4月29日◆6
館長室に入ると、ユリはすぐにソファの背凭れに手をついて項垂れた。
「やっと着いた…。」
了に”保護”してもらうまで、ずいぶん長いこと独りでウロウロとしていたので、足がすっかり重くなっていた。
こんな事なら、ヒールの低い靴を履いて来るのだった。
「戻りました。」と、後ろで、先に入ったはずの了が言う。
「おかえり。
ずいぶん早かったじゃないか、ユリ。」
にやにやしながら、匠が言った。
「うっ…。
結局つれて来てもらった…。」
”惨敗”したかのような泣き顔をして、ユリが答えると、匠が大笑いをした。
「蕪木クン、すまなかったねぇ。不出来な部下で。」
「いえいえ、大した迷子っぷりで、暫く見学させてもらいました。」
答える了に、ユリががばっと顔を上げる。
「え!!!? なっ!」
ユリはてっきり、偶然見かけたところに自分が迷子になっていて、助けてくれたのだと思っていた。
が、実際は、観察されていたのだ…。
「悪趣味!!!」
「何言ってる。
途中で助けただけでもありがたいと思え。」
ユリの叫びに、了が不機嫌に答える。が、段々判って来た。
どうやら、了の不機嫌にもニ種類あるらしい。
こと、ユリに向けられた不機嫌な顔は、作り顔に近い気がする。
「むっ…。くっそう…。」
ぐうの音も出ないとはこの事だと、ユリが奥歯を食いしばる。
二人の言い合いが終わったのを見計らって、菅野が歩み寄った。
「やあ、お二人とも、おかえりなさい。
お疲れ様でした。」
見ると、朝よりさらに、にこにこと機嫌がよさそうだ。
「いえいえ。」と、ユリが返事をして、すぐに「?」となった。
菅野の後ろに、誰かが隠れていた。
その誰かは、菅野の翳から顔をひょこっと出して、不安そうにユリを見ている。
「あ。さっき正面玄関にいた子。」
よく見れば、それはつい今しがたエントランスでみかけた、金髪の少女だった。
「おお、ご存知でしたか?」
「あ、いえ。見かけただけで…。」
「そうでしたか。
この子は、シリング大使の娘さんの、クレア・バークレイ。」
そう言って、菅野がクレアを見下ろした。
「クレア、この方たちは、セレモニーの日に館内を警備して下さる方々だよ。
”紅い泪”のボディガードだ。」
菅野が、面々を大まかに紹介した。
クレアはにこりと笑って、「まぁ。よろしくお願いいたします。クレアです」と、流暢な日本語で言い、頭を下げた。
ユリはクレアをまじまじと見た後、
「館長が昔助けたって言う子が、この子なんですね?」
と言った。
「おやおや、よくご存知で。そうです、その彼女です。」
菅野が笑った。
「お、もしかして、僕だけ知らないのかな?」
匠が笑いながら言ったので、「ああ、そうですね。実は…」と菅野が言いかけると、クレアが菅野の手を慌てて取った。
「ああっ! おじさまダメ!」
その慌てっぷりに、匠が「おやおや」と笑う。
菅野も笑いながら、
「切欠は彼女にとって、不名誉な事なんですよ。」
とだけ説明した。何となしに事情を理解した匠が、大笑いをする。
クレアは、困ったような顔をしながら、照れた。
同じ”迷子仲間”であるなら、仲良くなるしかない。ユリは、クレアに近付いて、手を差し出した。
「私、芳生 ユリ。
私もよく道に迷うのよ…。この美術館でも迷いっぱなし。
気が合うかもね。よろしくね。」
自己紹介をすると、了がすかさず「お前と一緒にするなんて、失礼極まりない」と茶々を入れる。
「何よ!」
ユリが手を差し出したまま、了を振り返る。
その様子に、クレアがくすくすと笑った。
「よろしくお願いいたします。」
言って、ユリの手を握る。
了もユリの隣に立って「蕪木 了です」と名乗ったが、手は出さなかった。その代わり、「ユリのお守り役です」と要らぬ一言を付け加える。
「誰が頼んだのよ!」
クレアはユリの手を握ったまま、くすりと笑いながらもう一度「よろしくお願いいたします」と言った。了を見上げる頬が少し赤らんでいる。
(おや? もしかして、こういうのタイプ?)
