婚約破棄の理由が「パンを食べる音」でしたので、祝宴のお料理を持ち帰ります
婚約破棄の理由が「パンを食べる音」でしたので、祝宴のお料理を持ち帰ります
「リディア。君との婚約は、今日限りで破棄する」
婚約披露の祝宴が始まる五分前、オルフェン伯爵令息は控室でそう言った。リディアは焼きたての小さなパンを手に持ち、まだ一口も食べていない。扉の向こうでは楽団が楽器の音を合わせ、厨房からは肉を焼く匂いが届いていた。
「承知しました。理由を伺っても?」
「君はパンを食べる音が大きい」
「まだ食べていませんが」
「今日の話ではない。先月、母上との昼食で聞いたんだ。かりっ、と」
オルフェンは歯の間にパンの皮が挟まったような顔をした。彼の隣には薄桃色のドレスを着たロザンナがいる。リディアが二人へ視線を移すと、ロザンナは小さく首を振った。
「わたくしは音なんて気にしません。でもオルフェン様は、とても繊細な方ですから」
「そういうことだ。君には悪いが、ロザンナと婚約し直す」
リディアは手の中のパンを見た。表面に細い切れ目が入り、焼けた小麦の香りがする。先月の昼食では、伯爵夫人が「硬いパンは苦手」と言うので、リディアは柔らかいものと取り替えた。自分に回ってきたのが、その硬いパンだった。
「それでは、今日の祝宴はどうなさいますか」
「予定どおり開く。招待客はもう来ているんだ」
「お料理も?」
「当然だ。君も大人なら、取り乱さずに出席してくれ」
オルフェンは胸元の飾り紐を直し、鏡に自分を映した。リディアは祝宴の支払いについて、今朝届いた請求書を思い出した。料理、花、楽団、給仕の追加人数。伯爵家は年末から資金繰りが苦しく、今回はリディアの父が「娘の門出だから」と費用を負担している。
「出席はいたしません。婚約者ではなくなりましたので」
「そういうところだ。すぐ損得で考える」
「いいえ。パンを食べる音で判断しています」
リディアはようやくパンをかじった。皮が軽く割れ、控室に小さな音がした。オルフェンは顔をしかめたが、ロザンナは扉の向こうの食事が気になるらしく、落ち着かない様子で扇を開いたり閉じたりしている。
リディアは近くの給仕を呼び、厨房長と会場係を控室へ招いてもらった。二人が来る間にパンを食べ終え、指先についた粉を布巾で拭く。厨房長は白い上着の袖をまくり、会場係は客席の配置図を抱えて現れた。
「今、この場で婚約が解消されました」
「はあ」
厨房長はオルフェンを見た。オルフェンは「私的な事情だ」と言って目をそらす。リディアは、父が署名した宴の発注書の写しを会場係に見せた。会場係は署名欄を確かめ、抱えていた配置図を裏返した。
「発注者は父です。確認が取れるまで、まだ出していない料理を披露宴として提供しないでください。すでにお客様へお出ししたものは、そのままで構いません」
「待て。招待客を飢えさせるつもりか」
「朝から厨房で働いた方にも、お客様にも失礼なことはしません。費用を負担する人へ、続けてよいか確認するだけです」
リディアが厨房長へ向き直ると、彼はうなずいた。最初の冷菜はもう運び終えたが、温かい料理はまだ厨房にあるという。リディアは父への使いを頼み、自分は招待客に事情を説明しに行こうとした。
「リディア様」
厨房長が声をかけた。袖についた粉を払いながら、困った顔をしている。
「厨房には、祝いのために焼いたパンが百二十個あります。どう扱いましょう」
「何個、出しましたか」
「二十個です」
「残り百個は、一度こちらへ持ってきてください」
オルフェンが額を押さえた。
「まさか数えるのか」
「焼いた方が、もう数えてくださっています」
厨房長が出ていくと、ロザンナが一歩前に出た。彼女はリディアの手ではなく、机の上の空いたパン皿を見ている。
「リディア様。こんな日に意地悪をなさるんですか」
「ロザンナ様は、何かお食べになりました?」
「まだです。これからお祝いなので」
「でしたら、お腹がすいていますよね」
ロザンナは返事をしなかった。リディアも朝から食事をしていなかった。婚約披露の前に、緊張で何ものどを通らないと思っていたが、パンを一つ食べると、急に腹が鳴りそうになった。
