視線の月曜 ~告白
月曜の朝。
彩は、いつもより少しだけ早く出社した。
理由は自分でもはっきりしない・・・という事にしておきたかった。ただ、家にいるより仕事をしていたほうが楽だった。パソコンを立ち上げ、メールを確認する。未読を一つずつ処理していく。
いつも通りの業務。いつも通りの数字。
なのに。
落ち着かない。
背中が、ざわつく。・・・気のせい? 一度目はそう思った。二度目で、少しだけ気になった。
三度目で、確信に近くなる。
見られている。
顔を上げる。
向こうの席。大樹と目が合った。
一瞬の間。
それから、ぱっと向こうが笑う。
「おはようございます」
いつもの、人懐っこい笑顔。
彩も小さく返す。
「・・・おはよう」
土曜の夕暮れと同じ人とは思えないくらい、いつも通りだ。
それなのに。
何かが違う。
視線が逸れるのが、ほんの一拍遅い。その一拍が、妙に重い。背中に残る感触のような、視線。
気にしすぎだろうか。
午前中。
フロアはいつものように騒がしい。
「いやあ昨日さ、完全に飲みすぎたわ」
誠が椅子を揺らしながら言う。
「またですか」
葵が苦笑する。
「だってあの店、日本酒うまいんだって」
「それ、先週も聞きました」
「言ってない言ってない」
「言いました」
そのやり取りの向こうで
大樹が笑う。
「誠さん、それ三回目ですよ」
「嘘だろ」
「ほんとです」
誠が肩をすくめる。
「葵さん、メモ取ってんの?」
「取ってません」
「絶対取ってるだろ」
小さな笑いが広がる。
いつもの空気。
彩はモニターを見ながらマウスを動かす。
けれど。
ふとした瞬間。
また視線が来る。視線が絡みつく。
画面から顔を上げる。
大樹。
今度は、目が合う前に逸らされた。
・・・え。
ほんの一瞬、胸の奥がひっかかる。
見ていたのに。
見られたくないみたいに。
逸らされた。
仕事に戻る。数字を入力する。
それでも。
視線は、ときどきふれてくる。・・・確実に見られている。見られているというより、追われている。否、確かめられているような。
昼過ぎ。
顔を上げると、誠と葵がモニター越しに小声で話していた。
「あれ、今日静かじゃない?」
誠の顎が、わずかに動く。
葵がそちらを見る。
ほんの一瞬だけ。
それから視線を戻す。
「気のせいじゃないですか」
さらりと言う。
でも、その後、葵の視線がふっと彩の方に寄る。
すぐに戻る。
「誠さんそういうの好きですよね」
「観察?」
「観察」
誠が笑う。
「葵さん、わかってきたか」
「長いですから」
軽いやり取り。
でも、葵はもう一度だけ彩の方を見た。
ほんの一瞬、気遣うみたいに。
私、何かした?
それとも・・・胸の奥に土曜の光景がよぎる。笑い声。いつもよりラフな服装、それこそピンクの髪に似合うような。そして、女の子の腕。距離の近さ。
彩はキーボードを打つ手を止める。
・・・やっぱり、勘違いだったんだろうか。完全に否定しなくちゃいけないと思う自分と、そういうのにまだ憧れたいと思う自分がいる。
夕方。
彩は立ち上がった。
「すみません、今日の客先なんですけど」
何人かが顔を上げる。
「鈴木さん、同行お願いできますか」
奥の席にいる鈴木は、モニター越しに片手を上げた。
短く整えられた白髪交じりの髪。目元には笑い皺が刻まれ、軽くジャケットを羽織った姿はそろそろ風格が漂っている。
「んー」
椅子を少し回す。
「今ちょっと手が離せないんだわ」
「そうですか」
「俺の担当の話はだいたい終わってるはずだろ?」
「はい、一通りは」
鈴木が腕を組む。
「じゃあさ」
軽く笑った。
「今日は誰か適当に連れてってくれるか~」
「え?」
「ついでに顔合わせしといた方がいい奴はいるか~?」
誠が口を挟む。
「お、接待デビュー?」
「接待ってほどじゃないけどな」
鈴木は肩をすくめる。
「軽く飯でも食ってきてくれ」
夕飯。
その言葉がなぜか耳に残る。
彩は小さく息を吸う。
「・・・わかりました」
誰かが椅子を引く音。
その時。
誠が、ほんのわずかに体勢を変えた。
机の下で足を組み直す。
視線は最初から、大樹の方。
「俺・・・」
大樹が立ちかける。
その瞬間。
誠の手が机の下で肘を押さえた。
自然な動き。
でも、迷いがない。
「お前座っとけ」
低い声。
小さく。
大樹が誠を見る。
誠は笑っている。
でも。
目が、笑っていない。
ほんの一瞬。
三人の視線が交差する。
やがて。
別の同僚が手を挙げた。
「俺行きますよ」
「お、助かる」
鈴木が頷く。話はそれで決まった。彩は会釈する。
「ありがとうございます」
鞄を取る。
視線。
視線が、まだある。
背中に触れるように。
振り向かない。
振り向いたら、何かを認めてしまいそうで。
●●
夕飯。
その単語が、耳の奥に残る。
客先と。
顔合わせ。
軽く、夕飯。
軽く?
