言ってユリが席を立つと、クレアも倣って立つ。
そのクレアを、了が呼んだ。
「クレアさん。」
「は、はい。」
突然呼ばれて、クレアがどきりとする。そして少しだけ、頬が赤くなる。
(あら、また…。)
ユリが横目でちらりと見る。
「ちょっと早いですが、また明日。」
了に言われて、クレアが照れながら笑う。
「あ、はい、また明日。」
そして恥ずかしそうに頭を下げて、居間を出て行った。
(…何このやり取り…。)
成り行きを見守っていたユリが、怪訝な顔をし、すぐにある事に気付く。
「…、む?
私には挨拶ナシな訳!?」
ふくれるユリを、了はちらりと見て、「じゃあな」と冷たく返した。
「むっかつく! ふんっ!」
勢いでのやり取りだが、解っている。
あの態度はわざとだ。
その証拠に、傍らの匠はニヤニヤと笑ったままだ。
ユリは頭では判りつつも、勢いを抑えられず、ふくれたまま居間を出て行った。
そんなユリを見送りながら、了はニヤリとしたあと、ユリが消えたドアに向かって、微かに、静かに笑った。