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天狗の人殺し

 その日の早朝、まだ陽も昇る前に駐在所の扉が騒々しく叩かれて、空須は覚醒する羽目になった。

 寝る前に被っていたはずの布団は、寝苦しさですっかり剥がれ落ち、部屋の隅の方で丸まっている。未明だというのに既にもわもわと空気は熱っぽい。重い瞼が重力に負けそうになるところを、再度扉を叩く音で阻害される。これでもかと顔を顰め、寝ぼけ眼を擦りながら、彼は重い身体を持ち上げた。


「はい――」


 寝ている間に体中の水分が汗として排出されたらしく、乾いた喉からはがらがら声しか出てこない。咳払いして喉に引っかかった言葉を吐き出す。


「はいはい、今行きますから」


 声のトーンからして、とんでもなく不機嫌であることはどんなに無神経な人間でも判っただろうが、扉の前で急き立てている訪問者には通じなかったようだ。返ってくるのは扉を叩く音と、くぐもった声だけ。

 寝間着姿のまま空須が鍵を開けると、奥の部屋から丁度先輩の真縁も起きてきた。


「どうかされましたか」


 気を抜くと倒れそうになるの堪えながら空須が尋ねたそこには、昨日の探偵が泊まっている民宿の明松という老婆が、憤慨した表情で立っていた。両手でバシバシと扉を叩いていたらしく、危うく空須もどつかれるところだった。


「どうしたもこうしたもないわ! 若い女子が天狗様の祠を穢しとるんじゃ」

「はあ……」


 彼女は天狗を信奉するあまり、度々祠や御神木に不用意に近付いた人間を叱りつけることがある。天狗様の罰が下るぞとか、天狗様に連れていかれるぞとか、そんな脅し文句で。そのため、大抵の村人は彼女のことを疎んでいる節がある。

 空須もその一人だった。普通にしていれば人の良いお婆さんなのだが、天狗のことになると途端に大騒ぎする厄介者になるから面倒だ。つい先日も土砂崩れで畑や民家が埋もれる被害があったが、それもこれも村人がもっと天狗様を敬い、貢物をしないせいだと宣っていた。


「若い女性が祠の近くにいたってことですか?」


 空須の頭に天宮の顔が思い浮かぶ。腹の中で何を企んでいるかわからない彼女のことだ。自分を置いてしれっと色々と嗅ぎまわっているのだろう、と。

 しかし、その予想は彼女の予想外の言葉で裏切られることになる。


「違うわい! 近くにいるだけでわざわざ警察に頼み事なんかせん。あろうことか、あやつは天狗様の祠の中に忍び込んどるんじゃ。汚らわしい。早う中から引っ張り出しとくれ。多分……あれじゃ、ちょっと前にうちに泊まりに来た女子。あやつは天狗様のことを矢鱈と訊きまわっとったからの。天狗様の像でも盗もうとしとったに違いないわ」


 欠伸を出そうと大口を開けたまま、空須ははっとした。昨日のことが思い出されて、急に脳が活発に動き始める。白黒だった世界にようやく色が付いた。


「その女性って、もしかして名神更紗さんでは?」


 はあ? と耳を寄せて訊き返した老婆に、空須は同じ名前を叫んだ。すると老婆は皺だらけの手で空須を指さす。


「それじゃ、その女子じゃ。わかったら早よなんとかしておくれ」

「ちょ、ちょっと待ってください。彼女は祠の中にいる、と言いましたよね。祠の傍じゃなくて?」

「さっきからそう言っておるだろう。これだから若いもんは」


 しかし、昨日彼と天宮が確かめた通り、あの祠には腕が通る程度の鎧戸しかない。

 そんなところに一体どうやって忍び込むことができるというのか。

 空須が首を捻りながら、やはり老婆の勘違いだろうと思い直していると、見兼ねた真縁が彼を押しのけて老婆の前に歩み寄った。


「わかったわかった、私たちが確かめてくるから、明松のお婆ちゃんはここで座ってちょっと待っててよ、ね」


 真縁は奥の冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注いで出すと、明松を木製の椅子に座らせ、空須を引き連れて小鳥神社へと向かった。

 空はだいぶ白み始めている。懐中電灯無しでも充分に明るい。晴れてはいるが大気の状態は不安定なようで、雷が断続的に聞こえてきていた。赴任当初は雷の音がするたびにびくりと肩を竦ませていた空須だが、今や生活音の一つとして、全く意に介さなくなっていた。