思いながら、隣の了を目だけで見上げる。
了は、笑ってはいないものの、穏やかな顔をしていたが、やはり視線だけは鋭いままだった。先ほどの表情は、どうやら見間違いや勘違いではないらしい。
「ユリの叔父の、芳生 匠です。
”切欠”のお話は、いずれは聞きたいところです。」
匠も、了の脇から顔だけ覗かせて挨拶をした。
クレアは、今度はにこりと笑って、三度目の「よろしくお願いいたします」を言った。
「今日は、クレアさんは何か用事で?」
クレアとの握手を解いて、ユリが訊ねた。
「いえ、セレモニーに出席するために来たのですけど、先程日本に着いたばかりで。
父も今夜は予定があるとかで、おじさ…菅野さんのお宅にお世話になろうかと思って。」
そう言ってクレアが菅野を見上げると、菅野が思い出したように、困った表情を浮かべた。
「ああ、そう…、それなんですが…。」
ユリが今日何度目か、首を傾げると、「菅野さん、今日から夜はお忙しいらしいんです」とクレアが言った。
「お恥ずかしい事に、独り身なものですから、知らないところへ一人彼女を置く訳にも行きませんし…。」
と、言った後、菅野は匠の顔を窺うように見た。
「芳生さんのお宅へ、今晩泊めて頂こうかと考えていたところなのです。」
菅野が言うと、ユリとクレアが揃って、「あら!」と言った。
「ダメよおじさま。初対面の方だし、いきなりお邪魔しては…。」
「いいわよ! うちは全然大丈夫!
ねぇ、叔父さん?」
遠慮するクレアに、ユリが言う。
匠もにこやかな表情を崩さず頷く。
「ああ、こういう仕事柄、いつでも、どなたかをお泊めする準備は出来ていますよ。
我が家でよければ、遠慮なくいらしてください。」
匠の返事に、菅野がほっとした表情をする。
「ああ、よかった。
クレア、ホテルを借りるのもいいが、やはり心配だ。
ユリさんもいる事だし、そちらのほうが安心出来るだろう。
きっと旅の疲れもとれるよ。」
菅野は、菅野よりは背の低いクレアに視線を合わせるように屈み込んだ。クレアは、少し困った表情のまま、ユリと匠を交互に見た。
「ね!」
ユリが一押しすると、クレアも困惑の表情を少し和らげて、「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」と答えた。
「そうだ、せっかくだから、蕪木クンもどう?」
ひと段落したところで、匠が何故か了を誘った。
さすがの了も、これには唖然として「えっ」と言ったまま、絶句してしまった。
「ちょっと、叔父さん!」
ユリも声を上げる。何を言い出すのだ…。
了は、顎に手を当てて少し悩んだあと「泊まるのはちょっと無理ですが…」と、ゆっくり言った。
「仕事帰りに、寄らせて頂きます。」
「おお! 是非そうしてくれ!」
匠が、ばっと腕を広げる。そしてすぐに、「さて」と続けた。
「まだ昼前だが。蕪木クンは今日はどうする?」
「ボクは、調べ物をしに、一度職場へ戻ります。」
「そうか。菅野館長は、ご予定があるのでしたね?」
「ええ。
私はこれから、財団のほうへ向かわなければなりません。
もうそろそろ出ないと間に合わないですが。」
腕時計をちらりと見る菅野に、了が「途中までお送りしましょう」と声をかけた。
「それは助かります。」と菅野も頷く。
「ユリはどうしようか? ああ、クレアさんも、今日は?」
匠がクレアとユリを見比べた。
「私は…。どうしましょう…。」
問われて、クレアが菅野を見上げた。
「ああ!
なら、私はクレアさんと二人で、街を案内して回るわ!
で、そのまま帰っちゃう。」
どうせ帰ってよいのなら、おしゃべりしながら少し外を回ってみよう、と思い、ユリが匠を見る。
「ああ、そうだね。館長、どうでしょう?」
「ええ、私もそれがいいと思います。
一人では心配ですし。
クレア、ユリさんのいう事をちゃんと聞くんだよ。」
菅野も頷く。
「はい、おじさま」と、クレアからも素直な返事が返ってきた。
「叔父さんはどうするの?」
クレアの返事を待って、ユリが訊ねる。
「僕はちょっと、蕪木クンの上司に用事があるんだ。」
「え?」
「彼の上司とは、学生時代の同級でね。」
「えええ!?」
意外だ。
妙なところで人脈が繋がる経験がないわけではないが、その繋がりは想像しなかった。
「今回の依頼も、その縁で受けたものなんだよ。」
「そうだったんだ?」
何度か頷いて、ユリは了を見、匠に視線を戻して言った。
「蕪木クンは口悪いですねって、ちゃんと伝えてきてね。」
言われて、了が思いっきり不機嫌な顔をする。
今回の不機嫌は、装ったものではないようだ。
「…。」
了のふくれ面に、匠が大笑いをした。
どうやら今回は、ユリの勝ちらしい。