天狗の正体
真相が判ったと言った彼女の力強い視線と自信に満ち溢れた表情は、彼を信頼させるのに充分だった。今や、名前も素性も良く知らない彼女の方が、顔馴染みになった村人の誰よりも信用しているとは、なんと皮肉なことだろうか。天宮に言われ、村を駆けまわって関係者に声を掛けていく中、空須は冷笑を浮かべるしかなかった。
呼び出した彼らが神社の境内に顔を揃えた頃、本殿の陰から天宮が姿を現した。空須が走り回っている間に、そこで何やら準備をしていたらしい。
「本当なのか、事件の真相がわかったって」
半信半疑の飛が尋ねる。明言したのは彼だけだが、その疑念は彼だけのものではなく、この場にいた全員が共有しているらしい。各々ひそひそと耳打ちしあったり、目配せしている。
しかし天宮は、そんな疑惑を一笑に付した。
「ええ、勿論――」
場の雰囲気が一気にざわついた。それを無視して、彼女は続ける。
「今回の事件の大きな問題は、完全な密室の祠の中で被害者が発見されたということ」
「そうですよ。色々検討しましたけど、その方法が判らなかったから困ってるんです」
思いついたものは片っ端から挙げていったが、そのすべてが不可能だというどん詰まりに陥ったのだ。ここからこの謎を一挙に解決する推理など、空須には到底あるとは思えない。
「ええ、私にもついさっきまで判らなかったけど、空須くんが嵌ったある物のおかげで気付いたの」
「ガキが掘ったっていう落とし穴か。それが一体――」
飛は天宮を訝って眉を顰めた。
「まさか、祠の中に穴があったとは言わないよな? その件は無理だってことになっただろう。現場の地面は固すぎて掘るのに時間がかかるし、痕跡もなかったってな」
「その通り。落とし穴がそのまま今回の事件に関係があるわけじゃないの。重要なのはその仕組みのほう」
はあ、とそこまで言われても未だに要領を得られないでいる面々は口々に微妙な相槌を打つばかりである。
「落とし穴っていうのは、丁度空須くんが気付かなかったように、掘った穴の上に仮初の地面を作るよね。ネットや枝葉を重ねて置いて土を被せることで。穴を隠す偽りの地面――この発想が重要なの」
「それを今回の事件に当てはめると……。つまり天宮さんが言いたいのは、現場の祠の壁には最初から穴――人間の通れる出入口があって、それを偽の壁で隠していたってこと……ですか?」
空須はたどたどしくも、一つ一つ筋道を立てた。それに天宮が同調する。
しかし、それでもこの場にいる殆どの人間の腑には落ちない。自分で言った空須もそうだが、飛もそのうちの一人だった。
「だがなぁ、偽の壁っつったって、そんなのすぐわかるだろう。出入口のある壁の上にさらにもう一枚壁を貼り付けたりなんかしたら、その面だけ不自然に厚くなっちまう。かと言って、壁紙を貼っただけじゃ近くで見たり触ったりしたらすぐそれとわかる。事件が起こる前に俺はあの祠を調べたが、そんなものはなかった」
「それは私たちも同じ。ね、空須さん」
「え、あ、はい」
名神の死体が発見される前日に、空須たちは現場の祠を訪れている。その時に一通り見て回ったが、特におかしな点はなかったはずだ。
「確かにそれだけの部分的な仕掛けだと、他との違いで違和感を抱かれてしまう。でも、私たちが見ていた祠そのものが、まがい物だとしたら?」
祠そのものがまがい物――?
空須の脳裏には真縁の説が想起された。もう一つ別の祠があって、それを元々あった祠と勘違いしていたという、あれだ。彼の説を間違いだと否定したのは、誰あろう天宮自身だったはずではないか。
「そう。でも振り返ってみれば、真縁さんの言っていたトリックが一番この事件の真相に近かったの。現場には偽物の祠があった。ただし――それは出入口のある本物の祠よりも一回りだけ大きく、本物の祠に覆い被さるようにしてあった。それなら、出入口の部分だけを隠すことによる違和感はなくなる」
俄かに周囲が騒々しくなった。
「つまり、あの祠は二重構造になっていた、というわけ」
空須の頭に鈍器で殴られたようなショックが走る。無理もない。トリックの肝は、ずっと彼の眼前にあったのだから。
空須たちが前日に見たあの祠は、犯人が作った偽物だったのだ。
一体、いつの間にそんな仕掛けが――?
