シーン9:王子とリリア
王子ルッツは、医務棟の窓際に立っていた。
包帯も、拘束もない。
診断書には「異常なし」と書かれている。
彼は、生きている。
それが、すべてだった。
背後で、扉が閉まる音がする。
リリアが、静かに入ってきた。
二人の間に、会話はない。
必要な言葉は、もう誰かが奪っていった後だった。
ルッツが、先に口を開く。
「……事故、じゃなかったんだな」
断定ではない。
確認でもない。
ただ、受け取った事実を、そのまま置くような声音だった。
医務棟の壁に貼られた、安全標語が目に入る。
昨日まで、何度も見てきた言葉。
——想定された訓練は、安全である。
ルッツは、目を逸らす。
「俺は……」
「死ぬはずだったんだろう?」
誰に向けた問いでもない。
答えを期待しているわけでもない。
リリアは、頷かない。
否定もしない。
ただ、ディアナの立っている位置を見る。
廊下の向こう。
少し離れた場所。
誰の視界にも、はっきり入らない距離。
そこにいるのが、彼女の居場所になった。
リリアは、言葉を選ばない。
選べない。
「助かったよ」
それだけを言う。
感謝ではない。
祝福でもない。
結果の確認だ。
ルッツは、短く息を吐く。
「……そうだな」
助かった。
それは、間違いない。
だが、胸の奥に残る感覚が、消えない。
自分は守られていたのではない。
ただ――処理されなかっただけだ。
世界は、今日も正しく動いている。
規定も、判断も、すべて正常だ。
だからこそ。
「もう、前みたいには信じられないな」
ルッツは、そう言って笑った。
王子としての、上手な笑顔だった。
リリアは、何も言わない。
彼女もまた、理解してしまっている。
救われたことと、
世界が優しいことは、
同義ではない。
ディアナは、近づかない。
声もかけない。
説明もしない。
もう、説明する役目は終わっている。
三人は、生きている。
それだけが、確かな事実だった。
そして同時に、
もう二度と、
世界を信じ直すことはできない。
それでも、
歩くしかない。
それが、この世界で
生き残った者に与えられた、
唯一の役割だった。




