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不条理な憧憬

ビルの隙間

作者: 子父澤 緊
掲載日:2026/10/15

夜の新宿駅西口。

この界隈では、近ごろ不穏な噂を耳にする。

ここ数カ月で、立て続けに行方不明者が出ているというのだ。

もっとも、そんなことは今に始まったわけではないと嗤(わら)う者もいた。

そして、この街の夜は今日も人通りが絶えることはなかった。


ガード下では、電車が通過するたびに鉄骨が低く唸る。

排気ガスと、どこかの店から流れてくる油の匂いが混じり合っていた。

居酒屋の呼び込みが声を張り上げ、酔っ払いが笑い、路上では誰かが怒鳴りあっている。


月も、星もない夜。

空は雲に覆われている。


足早に迫る靴音を背後に聞きながら、青年は走っていた。

昼間の雨がアスファルトに出来た窪みに水たまりを作り、跳ねた泥水がズボンの裾(すそ)を濡らした。

青年は振り返らなかった。

人波を縫(ぬ)い、駅前のロータリーを横切る。

背後で誰かが何かを叫んだ気がしたが、電車の轟音にかき消された。

青年はガード下に沿って雑居ビルの並ぶ通りへ折れた。


そのビルの隙間(すきま)に、通りからは見落としてしまいそうな細い路地があった。

入口には、黒いペンキで「運命」と手書きされた、古びた立て看板が一つ。

青年は吸い込まれるようにその路地へ入っていった。


その一画は、妙に黴臭(かびくさ)かった。

折り畳み式の机。

安っぽい紫色の布。

水晶玉と、使い込まれたカードの束。

その設(しつら)えは、年老いた辻占いを連想させる。


しかし、その向こうに座っていたのは、繁華街には場違いな少女だった。

黒いシフォンのショール。

十七、八歳だろうか。

ベール越しに見える青白い肌に、整った顔立ち。

肩にかかる髪は艶やかで、伏せた睫毛(まつげ)には街灯の光が淡く宿っている。


少女と目が合った青年は、息を整えながら自嘲的に笑った。

「ここのところ、ツイてないんだ」

少女は無機質に微笑み返した。

「運勢を見てみましょうか?」

「悪いけど、運命論者じゃない」

「運命は、あなたの信条に左右されない」

青年は考え直した。

追っ手を巻くための時間稼ぎに占いに付き合うのもいいだろう。

「おもしろい」

少女は簡素なスチールの椅子を勧めた。

「座って」

少女は青年の目をじっと覗(のぞ)き込んだ。

暗い深淵を覗き込むような瞳だ。

「何が見える?」

「望むものを手に入れるためには、代償が必要」

「ああ。言われなくても弁(わきま)えてるよ」

やはり、無駄な時間だった。

要領を得ない神託は、受け取る人間に解釈を委ねることで、その信憑性(しんぴょうせい)を担保する。

しかし。

「あなたの悩みごとは、仕事も、家庭も、お金も、恋愛も、間もなくすべて溶けてなくなる」

その言葉には迷いがなかった。

「ずいぶん、僕にとって都合のいい占いだな」

「信じていい。私には、あなた方と見えている世界が違う」

「残念だけど、僕の方が多少なりとも世間ってものを知ってる。実際、占い師の君よりも先見の明があるのは間違いないと思うよ」

「と、いうと?」

「僕の見るところ、君はただの若い女の子で、こんな薄暗い盛り場の一画に店を出してれば、遠からずひどい目に遭(あ)うことになる。近ごろこの辺りで頻発(ひんぱつ)してる行方不明事件の話を知らないの?」

また、霧のような雨が降り始めていた。

「そうなの?けれど、私はこの路地に囚(とら)われてる」

青年はしばらく言葉を失った。

「…占い師だから、スピってるのはしょうがないけどさあ…」

少女は小さく首を横に振った。

「抽象的な例えじゃない。私は道端(みちばた)に生えている野草。だから、性的な被害に遭(あ)うなんて、それは杞憂(きゆう)ね」

遠くに聴こえる救急車とパトカーのサイレンの音を気にしながら、青年は尋ねた。

「それ、本気で言ってる?どう見ても十代の少女だけど」

「私はヒトの形をした植物なの」

青年は嚙み合わない会話に苦笑いを漏らした。

「…つまりきみはヴィーガンって意味?」


少女は青年を見上げた。

その長い睫毛(まつげ)に雨粒が光る。

「例えば毬栗(イガグリ)と雲丹(ウニ)を思い浮かべてみて。二つの種は全く違う進化の過程を経て、そっくりな形に行き着いた。つまりそれと同じ」

「なら、もう少し陽当たりのいい場所に引っ越した方がいいかもね」

「私はこの場所に根を張ってる。草木は自分の生きる場所を選べない」

「きみは人間とそっくりな植物ってこと?ハリー・ポッターに出てくるみたいな?面白いけど、でも、こうして僕としゃべってるよね」


通りから酔った男たちの大声が聞こえてくる。

「さっきからサイレン、うるさくねえか?」

「三光ビルの裏で、キャバ嬢の死体が見つかったってよ。黒服が言ってた」

「毟(むし)りすぎたんだろ」


少女は物騒な噂話も意に介さなかった。

「じゃあ食虫植物を考えてみて。あれは葉の内側にある『感覚毛』と呼ばれる細い毛に、昆虫が触れることで口を閉ざす」

「…つまり、どういうこと?」

「私の返事は、あなたが喋った言葉に対する物理的な反射作用に過ぎない、ということ」


青年は身を乗り出した。

「じゃあ、僕も正体を明かすのがフェアだな。さっきの事件、アレをやったのは僕なんだ。だから、僕が予言した君の不幸も現実になる」

少女は小さく首を傾げた。

「きっと、そうはならない」


青年の背中越しに、ビルの隙間(すきま)を数人の警察官が駆け抜けていくのが見えた。

やり過ごした青年は、その後ろ姿を見送りながらニヤリと笑った。


「もう口を閉じろ。占いなんて茶番も、マンドラゴラの伝説も興味ない。君は今から僕に犯されて死ぬ。それが運命の正体さ」

少女は無表情のまま呟いた。

「…けれど、これは捕食のため」

「なに?」

「言ったでしょう?私の言葉はただの反射に過ぎない。それはエサをおびき寄せるために必要な生理機能」


少女の顔を覆っていたベールが、まるで自分の意思を持ったようにふわりと宙を舞い、

その頭部が月下美人の花弁のようにゆっくりと開いていった。

「そこ」には、人体にあるべき組織の代わりに、おしべとめしべを思わせる器官が、暗がりの中で濡れていた。

辺りに鼻を突くような酸の匂いが立ち込めた。


「…ほんとに?」

青年の口元には、まだ薄笑いが張り付いたまま。


マンドラゴラがむせび泣くような悲鳴を、盛り場の喧騒とサイレンの音がかき消した。


そして、その路地から、再び青年が姿を現すことはなかった。



挿絵(By みてみん)


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