いや、村人はあの祠に滅多に近寄らない。誰にだって仕掛けられるし、そんなことをされても、誰も気づかなかっただろう。
毎朝やってくる明松にしたって、鎧戸から供え物を供えていくだけ。いつも仔細に祠を確認するわけでもあるまい。
空須は内心でそう納得する。補足するように天宮が明松を示した。
「お婆ちゃんが言っていたように、内側に隠された元の祠には出入りするための扉があったはず。ただ、被害者を祠の中に監禁するために、犯人が扉のない偽の祠をその上から被せてしまった。万が一にも、誰かが中に入り込まないようにね。人間の記憶なんて曖昧だし、村人は殆どあの祠には近づかなかった。だから最初からそんな扉なんてなかったと、みんな思い込んでしまったというわけ」
「だがそれでは、壁に穴を開けて中に入った時に気付くんじゃあないかね。本物の祠には出入口があるのだろう?」
白峯住職が疑問を呈した。花田兄弟が電動のこぎりで開けた穴から空須も祠の中に入って確認したのだ。間違いない。あの時、人の出入りできるような出入口はどこにもなかった。
しかし、いとも簡単に彼女はその突破口を披露した。
「彼女を祠の中に監禁していた犯人は、内側の祠の扉がある部分の壁を狙って穴を開けたの。扉ごとくり抜いてしまうように、ね。傍から見れば、一枚の壁の一部を切り取っただけに見えるけど、本当は内側の祠の壁も一緒に切断し、外側の壁と重ねたまま、取り外したのよ。そうよね――花田嘉一、嘉二さん」
彼女の言う通りなら、必然的に壁に穴を開けたこの二人が犯人になる。いや、それ以外に考えられない。
彼らの隣にいた村人が、僅かに距離を空けた。しかし、槍玉に挙げられた彼らは澄ました表情を崩さない。
「ちょっと待ってくださいや、探偵さん」
「そ、そうそう、ちょっと待ってくださいや」
「あんたの言う方法だと、扉のついた内側の壁がどこからか見つからないとおかしいだろう」
「そうそう、確か壁に穴を開けた後で、そこの空須さんが祠の周りを調べていたはずだが、その時に君は切り取った壁を触っていただろう。壁が二枚重なってあったというのなら、気付くんじゃないかな」
嘉一と嘉二が交互に反論を続ける。
空須は死体発見当時の状況を思い出していた。
祠の外を通り過ぎた影を追いかけ、彼は外に出て祠のぐるりを見て回った。その時、壁に立てかけられていた、切り離された壁の一部に脚をぶつけ、倒しそうになったのだ。
「ええ、間違いなく、壁は一枚だけでした。扉のついた壁なんてありませんでしたよ」
空須は力強く頷いた。その記憶にはそれだけの自信があった。
「そうだろう。切り取った壁は死体よりもよっぽど嵩張ってよっぽど重い。それを茂みまで隠しに行くとなると時間がかかってしまうはずだ。あの時、全員が祠の中に入ってから、俺たちが祠の中に足を踏み入れるまで、大した時間はかからなかっただろう。違うか」
「そうそう、違うか」
「いえ、その通りです。確か、僕らが死体を担いで茂みと祠とを往復する実験をしたとき、少なくとも二十秒はかかるという結論になったはずです。僕が祠に入ってから花田さんたちが入ってくるまで、恐らく十秒程度だったと思います」
空須がそう補足する。これは天宮や飛も立ち会っている実験だ。彼らもそれに対して文句を付けようとはしていない。
それをいいことに、花田兄弟はさらに二の矢三の矢を放つ。
「仮に茂みまで運べたとしても、後で調べたら見つかるはずだろう。壁の焼け跡が茂みの中から。祠から離れた場所でそんなものが見つかったら、不自然極まりないはずだ」
「それだけじゃねえ。死体を運び出した後、すぐに警察が詳しく現場検証をしていたら、祠が二重になってるなんて小細工、すぐに気付かれちまう。たまたま空須さんがそこの探偵さんを呼びに行ったり、飯縄さんや彦山さんが気分を悪くしたから少し待つことになったっていう偶然の産物で、気付かれずに済んだだけのこと。まさか俺たちがそんな偶然を引き起こしたとでも?」
