4月29日◆7
「じゃあ、各々出発しますか。」
匠の言葉を合図に、解散になった。
了は、財団の事務所へ向かうと言う菅野を送り届け、さらに匠を連れて了の職場へ向かうらしい。
了とは別れ際に、「迷子になるなよ」「うるっさいわね!」とやり合う事もあったが、特に問題なく各々の行き先へ散っていった。
ユリは、クレアと二人、美術館前の庭園にある小路を歩いている。
「さて。
どこか行ってみたいところある?」
ユリが聞くと、
「お任せしていいですか?
この辺は、どこにもあまり行った事がないので…。」
と言うので、ユリは適当に一回りすることにした。
まず手始めに、美術館のある”純・フォーラム”の隣にある”純・公園”へ向かう。名が示すとおり、この公園も、美術館を運営する財団が所有、運営している。
敷地面積は”純・フォーラム”と同じ。ひたすらに広い公園だ。
平日の午前中と言うこともあり、人は疎らだ。
公園に入るや否や、クレアがもじもじとし始めた。
「どうかした?」
「いっ、いえ!」
即答するクレアに、ユリがにんまりと笑った。
「あっ! もしかして!
迷子になった公園って、ここ!?」
ユリの推理に、クレアが答える代わりに顔を赤らめる。
「ははぁん。ここ広いもんねぇ。」
しみじみ言うユリに、クレアが答える。
「厳密に言うと、おじさまと会った公園、かな…。」
「どこでみんなと逸れちゃったの?」
「それが、分からないんです」と、クレアが首を振る。
「ずいぶん歩いた事だけは覚えてるんですけど…。」
「そっかぁ…。
でも、きっと怖い思いをしてたんだろうし、思い出したくないのかもね。」
「そうですね。
無理に思い出さなくてもいいかなって、思ってます。」
そう言って、クレアがにっこりと笑う。
相変わらず流暢な日本語で、感心する。
ふと、クレアの向こう、公園の樹木の隙間から、美術館の屋根が見えた。
「私が初めて日本に来たときは、まだ美術館はなかったんですね。」
”純・美術館”は、建って間もない。以前は、”純・美術館”の前身となる”帝都美術館”が、ここから少し離れたところにあって、”大鳥純忠会”がそれを買収、建て直したのが今の”純・美術館”だ。
「そういえば、日本に来たのは何年前なの?」
「十年くらい前です。私が六歳の頃。」
「十年かぁ。なら、全然変わっちゃってるわね。」
ユリが、自分の過去十年を思い浮かべる。本当に、色々変わった。
「はい。
街の面影は残ってますけど、建物とか、ざっと見たときの風景は、全然違います。」
「あはっ。また迷子になっちゃいそう?」
ユリがからかうと、クレアは「ええ…」と照れ笑いをする。
「大丈夫! 私なんてしょっちゅう迷子だから!」
すかさずユリがおどけると、今度は二人で大笑いした。
「そういえば、”紅い泪”って、クレアさんは見た事あるの?」
「はい。一度だけ。
現国王が、王妃との婚約のときに贈った大きな赤い宝石です。」
どうやら、”赤い泪”とは装飾品の名ではなく、宝石自体の名前であるらしい。クレアが続ける。
「ご婚礼のときに、王妃とお会いする機会が出来て、そこで見せて頂きました。」
「へぇ!
王妃に直接会ってお話したんだ?」
「ええ。
王妃は、私の母の双子の姉ですから。つまり、私の伯母様です。」
クレアがさらりと言い、ユリが止まった。
「えっ……。
ええええええええええええ!!!?
じゃ、じゃあ、まさかクレアのおうちも王族とか言わないわよね…?」
驚愕するユリに、クレアが慌てた。
「いえいえ! うちはただの一般家庭ですよ。
でも、とても光栄な事ですよ。」
うち自体は大した家ではないんです、と付け足す。
「はぁああ…。私なら絶対自慢しちゃうなぁ。」
呆けた顔で言うと、クレアが笑った。
しゃべりながら歩き、ふと辺りを見回すと、古く白い洋風の建物が見えた。背の高い塀で囲われ、物々しい有刺鉄線の貼られた鉄柵が塀の上部に見える。
門の前には、”シリング大使館”とプレートがあった。
「ここは、”シリング大使館”。って、知ってるか…。」
独りで言うユリに、クレアがくすりと笑う。
「ここも、来るのは十年ぶりなんですよ。」
「でも、お父様は大使でしょ? もうちょっと頻繁に来てるところだと思ってたけど。」
「ええ、でも、私はシリングに住んでますから。
仕事の邪魔になってはいけないので、学校もあるし、日本に来る機会、なかったんです。」
そう言って、クレアが大使館を見上げる。
「でも、ここは全然変わってないです。子供の頃の記憶のまま。」
懐かしそうに、目を細める。
「そっかぁ。」
ユリも、クレアに倣って大使館を見上げる。
見知らぬ異国の、大使館だ。
こうして知らぬ国が、まだまだ沢山あるのだろうと思う。
ユリは暫し感慨に浸り、「いこっか」と声をかけ、大使館を後にした。
振り返り、大通りを歩く。
この辺りまで来ると、公園やフォーラム付近とは違い、スーツ姿の人々が良く目に付く。
大企業や、政府の庁舎が集まったエリアなのだ。
それら、背の高いビルが並ぶ向こうに、一際背の高い建物が見える。
”帝都ホテル”だ。このホテルは、”純・美術館”の前身である”帝都美術館”を運営していた”帝都グループ”の持ち物で、都内で最高級のホテルとしても名高い。
金色とベージュ、茶と紺を基調とした建物で、ユリも一度だけ入ったことがあるが、普段の生活とかけ離れた調度品の並ぶホテルに、ただただ圧倒されて帰って来た記憶しかない。
