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第1話 氷室マイの中の人

 6月11日、午前5時。


 自室のベッドの上で大きく伸びをする。目覚ましはいらない。日ごろから体内時計を調整しておけば、決めた時間に起きることは簡単だ。むしろ目覚ましで無理やり起きるのは健康に悪いというのが私の持論だった。

 カーテンを開け放って部屋いっぱいに朝日を取り込み、スマホを立ち上げてAIアナウンサーがニュースを読み上げるのをラジオ代わりに垂れ流す。


『――昨夜8時ごろ、渋谷で発生したB級特殊災害が発生。死者はなく、数人が軽いけがを負った模様です。現在は鎮圧され、道路の復旧作業が行われています。次のニュースです――』


 怪異の事件――公的には特殊災害と呼称されている――は別に珍しいことではない。C級まで含めると、都内だけでも発生件数は1日1000件近くに上る。単純計算で交通事故の約10倍だ。

 しかし、現場を目の当たりにした者の感覚からすればこの報道の仕方は明らかに歪だ。逃げ惑う人々の悲鳴や表情、そして何より押し寄せるような恐怖の空気。それらは一夜明けた今でも鮮明に思い出せる。

 比較的規模の大きいB級でもアナウンサーがたった一文を読み上げるだけで終わり。ネットにいくらでも転がっているはずの映像すらない。

 報道規制がかかっているのだろうと、火翅は言っていた。


 キッチンで鍋に湯を沸かす。その間に冷たい水で顔を洗い、化粧水をなじませ美容液を塗り広げる。脳が回っていくのがわかる。鏡に映るのはどこにでもいる黒髪ロングの普通の女子大学生、朝比奈凛。青銀の髪も蒼い目も、すべては幻想。あの氷の剣士の姿はどこにもない。

 キッチンに戻り、ニュースを右から左へと聞き流しつつ。朝食とお弁当の準備を進めながら、思案する。

 この世界には限られた人間だけが知り、暗黙の了解の上で隠された一つの仮説がある。


 怪異は人の認知から発生する。

 今回の一件だってそう。

 ストンストンと。玉ねぎを刻む音が子気味よく響く。半分は薄切りにして味噌汁の材料に、もう半分はみじん切りにしてサラダの材料へ。


「もったいないお化け、か」


 ゴミ箱に捨てた玉ねぎの薄皮も理論上は使える。煎じて茶にしたり、手製の染料の材料にしたり。フリマサイトで出品されているのを見たことがある。だけど、廃棄する。そんなことをしている手間も時間も無駄だからだ。私だってそんな面倒なことはしない。だからこそか。


 食べ物を粗末にすると罰が当たる。


 実際にはそこまで具体化された信念を持った人はあまりいない。しかし、食べ物を捨てる時、心のどこかで嫌悪や不快に近い情動を抱く者は少なくないのではないか。そういった幻想が積もり積もって、怪異を生み出してしまう。

 まあ、普段ならあそこまで巨大化することはないのだけれど。

 もったいないお化けとは本来C級のありふれた怪異だ。顔も見たことのないバディが言う通り、アレは昼間の環境活動家の信念が影響したものなのだろう。


「あの男、頭は切れるのよねぇ。性格は最悪だけど」


 フライパンを加熱し、溶き卵を落とす。軽く混ぜつつ山吹色の卵焼きに。空いたフライパンにウィンナーを投入。じゅわーっと香ばしい匂いが広がっていく。燻製は身体に悪いらしいが、おいしいのだから仕方がない。唯一の妥協点だ。

