ビルの隙間
夜の新宿駅西口。
この界隈では、近ごろ不穏な噂を耳にする。
ここ数カ月で、立て続けに行方不明者が出ているというのだ。
もっとも、そんなことは今に始まったわけではないと嗤う者もいた。
そして、この街の夜は今日も人通りが絶えることはなかった。
ガード下では、電車が通過するたびに鉄骨が低く唸る。
排気ガスと、どこかの店から流れてくる油の匂いが混じり合っていた。
居酒屋の呼び込みが声を張り上げ、酔っ払いが笑い、路上では誰かが怒鳴りあっている。
月も、星もない夜。
空は雲に覆われている。
足早に迫る靴音を背後に聞きながら、青年は走っていた。
昼間の雨がアスファルトに出来た窪みに水たまりを作り、跳ねた泥水がズボンの裾を濡らした。
青年は振り返らなかった。
人波を縫い、駅前のロータリーを横切る。
背後で誰かが何かを叫んだ気がしたが、電車の轟音にかき消された。
青年はガード下に沿って雑居ビルの並ぶ通りへ折れた。
そのビルの隙間に、通りからは見落としてしまいそうな細い路地があった。
入口には、黒いペンキで「運命」と手書きされた、古びた立て看板が一つ。
青年は吸い込まれるようにその路地へ入っていった。
その一画は、妙に黴臭かった。
折り畳み式の机。
安っぽい紫色の布。
水晶玉と、使い込まれたカードの束。
その設えは、年老いた辻占いを連想させる。
しかし、その向こうに座っていたのは、繁華街には場違いな少女だった。
黒いシフォンのショール。
十七、八歳だろうか。
ベール越しに見える青白い肌に、整った顔立ち。
肩にかかる髪は艶やかで、伏せた睫毛には街灯の光が淡く宿っている。
少女と目が合った青年は、息を整えながら自嘲的に笑った。
「ここのところ、ツイてないんだ」
少女は無機質に微笑み返した。
「運勢を見てみましょうか?」
「悪いけど、運命論者じゃない」
「運命は、あなたの信条に左右されない」
青年は考え直した。
追っ手を巻くための時間稼ぎに占いに付き合うのもいいだろう。
「おもしろい」
少女は簡素なスチールの椅子を勧めた。
「座って」
少女は青年の目をじっと覗き込んだ。
暗い深淵を覗き込むような瞳だ。
「何が見える?」
「望むものを手に入れるためには、代償が必要」
「ああ。言われなくても弁えてるよ」
やはり、無駄な時間だった。
要領を得ない神託は、受け取る人間に解釈を委ねることで、その信憑性を担保する。
しかし。
「あなたの悩みごとは、仕事も、家庭も、お金も、恋愛も、間もなくすべて溶けてなくなる」
その言葉には迷いがなかった。
「ずいぶん、僕にとって都合のいい占いだな」
「信じていい。私には、あなた方と見えている世界が違う」
「残念だけど、僕の方が多少なりとも世間ってものを知ってる。実際、占い師の君よりも先見の明があるのは間違いないと思うよ」
「と、いうと?」
「僕の見るところ、君はただの若い女の子で、こんな薄暗い盛り場の一画に店を出してれば、遠からずひどい目に遭うことになる。近ごろこの辺りで頻発してる行方不明事件の話を知らないの?」
また、霧のような雨が降り始めていた。
「そうなの?けれど、私はこの路地に囚われてる」
青年はしばらく言葉を失った。
「…占い師だから、スピってるのはしょうがないけどさあ…」
少女は小さく首を横に振った。
「抽象的な例えじゃない。私は道端に生えている野草。だから、性的な被害に遭うなんて、それは杞憂ね」
遠くに聴こえる救急車とパトカーのサイレンの音を気にしながら、青年は尋ねた。
「それ、本気で言ってる?どう見ても十代の少女だけど」
「私はヒトの形をした植物なの」
青年は嚙み合わない会話に苦笑いを漏らした。
「…つまりきみはヴィーガンって意味?」
少女は青年を見上げた。
その長い睫毛に雨粒が光る。
「例えば毬栗と雲丹を思い浮かべてみて。二つの種は全く違う進化の過程を経て、そっくりな形に行き着いた。つまりそれと同じ」
「なら、もう少し陽当たりのいい場所に引っ越した方がいいかもね」
「私はこの場所に根を張ってる。草木は自分の生きる場所を選べない」
「きみは人間とそっくりな植物ってこと?ハリー・ポッターに出てくるみたいな?面白いけど、でも、こうして僕としゃべってるよね」
通りから酔った男たちの大声が聞こえてくる。
「さっきからサイレン、うるさくねえか?」
「三光ビルの裏で、キャバ嬢の死体が見つかったってよ。黒服が言ってた」
「毟りすぎたんだろ」
少女は物騒な噂話も意に介さなかった。
「じゃあ食虫植物を考えてみて。あれは葉の内側にある『感覚毛』と呼ばれる細い毛に、昆虫が触れることで口を閉ざす」
「…つまり、どういうこと?」
「私の返事は、あなたが喋った言葉に対する物理的な反射作用に過ぎない、ということ」
青年は身を乗り出した。
「じゃあ、僕も正体を明かすのがフェアだな。さっきの事件、アレをやったのは僕なんだ。だから、僕が予言した君の不幸も現実になる」
少女は小さく首を傾げた。
「きっと、そうはならない」
青年の背中越しに、ビルの隙間を数人の警察官が駆け抜けていくのが見えた。
やり過ごした青年は、その後ろ姿を見送りながらニヤリと笑った。
「もう口を閉じろ。占いなんて茶番も、マンドラゴラの伝説も興味ない。君は今から僕に犯されて死ぬ。それが運命の正体さ」
少女は無表情のまま呟いた。
「…けれど、これは捕食のため」
「なに?」
「言ったでしょう?私の言葉はただの反射に過ぎない。それはエサをおびき寄せるために必要な生理機能」
少女の顔を覆っていたベールが、まるで自分の意思を持ったようにふわりと宙を舞い、
その頭部が月下美人の花弁のようにゆっくりと開いていった。
「そこ」には、人体にあるべき組織の代わりに、おしべとめしべを思わせる器官が、暗がりの中で濡れていた。
辺りに鼻を突くような酸の匂いが立ち込めた。
「…ほんとに?」
青年の口元には、まだ薄笑いが張り付いたまま。
マンドラゴラがむせび泣くような悲鳴を、盛り場の喧騒とサイレンの音がかき消した。
そして、その路地から、再び青年が姿を現すことはなかった。