一通り彼らの言い分を黙って聞いていた天宮だったが、反撃の残弾が尽きたその時、電光石火のごとくその弾を斬り返した。
「まさしくそうした点が問題だったの。ただ、それを克服する方法が、たった一つだけ存在する」
そう言うと彼女は神社の真裏に向かった。焼け跡から少し離れたところに、いつの間にかピラミッドのような形状をした小さなテントが張られている。彼女はその布の一部を鋏で円形に切り離し、穴を空けた。切り取られた布は一見一枚のように見えたが、彼女の手の中でそれは二枚に分裂――重なっていた布が剥がれたのである。
「あなたたちは全員が祠の中に入った後で、内側の扉を偽の祠に括り付けた。そして、こうやって偽の祠ごと扉を消し去ったのよ」
そのうちの一枚をテントに貼り付けると、彼女は焼け落ちた御神木から垂れている紐を引っ張った。紐は御神木の枝の上を通ってテントの頂点に繋がっている。当然、紐が引っ張られると、テントは上方へと浮かび上がっていく。
そしてその下から、内側に隠れていたもう一つのテントが姿を現した。
その光景を見て、鈍い空須にもはたと閃くものがあった。
「まさか、僕が見た、祠の外を通り過ぎる影って――」
「そのまさかよ。持ち上げられた外側の祠が、内側の祠の鎧戸の前を通り過ぎた影」
「イシクラゲを祠の周りに撒いたのは、天狗の仕業に見せかけて捜査を撹乱するためだけじゃなく、現場に居合わせた人間の視線をそこに集中させるためか」
興奮した飛が口から唾を飛ばす勢いで捲し立てた。
「視点が上に向いてしまうと、御神木の枝葉に紛れるとはいえ、宙ぶらりんになった祠を見つけられちまうかもしれねえからな」
「そう。後から現場を燃やしたのも、宙に消えた偽の祠を焼き落とすため。そのまま放置していたら、いずれ大勢の野次馬が現場に押し寄せることになる。それだけいれば誰か一人くらい、ぶら下がった祠の存在に気付くかもしれない。それを避けるためにね。死体発見直後にすぐ祠を燃やさなかったのは、祠の中から見ても完全な密室だったことを警察に確認させ、人智を超えた者の仕業であるかのように偽装し、捜査を惑わそうという企みもあるけど、勿論それだけじゃない。警察が最初に死体を発見した後にすぐ現場を燃やしてしまったら、自分たちが祠での騒ぎを知った直後に炎上したことになる。そうなると、自分たちに余計な疑いがかかるかもしれなかった。それを嫌って、燃やすのは出来るだけ先延ばしにしたのね」
「ちょっと待ってくださいよ」
うんざりしたように花田嘉一が彼女を遮った。
「あんたが示したのは軽い布を持ち上げただけだろうが。実際には木で造られた祠を持ち上げなきゃならねえ。いくら俺たちが二人いるからって、あの大きさの建築物を持ち上げるなんて、どだい無理ってもんだろう」
彼は鼻で笑ってその先を続ける。
「まさか実はあんたの言う外側の祠がハリボテで、発砲スチロールか何かで出来ていたなんて言わないよな。そんなの、それこそ事前に調べられたときにわかっちまうし、焼け跡を調べられてもバレちまうからな」
「勿論、外側の祠は間違いなく木製だったわ。ただ、あなたたちは私と違って、使える道具があるじゃない」
なんだと、と迫ろうとした花田兄弟の額には脂汗が滲んでいるように、空須の目に映った。それはこの九月の残暑だけが原因ではないのだろう。
それとは対照的に惚けたように涼し気な表情の天宮は、目の上に掌を翳し、遠くを眺めるポーズをして見せた。
「丁度、この森の奥ですよね。あなたたちの畑があるのは」
ぎくり、という擬音が聞こえてきそうなほど、彼らの身体は唐突に強張った。さあっと潮が引くように口籠り、逆に瞳は大山鳴動し始める。