何が軽い。
誰と座る。
誰と向かい合う。
誰の前で、あの落ち着いた声を出す。
想像が、勝手に具体的になる。
知らない男が、あの人の向かいに座る。料理を取り分ける手元を見る。笑ったときの目元を見る。その距離を、共有する。
胸の奥が、じわりと焼ける。
俺が行くはずだった。
立ち上がった瞬間、もう決めていた。
・・・連れて行かせない。
理由なんてどうでもいい。フォローだとか、補足説明だとか。全部、後付けだ。本当はあの人を、知らない男の隣に座らせたくなかった。
誠の指が食い込む。
「やめとけ」
低い声。
机の下。
逃げ場のない圧。やめろ。その圧に、現実へ引き戻される。
わかってる。
ここで名乗り出たら露骨だ。
あの土曜の後で。
あの視線のあとで。
今、動いたら、全部ばれる。
それでも。
止められた事に、腹の奥が冷たくなる。
俺が行けばよかった。
俺が隣にいればよかった。
他の男に、あの人の時間を渡したくない。
そんな権利はない。
わかってる。
わかってるのに。
想像が止まらない。店の照明。テーブルの距離。「今日はありがとうございました」と頭を下げる姿。その横顔を、俺じゃない誰かが近くで見る。
嫌だ。
喉の奥が、ぎり、と鳴る。
「顔に出てるぞ」
誠の声。
大樹は笑う。
「何がですか」
「夕飯って聞いた瞬間」
誠がコーヒーを飲む。
「目、変わった」
「気のせいです」
「嘘つけ」
誠は小さく笑う。
「お前、そんなわかりやすい奴だったったけか?」
大樹は肩をすくめる。
「普通ですよ」
誠は机を指で軽く叩く。
「普通の奴は」
一拍。
「立ち上がりかけない」
言葉が返せない。
誠はちらりと横を見る。
「焦るな」
静かな声。
「雑に動くな」
それだけ言って、コーヒーを置く。
オフィスの向こうで笑い声が上がる。いつもの会社の音。
大樹は視線を落とす。
奪いたいわけじゃない。
縛るつもりもない。
そんなことしたら、あの人は離れる。
でも。
俺の見えないところで、笑うな。
俺の知らない場所で、時間を使うな。
その考えに、自分で一瞬ひるむ。
・・・重い。
わかってる。
だから誰にも見せない。
机の下で、指先が無意識に握り込まれる。
血が引くほど強く。
誠が横目で見る。
「ほらな」
「何がです」
「その手」
大樹は慌てて力を抜く。
誠は笑う。
「ほんとわかりやすい」
「・・・」
声も表情もいつも通り。完璧だ。
誰も気づかないはずだった。
でも視線だけは、ずっと追っていた。コートを羽織る動き。鞄を持つ手。ドアへ向かう背中。
行くな。
行かせたくない。
せめて、終わったらすぐ連絡しろ。
誰とどこにいるか教えろ。
そんな言葉が、喉元までせり上がる。
飲み込む。
まだだ。
今はまだ、壊せない。壊したら、あの人は俺を選ばない。
だから。
笑う。
見送る。
そして心の奥で、静かに決める。
・・・次は、俺が隣にいる。
誰にも渡さない。
その決意が、じわりと根を張る。
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