 怪異は歪んだ認知や信念から生まれるのだとすれば、そういったものを少しずつ削り取っていけば怪異は消えるのだろう。

 だけど、果たしてそんな世界で人は幸せに生きていけるのだろうか。

 気づけば朝のニュースは天気予報に移っていた。今日は晴れるらしい。


「よしっ、できた」


 白米、ウィンナー、サラダに加え、解凍した作り置きを少しずつ詰め込んだら今日のお弁当は完成だ。

 朝は白米派だ。パンも悪くはないけれど、白ご飯は日本人の活力の源だと思う。

 時刻は6時に差し掛かっていた。

 インターネットでは氷室マイとか呼ばれているが、その実は普通の大学2年生だ。




 午前の授業を乗り越えたお昼時。どう空腹を満たすかという問いに対しては様々な選択肢があるが、カフェテリアに足を運ぶ学生が大多数だ。コンビニでおにぎりとか菓子パンとかを買う人も多い。

 コンビニ勢の亜種だが、カップ麺にお湯を注いで学内に罪深い香りを漂わせる者も存在する。正直、カップ麺は家で食べる保存食という先入観が強いため、大学で買って食べようという感覚があまり理解できない。どう考えても深夜に背徳感ごとすすり尽くすほうがおいしくないか。


 それはともかく。


 お弁当勢の私だが、友人二人とご一緒するため、先んじてカフェテリアの窓際のテーブル席を抑えておく。

 スマホを触りながらしばらく待っていると、二人の声が耳に入った。


「おーっす朝比奈、おつかれー」


 そんな風に言って、クールな笑みを浮かべるのは金のショートカットにピアスが映える、スタイルの良い高身長女子が篠沢京子。今日は焼き鮭定食らしい。


「ごめーん待ったーん?」


 そして、カレーをのせたトレー片手に、ツインなお下げを揺らしながらきゃるんとポーズをとるのは小花みこ。本人に言うと怒るが、二十歳になってもお酒を売ってもらえなさそうな見た目中学生女子だ。

 成長格差の大きい二人並んでいると、まるで年の離れた姉妹のようだった。


「ふふ、今来たところよ」

「いっいぇーい」


 いっいぇーいとテーブルをはさんでハイタッチ。


「バカップルの待ち合わせか」

「でっへへー」


 二人が食べ始めるのを待って、私も弁当箱のふたを開ける。

 彼女たちとは入学時からの付き合いだ。出身地はばらばらだが、とある講義で一緒になり仲良くなった。それからは講義を合わせたり一緒に昼食を取ったりという関係が続いている。

 二人との関係に文句はない。むしろこれ以上ない友人だ。だけど、一つだけ個人的な問題があった。

 スプーンでカレーをかき混ぜながら、小花さんが口を開く。


「そいえばさ、昨日の、見た?」

「見たって、火翅ちゃんねる?」

「そう! 氷室ちゃんかっこよかったなぁ。まさにあれこそあたし理想のヒーローだよ! 大技が見れたのは数週間ぶりだし最高だった……」

「ああ、今回派手だったよねー。あれで登録者かなり増えたらしいけど、火翅のEXの投稿見る限り本人は不服そうなの笑える」

「ほぇー。素直に喜んでおけばいいのに」

「氷室マイのほうがキャラとして人気なんだとか。普通の配信より討伐配信のほうが伸びるのが納得いかないらしい。まあ日頃の行いだな」

「ソウネ、ナルホドネ」


 ああまた始まってしまった……。

 私は愛想笑いを浮かべながら相槌を打つマシーンとなってやり過ごす。

 個人的な問題とはまさにこれだ。

 あまり現実世界で氷室マイという単語は聞きたくないのだが、小花さんは氷室マイ推しの怪異オタク、そして篠沢さんは火翅ちゃんねる古参のファンチときた。

 火翅ちゃんねるは一応登録者80万規模のチャンネルだ。探せばどこかしらにファンはいるだろうけれど、それにしたって運命のいたずらというものを感じてしまう。

 ちなみに身バレはしていない。幻装には認識阻害の効果もあるのだ。


「でもなんか火翅って人ってなんかいつも炎上してない? 氷室ちゃんって普段の言動からあまりそういうの好きそうに見えないのに、なんで組んでるんだろ」

「さあ。私だってあの真正の『炎上屋』が怪異討伐なんて社会貢献してる意味がよくわっかんないんだよな。拝金主義者ではあるけど儲け方には自分ルールがあるみたいだし。朝比奈はなんでだと思う?」