一体どうしたというのだろうと首を捻る空須に、天宮が助け船を出してくれた。
「空須さん、この辺の農家でよく使われる、重いものを運ぶものってなんでしたっけ?」
「そうか、農業用のモノレールですね!」
空須はポンと手を打った。
「あらかじめロープをモノレールに結わえ付けておいて、それを木の枝を通して御神木まで引っ張ってくる。そのロープを祠に繋げば、巨大な滑車の出来上がりってことですね」
「そういうこと。後はスイッチを押すだけでモノレールが動き、祠が持ち上がる。その音は真夏の雷鳴でかき消されるし、内側の祠にぶつかったとしても、取り外した壁が倒れた音だと言えば誤魔化せる」
空須の脳裏に、花田兄弟が倒した壁を立てかけ直した一連のシーンが思い起こされた。あの時、すでに全員が祠の中に入っていたから、彼らが本当に扉を倒してしまっただけなのかどうか、誰も目撃していない。
テントを下ろした彼女は、結んでいた紐をほどいて、それを御神木の枝に巻きつけた。
「事前に張り巡らせたロープはこうして固定しておいて、祠に結び付ければすぐに仕掛けを動作できる状態にしておけば、大した時間はかからないはずだしね。燃えカスからロープや縄が見つかったとしても、御神木の注連縄が燃えたものと納得させることが出来るし」
もはや先程までの彼らの勢いは皆無だった。押し黙った花田兄弟は、俯いたまま顔を上げようとしない。
「良く調べれば痕跡は残っているはずだな。この先の森の木の枝に、ロープで擦った痕が付いているだろうから、それを辿ればあんたがたの畑に導いてくれるだろうよ」
飛が駄目押しの一言で締める。現に、空須もその痕跡を目撃していた。天狗の八艘飛びの痕跡――。まさしくそれが、祠の密室を破る鍵の一つだったのである。
真縁が彼らを拘束しようと動き出した、その時だった。
弾かれたように二人が同時に走り出したのだ。神社の裏手の森へと一目散に向かう嘉一の前には飛が、嘉二の前には天宮がいた。圧倒的に体格で勝る嘉一たちは、蟻を踏み潰す象のごとく、お構いなしに彼らに向かって突進する。
「くそったれがあっ!」
咆哮が森の中を駆けた。留まっていたカラスが驚き、悲鳴を上げて空へと散っていく。
助けようと駆け寄る空須の鼓膜を鈍い衝撃音が揺さぶった。
だがそれは、飛が弾き飛ばされた音でも、天宮が押し倒された音でもなかった。
むしろその逆――空中を半回転した嘉一は気が付けば地面に投げ飛ばされ、その首筋に飛の万年筆がナイフのように向けられていた。万年筆のペン先はぼろぼろにひしゃげて、黒ずんだインクのようなそれにはどこか赤みがかった鈍い色が見え隠れしていた。
「ったく、大人しくしとけよ。ペンは剣よりも強し、だからな」
そして嘉二の方はと言うと、天宮のハンドバッグの一撃を腰に食らって跳ね飛ばされ、地面の上をもんどりうって悶絶していた。
*
真縁と空須が花田兄弟に手錠をかけていると、天宮はハンドバッグをひっくり返して中身を捨て始めた。
一体いつ詰めていたのか、バッグからは大小さまざまな石がごろごろと転がり出てきている。それを見て流石の飛も苦笑を浮かべるしかない。
「おいおい、こんなものでぶん殴ったら、下手すりゃ死ぬぞ」
「そっちだって、商売道具を武器に使うなんてどうかと思うけど?」
「阿呆か、今時こんな万年筆を仕事に使う記者なんざいねえよ。これだけありゃあ充分だ」
飛は懐からスマホを取り出して見せた。
思えば、彼が手にしている万年筆でものを書いているところを、空須は一度も見ていなかった。
「それより、そっちはもう少し加減をしろ、加減を」
「これでもだいぶ加減したほうよ。まー、女の子相手に非道な真似をした連中になら、このくらいはいいかなって」