「それにしても、本当でしょうか。祠の中に、その、名神って女性がいるって。あんなところに一体どうやって」

「明松のお婆ちゃんは天狗のことを妄信しているだけで、嘘は言わないよ。とにかく確認しに行くしかないだろう、見間違いならそれでいいが、そうじゃなかったら……」


 真縁は少し強張った表情で唾を飲み込んだ。

 そうじゃなかったら――、そのあとに続けようとしていた言葉は何だろうか。

 空須の頭にも、どことなく嫌な想像が浮かびあがってくる。

 四か月前に失踪したはずの彼女が、人間の入る隙間のない祠の中にいる。常識的に考えてそんなはずはない。見間違いに決まっている。

 しかし、こういう時ほど嫌な予感の方が的中するものだ。

 小鳥神社の祠まで辿り着いた彼らは、開いたままの鎧戸の中、天狗の木像の前に現れたそれを見た。

 暗がりの中、暖簾のように垂れた長い髪の隙間から、ぼんやりと浮かび上がった白い顔。四か月前は健康そうに丸みを帯びていた顔は血の気が失せ、頬はこけ、唇はかさかさにひび割れている。焦点を失った両の眼が、半眼開きのまま幽霊のように恨めし気に、覗き込む空須たちを見返していた。


 空須は数分の間、息を吸うことも忘れていた。

 警察学校で人間の死体は嫌と言うほど見た。最初のうちは吐きそうになっていたが、次第に死体は物だと割り切るようになり、卒業前には死体の写真を見ながら飯を食べ、同期と法医学の勉強をするようになっていた。この村に来てからも亡くなった老人の検視をすることだってあった。

 だが、これは、そうした死体や現場写真とは異質なオーラを放っていた。

 そもそも自身ではあまり気付いていなかったが、空須にとって彼女はただの顔見知りという範疇を超えていたのである。もし失踪した彼女が見つかったら、あんなことやこんなことを話してみたい。出来れば今度はちゃんと連絡先を交換して、天狗伝説なんかではなく、もっと彼女自身のことを知りたい。そう思っていた。それは恋や一目惚れといった単純で平易な言葉で表現できるものではない。しかし少なくとも彼の中に、彼女に対する好意があったのは間違いなかった。

 そんな人間の変わり果てた姿を目にしてしまっただけでなく、どう入り込んだか、出入口はたった一つの小さな鎧戸だけの祠に、彼女はいたのである。

 天狗の存在などこれっぽっちも信じていなかった彼でさえも、この奇怪な状況に奇怪な妖怪の存在を感じざるを得なかった。


「――おい、おい」


 真縁に声をかけられていることで我に返ったが、空須には一体いつから呼びかけられているのかすら判然としなかった。

 いつの間にか真縁の手には携帯が握られている。横持ちで構えていたから、空須が呆けている間に現場を撮影したのだろう。


「ショックなのはわかるが、と、とにかく、まずは生死をはっきり確認しないと」


 警察官である以上、脈や呼吸、体温や瞳孔等を見て、生死を確認しなければならない。とても生きているようには見えないが、死亡している場合はさらに検視もしなくてはならない。いずれにしても祠の中に入らなければ、まともに調べることもできない状態だ。


「で、でも、どうするんです。この中じゃ入りようが――」

「とにかく、村の青年団のところ回って、壁を破る道具を借りてくるしかないな」


 真縁は立ち上がり、踵を返した。本殿の裏から側面に回り込み、前庭に向かう。


「だが、できるだけ静かに頼むぞ。こんなところで人が死んでるかもしれないなんてことが知れたら、村中大騒ぎになる」

「どうかされたんですかな」


 耳をすませている時に真横から良く通る胴間声がしたものだから、空須はすっかり肝を冷やし、文字通り飛び上がりそうになった。恐る恐る顔を向けたその先にいたのは、丸々と太った身体の上に、黒と金の派手な袈裟を纏い、すっかり着ぶくれした白峯住職だった。


「お、驚かさないでくださいよ。いつからそこにいたんですか」

「いつからも何も、あんたらがわしを無視して通り過ぎようとしたもんだから、声をかけたんじゃないか。あんたらこそ、こんな朝早くにこそこそと、悪巧みでもしてるんか。え?」