「え、ええ、うーんなんででしょうね……?」


 語るに語れない複雑な事情があるのだ。

 火翅ちゃんねるは怪異系としては新参だが、チャンネルとしてはそこそこ長い。

 篠沢さんが言うには、火翅ショウとはもともとライブでの炎上解説や有名人の裏垢の特定などのダーティーな活動で上り詰めてきた配信者らしい。多分ファンよりアンチのほうが多いし、なんなら彼自身もたまに燃えている。この前もVチューバーは無料で通えるネットキャバクラだろ! とか言って小爆発を起こしていた。

 そんな火翅ちゃんねるが怪異討伐に乗り出したのは、私が氷室マイとして活動を始め、彼のチャンネルに出演するようになった二か月前からだ。……まあ、私個人は怪異ハンターとしてはもっと長いのだけれど、それは別の話だ。


「で、でも怪異系だと他にも有名な人はいるわよ? 別に火翅ちゃんねるである必要はないんじゃない? 例えば……そう、個人勢最強と言われているネロさんとか」

「うーんネロちゃんも良いけど、あたしはやっぱり氷室ちゃん推しかなー。いちばんヒーローしてるからね」

 味噌汁をすすりつつ、篠沢さんが口をはさむ。

「ヒーローってよく言うけど、氷室は性別的にはヒロインじゃないの?」

「いやヒーローとヒロインは違うじゃん」

「あっはい」


 急に真顔になったあたりオタクの地雷っぽかった。それも足を離さなければワンチャンあるほうではなく、踏んだ瞬間に起爆するタイプの。同じように思ったようで、篠沢さんは肩をすくめていた。


「大体、ヒロインって文脈的には主人公に対する女キャラって意味でつかわれることが多いじゃん。メインヒロイン、サブヒロインって言葉が良い例だよ。氷室ちゃんはそんなんじゃないから。怪異ハンターたくさんいるけど、氷室ちゃんはその中でも常に正義を体現し続けようとしてるの。むしろ老若男女すべてを草の根一本残さず狩り尽くして侍らせるのが氷室ちゃんなんだよ。みんな全然わかってない、もっと人気になるべきなの。あむっ!」

「ああ、そう……」


 この娘は何を言っているのだろう。それに、私が正義側だなんて勘違いも甚だしい。そういうのはもうやめたのだ。

 ウィンナーに箸を突き立て、口の中に放り込む。今朝はパリッと焼けていたが、冷えるとしなしなだ。


「それで、小花さんは最近どうなの? オカルト研の話とか聞きたいわ」

 露骨な話題そらしだなーと自分でも思うが、小花さんはぱっと表情を変えた。

「そうそう、ここだけの話なんだけどね」

 何を隠す必要があるのか、彼女は声を低くする。

「ここ数日特定のD級怪異の目撃例が急増してるんだよ。それも新宿に限定して。変じゃない?」

「そうか? D級って怪異と呼べるかも怪しい無害な現象のことだろ? それこそ変な物音がしたとか、背後で気配がしたとかでもいったんD級扱い。最近は何でも怪異だと疑う人が多すぎるよ。多分ほとんどは科学的に説明がつくものだと思うけど? いちいち気にするほどのものでもないだろ」


 篠沢さんの疑問に対して、小花さんは得意げな表情を崩さない。そうきかれるのを待ってましたと言わんばかりだ。


「ふっふっふ、甘いね。これはもろ怪異だよ。怪異の内容は白い人影のようなもの。カメラにも映り込みがあるんだよ。ほら」


 そう言って、彼女はひび割れたスマホの画面を見せてくる。

 駅前の写真だ。夜の雑踏の中、明らかに等身大の白い靄のような映り込みがある。


「……これは確かに怪異ね。でも長くは続かないと思うわよ。D級は自然消滅するものがほとんどで討伐する必要がないからこそ懸賞金が出ないわけだし。それに白い人影なんて、割とよくあるD級怪異じゃない」