舌をペロッと出しておちゃらけた風の彼女であるが、相当頭には来ていたようだ。
「その気持ちもわからんじゃないがな。散々暴行した挙句、殺しちまったんだからよ……」
そう言いつつ、真縁がおら立て、と座り込んだ嘉一を無理矢理引っ張り上げる。ところが駐在所へと連行しようとした矢先、手錠をかけられた彼らが再度取り乱した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。殺しは俺たちじゃない」
「そ、そうそう、殺しは違う」
「おいおい、今更そんな言い逃れ通用すると思うか?」
「てめえらみてえな村の面汚しの言うことなんか誰が聞くか!」
「そうだ、ふざけんじゃねえ!」
彼らの言葉に耳を貸そうとする人間など、いるはずもなかった。
空須も犯罪者がよくやる悪あがきと決めつけ、彼らを引っ張ろうとしたのだが、それを制したのは彼らを犯人だと言った天宮だった。
「ちょっと落ち着いてよ。彼らの言う通りなんだってば。殺したのは別の人」
珍しく声を張った彼女に気を取られ、血走った怒りの形相で花田兄弟を取り囲んでいた村人も一瞬沈黙する。その隙を突いて、天宮は切り出した。
「彼らはあくまで、被害者を祠に監禁していただけ。それについてはてっきりみんなもう判ってると思ってたから説明しなかったんだけど……」
場がどよめく。
当然だ。犯人は花田兄弟。密室トリックの謎も解けて一件落着。
そのはずだったのに、別の人間が犯人だなんて。
殺人犯を捕まえたという安堵が蜃気楼のように霧散する。
「ちょっと、一体どういうことなんですか?」
空須は彼女を詰問した。しかし、彼女はあっけらかんとして、まるで当たり前のように言い放った。
「だってそうでしょ。彼らが殺したんだとしたら、どうして死体を祠の中に放置したの? 彼らはいくらでも自由に祠の中に出入りすることができたんだから、死体を運び出して山に埋めてしまったほうがよっぽどバレにくいじゃない。密室殺人で天狗の仕業に見せかけるなんてことをするより、全然リスクが少ないでしょう?」
言われてみれば確かにそうだ、と空須も納得せざるを得ない。
天狗の仕業だなんて、村の人間はともかく、応援に来るであろう県警までをも騙しとおせるわけもない。捜査を長引かせ、現場を混乱させるのが関の山。犯罪者の心理としては、事件を発覚させないようにするのが最も合理的だ。
「つまり、この仕掛けを知らず、祠の中から被害者を運び出すことが出来なかった人物こそが犯人というわけ。殺すだけなら、鎧戸から腕を伸ばせば短刀を刺すだけで誰にでもできる。ただ、そこに殺人の動機を加味すれば、自ずと犯人は絞られる」
「動機――?」
空須はこれまで、殺人の動機は行き過ぎた性的暴行が原因の事故のようなものと思っていた。それ以外にどんなものがあるというのだろうか。
「普通、出入口のない祠の中に閉じ込められている人を見つけたら、彦山さんの息子さんのように、助けようと思うものでしょう。ところが犯人はそうしないで、殺そうと思った。なぜならそれは――」
天宮の言葉を聞き、彼女が結論を明言する前に空須の頭に雷のような閃光が迸った。
まさか――。
「村の伝説である天狗を神様として信奉し、祠に入り込んだ彼女を盗賊と見做して断罪しようとしていた明松のお婆ちゃん、ただ一人しかいないの」
「そんな――そんな莫迦な」
「明松のお婆ちゃんが……」
花田兄弟が犯人と言われたときには淡々としていた真縁でさえも愕然としている。
「それを裏付ける不自然な点がいくつかあったわ」
天宮は人差し指を立てた。
「彼女は村に起こった厄災は天狗様の罰だと言い続けていたけど、祠に入り込んだ被害者が死んだことに対しては、祠を穢した罰が下ったとしか言わなかった。誰が罰を下したのかを明言しなかったのは、恐らく自分の犯罪行為を天狗様に擦り付ける真似が出来なかったから。それにもう一つ」