広間へ出ると、招待客は冷菜を前に、主役を待っていた。リディアは壇上に上がり、父の席を見つけて頭を下げた。父はグラスを置き、立ち上がる。
「皆様。本日の披露に先立ち、オルフェン様から婚約解消の申し出があり、私が受け入れました」
広間が静かになった。後ろからオルフェンが追いつき、リディアの横へ並ぶ。彼は笑顔を作ろうとしたが、口元だけが妙に引きつっていた。
「ちょっとした行き違いだ。祝宴はそのまま続ける」
「新しい婚約者はロザンナ様だそうです」
リディアが手を差し向けると、ロザンナは客席の視線を浴びて立ち止まった。伯爵夫人は椅子から腰を浮かせ、オルフェンを睨む。リディアの父は、まず料理の載った皿を一枚確かめ、それから娘へ視線を戻した。
「続けたいなら、会場と料理の費用を伯爵家で負担できるか確認しましょう」
「父上は何の話をしているんです」
オルフェンが伯爵を振り向いた。伯爵は口元のナプキンを畳み、卓上へ置く。
「お前が昨夜、旅行用の馬車を買うと言ったとき、今は支出を増やせないと話したな」
「馬車と祝宴は別でしょう」
「財布は一つだ」
伯爵が言うと、伯爵夫人は卓の下で息子の足を踏んだらしい。オルフェンの肩が跳ねた。会場係が伯爵家の席へ発注書を運び、伯爵は金額を見て、ナプキンをもう一度開いてから畳んだ。
リディアは広間へ向き直った。
「すでにお出しした冷菜は、どうぞお召し上がりください。厨房では温かい料理もできていますので、発注者である父と、厨房の皆様へ相談してまいります」
「おい、料理を全部持ち帰る気か」
オルフェンが小声で言った。壇上は思ったより音が通る。前列の招待客がこちらを見上げ、何人かは冷菜を食べる手を止めていた。
「持ち帰れる料理と、今ここで食べるべき料理があります」
「そういう話をしてるんじゃない」
「では、どの話ですか。パンの音ですか?」
前列で誰かがむせた。ロザンナは扇で顔を隠し、伯爵夫人は息子の反対側の足も踏んだ。
父と厨房長に相談した結果、温かい料理はその場で招待客へ出すことになった。途中で食事を取り上げても、料理を作った人にも招かれた人にも申し訳がない。会場係が席次の札を外し、「婚約披露」の飾り布も下ろした。事情を聞いた楽団は演奏を休み、まず給仕たちと一緒に賄いを食べた。
リディアの父は客席で娘と並び、熱いスープを飲んだ。朝から忙しかったため、彼も空腹だったらしい。二口目を飲んでから、父は小声で尋ねた。
「ところで、理由は何だったんだ」
「パンを食べる音だそうです」
「わしもか?」
「父は、スープをすする音のほうが大きいです」
父は椀を見て、次は静かに飲もうとした。しかし熱かったらしく、結局いつもと同じ音を立てた。リディアは自分のパンを割り、スープにつけて食べた。
オルフェンとロザンナは、伯爵家の席で料理に手をつけられずにいた。二人の間には、持ち帰り用の小さな箱が一つ置かれている。厨房長が「祝い菓子は日持ちしますので」と渡したものだ。受け取るとき、オルフェンは何も言わなかった。
食事が終わるころ、父がリディアの椅子に近づいた。
「百個のパンはどうする」
「半分は厨房の方たちへ。残りは、明日も食べられるところに持っていけるそうです」
「お前の分は?」
「二つ、いただきました」
リディアは膝に置いた紙袋を見せた。一つは帰りの馬車で食べるつもりだった。もう一つは明日の朝、軽く焼き直せばよい。父は袋の膨らみを見てから、娘へ手を差し出した。
「一つくれ。わしも朝に食べる」
「かりっ、と音がしますよ」
「焼いたパンなら、そうなるだろう」
リディアは紙袋から一つ取り出し、父の手に載せた。広間では楽団が演奏を再開し、客たちは料理を食べながら話している。オルフェンは伯爵から渡された支払いの書類に目を落とし、ロザンナは持ち帰りの菓子箱を自分のほうへ少し引き寄せた。
リディアは残ったパンを袋の口から覗いた。焼き色はよく、朝もきっとおいしい。今夜のうちにもう一つ食べるかどうかは、馬車に乗ってから決めることにした。