 愉し気に歯を見せて笑う住職だが、今の空須には汚らしいだけでなく、気味悪くも映った。


「わしも混ぜてくれんかねえ」

「そういうなら白峯さん、あなたにも手伝ってもらいましょうか。青年団の比良ひらさんところに行って、のこぎりとか槌とか斧とか、ここに持ってきてもらうように頼んでくれないですか」

「おいおい、何やら物騒だね。まさか祠を叩き壊すつもりじゃないだろうね。そんなことしたらあの婆さんが黙ってないだろう」

「とにかく、お願いします。私は飯縄いいづなさんのところに行くから、空須君は彦山ひこやまさんのところに」


 飯縄も彦山も、比良と同じく青年団の一員だ。いずれも四十代後半だが村の中では若者で、青年団の中でも力仕事をよく任されているメンバーである。

 空須たちが小鳥神社の石段を降りたところで、村の中心地方面とは逆の方向から、小麦色に焼けた体格のいい二人の男が寝ぼけ眼を擦りながらやってきた。


「どうかしたんですか、さっきからなんか騒がしくしてますけど」

「そうそう、騒がしいですよ」


 みかん農家を営んでいる花田嘉一はなだかいちとその弟、嘉二かじだ。都会の生活に嫌気がさし、のんびりとした生活を求めて十五年前にこの村に移住してきたのだという。

 彼らのやってきた道は、神社のある丘をぐるりと迂回するように続いている。その先に二人の住まいと畑がある。畑は丁度、神社の真裏、御神木のある森を抜けた斜面に広がっている。


「そんなに騒がしかったですかね」


 という空須に対して、真縁がやれやれと首を振った。


「あんな悲鳴をあげておいてよく言うよ」

「わしも朝の散歩でこの辺を通りかかってあんたの悲鳴を聞いたから、わざわざあんな寂れた神社に行ったんじゃが」


 と住職まで続いたものだから、空須はすっかりたじろいでしまった。

 自分では叫び声を上げたつもりなど毛頭なかったからだ。とはいえ、祠の中に彼女の顔を見つけてから少しの間、記憶が定かでないくらいにはショックを受けていたから、気付かぬうちに口から悲鳴が漏れていたのかもしれない。


「それはともかく丁度良かった」


 真縁は家も近い花田兄弟に祠の壁を破る道具を持ってきてもらうように頼んだ。その真剣な声色から冗談でも悪戯でもないと悟ったらしく、特段理由も聞かずに彼らは今しがたやってきた道を急いで引き返しに行った。

 残った空須たちは、そのまま青年団を呼びに向かった。道具は花田兄弟に任せたが、彼女を祠から運び出すとなると、それなりの人手がいると、真縁は判断したらしい。

 幸い、比良達三人の住む家は石橋を渡った先の十字路の近くにある。真縁、空須、住職の順で隊列を組んだ彼らは急いで青年団を呼びに向かった。

 しかし森の中を進んで暫くすると、空須は何やら違和感を覚えた。

 何かが足りない。どうにも静かすぎる。

 はたと立ち止まった空須に気付かず、真縁は先へ先へと進んでしまう。彼の背中がどんどん小さくなっていくのを見送りながら、空須は生唾を飲み込み、ようやくその違和感の正体に辿り着いた。

 背後から聞こえていた足音。それに息遣いがしないような――。

 空須は翻って後方を見る。

 そこには、殿しんがりを歩いていたはずの住職の肥えた姿はどこにもなく、ただ鳥の囀りだけがその場を支配しているのみ。そして森へと消えていく、頼りない細さの舗装路だけがあった。

 カッと強い光が周囲を一瞬照らし出す。濃淡のコントラストが強調された世界の中に、爆発音のような雷鳴が轟き渡ったその時、空須はその光の中に、羽を広げた大きな鳥のような、人間のような影を垣間見た――気がした。