と続けて中指を立てる。
「彼女は毎朝祠にお供え物をしに向かっているのに、死体を発見して駐在所に来た時は何も手にしていなかった」
今朝のことを空須は思い返した。駐在所の扉を開けたとき、明松は両手で扉を叩いていて、思わずその勢いのまま殴られそうになったのだ。そう、確かに彼女は空手だった。
「かと言って、祠にお供え物を置いていったのかと言うと、これは現場の写真から明らかだけど、供えられたものは昨日のままだった。じゃあ、彼女が持って行ったはずのお供え物はどこに消えたのか。答えは一つ。彼女は被害者を殺害した後、すぐに駐在所に向かわず、返り血を浴びた服や凶器を隠すために、一度家に帰った。その時にお供え物も家に置いていったのよ。死体は鎧戸を開けたら目の前に現れる。そんな状況でお供え物を置いていくなんて、不自然すぎるものね」
「それだけじゃないわ」
呟くような嗄れた声が下方から発せられた。その視線の先には、背を丸めた老婆が、観念した表情で佇んでいる。
「あの女子の不潔な血が付いた物を、天狗様にお供えすることなんぞできなかったからのう」
「それじゃあ本当にお婆ちゃんが……」
「ああ、あの朝、鎧戸を開けたときにあの女子がいきなり儂の前に現れおったんじゃ。天狗様の祠に何たる無礼なと、カッとなってなあ。懐の守り刀を取り出して、気付いたら刺してしまっていた……」
空須はしかし喉に引っかかった疑問の骨を抜くことができない。
「でも、明松さんは毎朝鎧戸を開けてお供え物をしていたわけですよね。それなのにどうして名神さんはその日だけ、彼女の前に姿を現したんでしょうか。助けを求めるつもりなら、もっと早くにできたはずなのに」
「恐らく、花田さんたちが釘を刺していたんでしょう」
彼の疑問に答えを示したのは天宮だった。
「毎朝自分の仲間が食べ物を置きに来ると言って。そうすれば彼女が明松のお婆ちゃんに助けを求めることはなくなる。そしてその日に彼女が顔を出したのは、前日の夕方にあった彦山豊さんの一件があったからじゃないかな」
村人の中に紛れていた当の本人は、急に名前が上がって、きょとんとした顔で自分を指さしている。
「彼女は携帯を取り上げられていた。時計もつけていなかったから、暗い祠の中では時間感覚は完全に麻痺していたはず。そんな状況で助けに来るという彼の言葉は、まさに一条の光に違いなかった。今か今かと助けを待ち望み、鎧戸が開かれたときに、喜び勇んで顔を出してしまった……。と、こんなところじゃないかしら」
天宮の言葉を聞くうち、見る見る間に彦山豊の顔から血の気が引いていく。
「それじゃあ……それじゃあ、僕が、僕があんなことを言い出さなければ、彼女は……彼女は……」
彼の口からは、最後には声にならない嗚咽だけが漏れ、暗い神社の裏により一層の悲惨な影を落としていた。
*
花田兄弟と明松は翌日応援に乗り込んできた県警に身柄を引き渡され、パトカーで村を後にすることになった。
自分が名神を殺したことも棚に上げ、明松は最後まで花田兄弟と村の人間を非難していた。彼らは忌々しい自分の罪を天狗様に擦り付け続けていた。その報いを受ける時がいつか必ず来る。天狗様はこの山に居て、私たちを見張っているのだ。と、そう繰り返していた。
翌年の四月、空須には辞令が下り、晴れて都内の交番勤務を担当することになった。この事件が空須の心にどろどろもやもやとした灰色の傷を付けたのは言うまでもない。努めて彼はこれまでと同じように村人と接しようとした。だが、その傷はいつでも痛みをぶり返し、誰と何をしていても、その表情の内奥を透かしてみようとしてしまい、疑心暗鬼に陥ってしまっていた。
