4月29日◆1
◆
母の遺体は見ることが出来なかった。
父は無表情のままで。
私は兄と二人で、ただ泣いた。
綺麗で、優しくて、良い香りのする大好きな母。
こんなに悲しいのに、父はいつもどおり仕事に出かけ、あまり家に帰って来なかった。
そしてやがて、兄がいなくなった。
私の心の支えは、”あの人”から来る、ささやかな便りだけ。
私の心は、”あの人”でいっぱい…。
◆
ピピピ…、と、耳障りな機械音が聞こえる。
「ぐぅ」とも「うぅ」とも聞こえる音を喉で鳴らして、まだ目を閉じたまま、手で音源を探す。
ひやりと固い何かが手にあたり、指先でボタンを探し、押すと、音が止んだ。
そこでようやく目を開け、手に持っているものを見る。
「五時半…。」
口に出して、暫しまどろみに浸り、不意にユリはがばっと起き上がった。
「…ヤバイ…。
余裕を持ってかけたつもりだったけど、仕度する時間を入れるの忘れてたわ…。
不覚…。叔父さんに怒られる…。」
身支度をし、食事をするのに三〇分では足りない。計算違いをした…。
ユリは取り敢えずバタバタと洗顔を終え、着替えを始めた。
着替えのあとは髪だ。
いつの間にか肩甲骨くらいまで伸びた髪を、雑多に結い上げる。
続いて化粧だ。が、この時点で既に四十五分を過ぎていた。
「…してもしなくても変わらないか…。」
化粧は諦めた。
早朝だという事も忘れ、足音を思いっきり立てて階段を下りる。
途中、カナエに怒られた。ユリは、「ごめんなさーい」と叫んで、事務所へ走る。
「叔父さんおはよう!
遅くなってごめん!」
三階から一度外階段を使って一階へ降り、一階の事務所の入り口へ走り込む。
息を切らして屈み込むユリを、匠はニヤリと笑った。
「やっと来たか。
まぁ、走って来たようだし、初日にしては上出来かな。」
「ごめんごめん。
仕度する時間を計算してなくて…。」
「まぁ、取り敢えず出よう。」
そう言って、匠はまだ息の切れているユリの横を通り過ぎ、事務所を出て行ってしまった。ユリも慌てて追いかける。
入り口前で立ち止まった匠が、ぽつりと呟いた。
「…まだか。
ちょっと待とう。」
「待ち合わせ?」
「うん。
蕪木クンがね、迎えに来てくれるって言うから。」
匠の返事に、ユリがすっとんきょうな声を上げる。
「はぁ!?
ちょっと、朝からあいつの顔見るの!?」
「コラコラ、ユリ。
そんな事言ってると、いつか蕪木クンに頭が上がらなくなるぞ。」
匠が大笑いをする。
「どういう意味よ?」
ユリが眉間に皺を寄せると、匠は「まだ秘密」と、意味有り気に笑った。
「お待たせしてすみません。」
突如、声がした。
ユリが振り返ると、了がいた。
(キタ…。)
げんなりとするユリを無視して、了は匠に声をかけた。
「おはようございます。」
「おはようございます。
迎えに来てもらっちゃって、申し訳ないね。」
片手を挙げて挨拶をしながら、匠が苦笑した。
「とんでもない。
狭い車ですが、どうぞ。」
そう言って、了が自身の後ろを振り返る。
そこには、ぴかぴかに磨き上げられたスポーツタイプの高級外車が停まっていた。
(な…! 超高級メーカーの今年のニューモデル!
イチ地方公務員がなんでこんな車に乗れるのよ!!?)
海外メーカーでも一、二を争う高級車として有名なメーカーの、最新モデルカー。ディーラーの広告では、確かオプション品込みで七〇〇万円前後だったはずだ。
高給取りと思われがちな公務員だが、言うほど身入りが多い訳ではない。
これほどの高級車を乗り回すのは、無理があるのだ。
緑かかった深いブルーのボディが、滑らかに輝いている。
助手席のドアを開けて乗り込もうとする匠が、なんだかとてもみすぼらしく見える。
(こいつ何者なの…。)
驚いたままの表情で了を見やると、了は暫しユリと見つめあい…。
一瞬、昨日と同様の、忌々しいほど憎たらしいニヤリ顔をして、すぐに真顔に戻して運転席に乗り込んだ。
(んな!)
今日もきっと、こんな調子で馬鹿にされるのだろう。
朝早く起きる事より、そっちのほうが鬱々とする。
ユリは深くため息を吐いて、助手席の脇でシートを倒してユリが乗るのを待っている匠に歩み寄った。