「ああ、目撃例が多いって言ったって、新宿なら説明がつく。そもそも通行人が多いんだから」

「そうだけどー! 何かありそうじゃん! オカルト研として見過ごすわけにはいかないの! むぅ……」


 ダブルパンチによって沈められてふくれっ面になると、そのままスマホをスクロールし始めてしまう。かなり華やかそうに見えるハンター界隈だが、割と夢も希望もなかったりする。C級とかなんてそのスズメバチ駆除とあまり変わらないのだ。


「おい、さっさと食べちゃえよ。まだ半分も残ってるじゃないか。私と朝比奈はもう食べ終わっちゃうぞ」


 そう言う篠沢さんはいつの間にやら小鉢の漬物で残った白米を消費しきる最終コーナーに入っていた。私も残すは豆の煮物だ。


「待って待って今食べるから!」


 小花さんはハムスターみたいにカレーをほおばりだす。そうは言いつつ、スマホを手放せないのが現代人の背負う業である。

 幸せだ。いろいろあるが、友人とランチをともにしている風景に顔がほころぶ。

 そして怪異を倒すことは、きっと誰かのこんな日常を守ることにつながっているはずだ。凡庸な人間である私にそんな機会が与えられている。それだけで今は十分だった。

 と、何かを見つけたのか、小花さんはばっと顔を上げた。


「むぐむぐ、きおうおきいうきへへうお!」

「おう、飲み込んでから話せ」


 しばらく咀嚼して飲み込んだ彼女は言う。


「昨日の切り抜き出てる!」

「ほー見てやるよ。粗探しして難癖付けてやる」

「ち、ちょっと待って、あとでもいいんじゃない? ほら早く食べないと次の講義が」

「じゃあ再生するよー」

「まって心の準備が……」


 ノリノリの二人に私の言葉が聞き入れられることはなかった。

 そのままひびの入ったスマホの画面で切り抜き上映会が始まった。そこには映るのは、鬼気迫る表情でもったいないお化けと切り結ぶ自分、マシンガンのように亜音速で放たれるごみの残骸をすべて叩き落す自分、くっさいセリフを放つ自分、そして必殺技を放ち、かっこつけたポーズで技名を口にする自分――


「……ッ、うっ!!!」


 私は吐血した。いや正確には唇をかみ切った。

 これにより公衆の面前で発狂してのたうち回りながら喚き散らすことをかろうじて防ぐ。だって、ほら、こんなの黒歴史じゃないの。


「やっぱ氷室たんかわいいうえにかっこいいなぁ一生推せる……」

「チッ、最近動画編集の腕上げたな。カメラの切り替えもつなぎ方もうまくなりやがって。火翅のくせにむかつくな。……ってどうした朝比奈! 口から血が垂れてる! だ、大丈夫か……?」

「……ふふ、ふ、ふふふふふ、これくらい平気よ、ええ。ちょっと唇を噛んでしまっただけだから」

「血が垂れてくるほどかそれ!?」

「わわ! ひなりん、予想以上の一撃に必死で耐えてる人みたいになってるよ!」

「……とりあえずいったんこれで拭いときな?」

「ええ、ありがとう……」


 なんなんだろう。テレビの中で熱血の魔法少女が啖呵を切っているのは純粋にかっこいいと思えるのに、いざ現実でいい大人が同じようなことをしていると考えると本当にもう痛すぎて血反吐吐けるこの現象。

 これを割り切れない私は良くも悪くも普通で、凡庸で。やっぱり配信に向いていないのだろう。前の事務所でもそうだったし。

 篠沢さんから受け取ったティッシュで口元をぬぐいつつ、そんなことをぼんやりと考えるお昼休みだった。

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