先輩の真縁の前でさえも、真に心を開くことはできなくなった。内心、早くこの村を出ていきたいと思っていたところでのこの辞令は、彼にとってはまさしく渡りに船であった。村を出立する日には、真縁や村の人々からは寂しくなるとか何とか言われたものの、それは虚空を飛び交うだけで、彼の心に届くことはなかった。
「やっ、どーよ。最近の調子は?」
そんな中でも、天宮とは連絡を取り続けていた。
「ぼちぼち……ですかね。ようやく元の都会的な生活に身体が慣れてきたって感じで」
主に彼女が解決した事件の話を聞いたり、空須が担当している事件の捜査を手伝ってもらったりという関係で、天宮が偽名と分かっても彼は彼女をその名前で呼び続けた。彼女の探偵としての技量や能力。それを知っている彼にとっては、彼女の本名や素性などどうでも良かったのである。
「ところで聞いた? あの事件があった小鳥村で――」
「いや、ごめん。出来ればあの村のことは思い出したくないんだ」
「そっか。じゃあ、この間あった事件のこと、聞かせてあげようか?……」
*
「あれからもう一年か……。早いものだな」
小鳥神社の裏に植えられた新しい銀杏の樹の下で、真縁は両手を合わせた。
その木の根には石碑が置かれている。一年前の事件の被害者、名神更紗を追悼するために造られたものだ。
「空須くんは元気にやっているだろうか」
真縁の方も例の事件を契機に、彼との間がぎくしゃくしていたことには気付いていた。警察学校を卒業したばかりの彼は、犯罪者を捕まえたいという正義感に溢れた、自分にとっては眩しすぎるほどの若者だった。その輝きが光沢を失い、自分のようになってしまう前にこの村を離れることができたのは、彼にとっては幸せなことだろう、と真縁は思う。
かつて――、彼もまた小鳥村の忌まわしい風習を知り、それを咎めて逮捕に踏み切ろうと躍起になっていた時分があった。
だが、そんな彼を待っていたのは陰湿な嫌がらせだった。窓から投げ込まれる石。雑用の押し付け。挨拶や声かけの無視。挙句の果てには住処でもある駐在所への不審火。
彼は自分の精神の安寧のために、見て見ぬふりをすることにした。
本当は自分しか助けられる人間がいないということを知りながら、被害者を見なかったことにした。他の村人と同じように、天狗の仕業なのだと、自己暗示をかけるように言い聞かせた。
だが忘れよう忘れようとしても、その罪悪感は膨れていく一方だった。だからこそ、被害者が死亡してしまうという結末にはなったものの、今回の事件で首謀者の一部の逮捕に至ったのは、ある種彼にとっても救われる思いだった。
これまであの兄弟に酷い目に遭わされた娘たちが、少しでも報われるのではないかと。
「本当にすまなかった……」
もう一度両手を合わせて深々と頭を下げた真縁は、ほうと溜息を吐いた。
何気なく顔を空へと向ける。燃えてしまった御神木の周りはまだ成長途中の背の低い木ばかりだが、その奥に目を遣ると、鬱蒼とした森が広がっている。
ん――?
深緑の葉をみっしりと蓄えた枝の上。今そこに何か見えたような――?
老眼の目を細めて、どうにかしてピントを合わせようとする真縁。
あれは鳥――、いや、人……?
そう思った刹那、その影は彼の許へ一目散に近付いてきた。逃げる間も声を上げる余裕もそこにはなかった。
あっと口を開きかけた次の瞬間、神社の裏には誰の姿もなくなっていた。本当に誰の姿も。
暑苦しい蝉の鳴き声だけが、延々とその場を支配し続けるばかりだった。
*
その日の夕刻、小鳥村で民家十数軒が焼ける大火事があり、三十数名の死者と十数名の重軽傷者を出したこの事件は、数日の間ニュースを騒がせた。ところが原因は不明のまま。生き残った村人の中には、燃え盛る村の上空を舞う鳥のような人間のような影を見たというが、その真偽も定かではない。