「あの建物は…。」
クレアが指をさす。
「”帝都ホテル”よ。この辺りで一番高級なホテル。」
ユリが答えると、クレアは「あれが…」と何度か頷いた。
「今日、菅野のおじさまのお宅が駄目だったら、ここに泊まろうかと考えていたんですよ。」
さらりと言うので、ユリが真顔になる。
「うわっ…。さすがお嬢様ね…。」
「そういうのではないんですよ。」
あらぬ誤解を与えてしまったのかと、またクレアが慌てた。
「ここは、以前日本に来たときに、一度泊まった事があるんです。
他のホテルの事もよく知らなかったし、美術館も大使館も近いので…。」
何気ない選択なのだと強調するクレアに、ユリが騒ぐ。
「えー、でも羨ましいよ! 私もこういうホテルに泊まって旅行したい!」
ユリが拳をぐっと握り言うので、クレアが笑った。
「小さい頃からこういうホテルに泊まって旅行なんて、本当に羨ましいなぁ。」
尚も言うユリに、クレアが今度は寂しそうに笑った。
「でも、うちは、父が仕事が忙しかったので、全然家族旅行できなかったんですよ。」
「ああ、忙しそうよね、大使さんって。」
具体的にどのような仕事をしているかは解っていないが、偉い人は忙しそうなのだ。
「ええ。」と、クレアも否定しなかった。
暫し、黙々と歩く。
美術館を出て、公園以降はそれぞれ歩けば三〇分以上かかった。
ここまであまり休みなく歩いている。そして主要な建物に着くたび、立ち話をする。
そんな事をしているうちに、気付くと陽も和らいで、西に傾きかけていた。
「ちょっと休む?」
「いえ、大丈夫です。」
決して太くはないユリより、さらに二周りほど華奢なクレアは、まったく疲れた様子を見せない。
ずいぶんタフなのだと感心する。
都内でも五本の指に入る高級マンションの前を通る。
企業ビルの立ち並ぶ一画に、突然現れるマンションだが、場所柄も土地柄もあり、住人は有名企業の役員や、国家公務員でもトップに近い役職に就いている人間だという。
そうこうしているうち、警視庁が見えた。
敷地に合わせて無理矢理作ったような、歪な形の建物だ。
「あの建物は?」
訊ねるクレアに、ユリが答える。
「警視庁よ。憎きアイツの勤務先!」
ふくれるユリを笑いながら、クレアの頬がほんのり赤らむ。
「あの方は、警察の方だったんですか…。」
”あの方”という単語に一瞬驚いたあと、「みたいね。よく知らないけど…」と、ユリは再びむくれる。
そんなユリの様子もお構いなしに、クレアは独り照れていた。
「そうですか。」
(ん~…。
この反応といい、この表情といい、やっぱり…。
かなぁ…?)
ユリは、少少無粋な想像をする。
「そういえば、北代警部補とは会った?」
「北代警部補…?」
「ああ、会ってないんだ?
そうよね、私も朝会ったきりたし。
ちょっと偉そうなおっさんも、セレモニー当日の警備をしてるのよ。
明日会えるかもね。」
ユリの説明に、クレアが「はい」と答える。
ここに関しては、これ以上説明する事はない。
ユリは早々に立ち去りたかった。何か、よからぬ者の気配を感じたからだ。
顔を強張らせ、ぐっと拳を握る。
「……。」
「ユリさん、どうしたんですか?」
不安そうにクレアが問う。
「なんだか、とても嫌な気配を感じるわ…。」
「それはこっちのセリフだ。」
間髪入れず、嫌味な声が聞こえた。
ユリが振り返り、声の主を威嚇する。
「っかー!
やっぱり会うんじゃないかと思ってたのよ! ったくぅ!!」
ジタバタするユリを尻目に、了が涼しい顔で、
「クレアさん、こいつと一緒にいると迷子になるから、この建物だけは覚えておいたほうがいいですよ。
迷ったらこいつを置いて、一人でここに来るように。」
と言う。
「なんで置いて行く必要があるのよ…。」
「うるさいぞ。君の迷子に人を巻き込むんじゃない。」
「ったく、口を開けば失礼な事ばっかり!」
言い合う二人に、クレアがくすくすと笑う。そこへ、
「お、ユリじゃないか。」
と匠の声がした。
「叔父さん!」
「やあ、クレアさん。ユリはちゃんと案内してるかな?」
ユリに手を上げて挨拶をし、クレアを見た。
「はい。とても丁寧に。」
「それはよかった。
蕪木クンは、仕事上がりかい?」
そう問う匠に、ユリが怪訝な顔をする。匠は了の上司に会いに来たのではなかったか。思えば、了が現れた方向と、匠が来たらしい方向は、全く違う気がする。
「いえ、まだ寄るところがいくつか。」
答える了に、「働き者だねぇ」と匠が笑った。「とんでもない」と、了もさらりと受け流す。
「仕事が終わったら、うちに寄っておくれ。」
「はい。ではまたあとで。」
言って、了は今度は、匠が来た方向へと歩いて行った。
向かう方角には、政府の庁舎が並ぶ。
確かあの建物は、検察庁の庁舎ではなかったか…。ユリは朧気な記憶を探る。
「それはそうと、一通り回ったのかな?」
了の後姿を追っていたユリに、匠が尋ねる。
「うん、この辺りは一通り。」
見回すと、ビルの間から見える空は、すっかりオレンジ色に染まっていた。
「そうか。
なら、そろそろ時間も遅いし、事務所に戻ろうか。カナエも食事の支度終わってるって言ってたから。
お腹空いたろう?」
「うん!」
勢いよく返事をするユリを、匠とクレアが大笑いした。