 空須はぶるりと身を震わせた。じめっとした粘り気のある風が頬を撫ぜる。寒さどころかむしろ暑さすら感じる熱気を帯びた空気の中、背中に粟立つような感覚が広がっていく。

 空須は周囲をぐるりと見まわしたが、どこにも黒と金という目立つ格好をした彼の姿はない。

 慌てて前を行く真縁にそのことを伝え、彼らが二、三度大声で住職に呼びかけたものの、やはり返事はなかった。

 真縁はとにかく青年団に伝えるのが先だ、と前進を続けた。

 空須は森の静けさと何とも言えない薄気味の悪さに、殿を歩きたくなくて自然早足になる。

 住職は天狗の神隠しにあったのではないか。

 昨日までは莫迦げた民間伝承の一つだと一蹴していた彼だったが、今やその雰囲気に完全に吞まれていた。

 名神、住職――。そして次は自分がその憂き目にあうのではないか、と。

 森の中から誰かがこちらを見ているように感じられる。その視線から逃れるようにペースを速めた彼は、殆ど走り出しそうになっていた。

 やっとの思いで森を抜け切り、空須たちは比良達青年団三人の家を回り、何も知らずにぐうすかと眠り呆けていた彼らを叩き起こした。文句を連ねるばかりの彼らを強引に引っ張り、今来た道を戻る。

 流石に五人の大所帯で、空須の怯えも緩和されていた。彼らを呼びに向かっていた時は、まるで一時間の距離にさえ感じた道が、たったの数分で終わりを迎えたものだから、むしろ拍子抜けしてしまったほどだ。

 空須たちが小鳥神社の麓に辿り着くと、丁度反対方向から電動のこぎりを持った花田兄弟と鉢合わせた。

 その恰好を見て、引っ張られてきた青年団もようやく事態が深刻なものであると認識したらしい。愚痴を言い合うのを止めて神社の階段を上り始めた。

 祠に向かおうとしたその時、先頭を歩いていた空須は本殿の陰に何者かの姿を目撃した。


「誰だ!」


 声をかけると、その人物は慌てて身体を引っ込めてしまった。どうしたと騒いでいる真縁たちを尻目に、人影を追いかけた空須だったが、神社の前庭は結構な広さがあり、本殿の陰に入り込んだ時には既にその人物は影も形もなくなっていた。

 運の悪いことに、神社の周辺の地面は固く乾いており、足跡も認められなかった――が、その人物が落としたと思しき小刀が鞘に収まった状態で地面にぽつねんと取り残されていた。

 そこへようやく真縁たちが追いついて、空須たちはとにかく祠の壁を破ることに専念することにした。

 ――のだが、本殿の真裏に回り込んで、祠の前まで来ると、先程はなかったはずのその異様な光景を目にすることとなった。


 大量の”天狗の通り道”――イシクラゲが、祠の周りを取り囲むように広がっていたのだ。

 それはさながら黒い水たまりのように、差し込み始めた陽光を反射しててらてらと波打つように光っていた。

 雨が降ったわけでもなく、乾いた地面の上に唐突に広がったそれは、まさか本当に天狗がここへ降り立った跡ではないかと空須に錯覚させる。

 そんな中でも、流石に経験年数の長い真縁は比較的冷静さを保っていた。後輩の手前というのもあるのだろう。

 彼は言葉を失してしまった空須の代わりに、花田兄弟に祠の壁を破るように指示し、ぬめぬめとしたイシクラゲに注意を払いながら、祠に近付いた。

 電動のこぎりを手にしている花田兄弟も、真縁以上に慎重に足を運んで祠の側面に近付く。

 どろどろと尾を引く雷鳴が轟く中、スイッチを入れられ唸り声を上げたのこぎりの歯が、彼らの手で祠の壁に差し込まれる。雷鳴は唸り声に覆い被さってしまうほどだったが、歯の勢いまでも殺すことはできない。木屑を散らしながら、突き刺さった鋼鉄の回転刃は壁を切り裂く。あっという間にその歯は長方形の切れ目を壁に刻み込んだ。

 花田兄弟はスイッチを切ったのこぎりを地面に置き、隙間から手を差し入れて、切り離した壁をゆっくりと脇に移動させた。

 祠の中は暗闇だ。鎧戸と開いた壁から差し込んだ光も、奥に沈殿している影を取り払うことはできない。

 空須と真縁、そして青年団の三人が続いて中に入る。

 祠の中は意外にスペースがあった。天井は低いが、五人全員が余裕で中に入ることができる。

 祠の中心に台座の上に載せられた天狗の木像。その木像の手前、前日見たときには菓子や果物などの供え物が置かれていた台座に首を預けた状態で、正座した名神更紗の身体があった。

 ――と、その時ガタンと盛大な音が外から聞こえ、祠の壁を震わせた。


「すみません、立てかけておいた切り取った壁が倒れたんです」

「そうそう、すみませんすみません」

「もう元に戻しましたから」

「そうそう、戻しました戻しました」


 嘉一と嘉二の二人が祠の中に入ってきてそう言った。

 その時、祠の開いた鎧戸の前を何かが通り過ぎた。


「誰だ!」


 今度は逃がさない、と気張った空須が花田兄弟を押し退けて外に出たのだが、またしてもそこには誰の姿もなかった。急いで祠のぐるりを一周する。きょろきょろと辺りを見回しながら進んだが、どこにも他の人間の姿も気配もない。元の位置――花田兄弟によって開けられた壁の場所――まで戻ってきたのだが、視線を忙しなく右へ左へやっていたおかげで、立てかけてある切り離された壁の一部に膝をしこたまぶつけてしまった。悶絶しながらも危うく倒れそうになったそれを元に戻すと、丁度、祠の入口近くに近衛兵のごとく構えている花田兄弟の後ろから、青年団と真縁が名神の身体を抱えて現れた。彼らは彼女の身体を持ったまま祠の外へ出て、イシクラゲの溜まり場を超えたところにゆっくりと下ろした。

 日差しの差し込み始めた空の下での彼女の姿は、小さな鎧戸から覗き込んだ時よりもボロボロの様相だった。何日も同じ服を着ているのか、よれよれになったシャツとズボンにはところどころに妙な染みができ、土埃を纏っている。顔だけでなく半袖から覗いた腕も細くなっているようで、筋が浮かんで見えた。おまけに手足はロープで拘束されている。必死でもがいたらしく、縄の跡が手首や足首に痛々しく残っていた。

 正視に堪えないその姿に、空須の胸がどうしようもなく痛んだ。

 真縁が名神の脈や呼吸、瞳孔を確認する。


「どう……ですか」


 空須の声は力なかったが、それに同調するように、力なく真縁も首を振った。


「駄目だ。やはり亡くなっているよ。まだ身体は温かい。こと切れてからそれほど時間は経っていないはずだ。せいぜい三十分か一時間というところだろう」


 空須も確認したが、死後硬直もまだ始まっていないようだったが、足の脛のところには死斑ができていた。彼の見立ては間違っていないようだ。


「一体どうしてこんな……」


 項垂れる空須。周りの空気も重く、みな沈痛な表情を浮かべている。


「とにかく、県警に連絡して応援を呼ばないと」

「でも、現場を立ち入り禁止にして、保存しておかないといけないですよね」

「それもそうだな……」

「わかりました。それなら自分が駐在の電話で連絡を入れますので、真縁さんは現場の見張りをお願いします」


 空須は真縁の返事も待たずに立ち上がり、足早に神社を後にした。淀んだ空気の中にいたくなかった。ずきずき疼く胸の痛みを抑えたかったのだ。


 *


「それが発見の顛末ってわけね」


 明松の民宿から天宮を連れて小鳥神社に向かう道中、空須はこれまでのできごとをざっと彼女に話した。

 県警に応援の連絡を入れて一息吐いた時、ようやく天宮のことを思い出したのだ。名神の姿を祠で見つけてから、これまで矢継ぎ早に色々なことが起こって、とてもそれどころではなかったのである。


「とにかく急ぎましょう」


 彼女を引き連れて小鳥神社への道を進む。

 その最中――、空須の鼻腔をきな臭いにおいが刺激した。比喩的な意味でなく、文字通りのきな臭さである。

 風に乗って野焼きの煙が流れてくることは、小鳥村のような田舎では日常茶飯事と言っても良かった。

 だが、こんな朝早くに――?

 その疑念が頭を過ぎると、今度は比喩的なきな臭さが彼の鼻腔を刺激する。

 小鳥神社に近付くにつれ、その臭いは強くなった。そればかりか、風に乗って薄い黒煙が彼らに襲い掛かり、空中を火の粉がちらほらと舞ってさえいた。


「あれ、どうしたのかしら」


 天宮は神社の本殿がある丘の上を指し示した。黒煙と火の粉の発生源はそこだった。もくもくと立ち上るどす黒い煙の根元は、薄橙の光を放っている。

 そんな――。

 空須は駆け出していた。

 小鳥神社の階段を上り切ると、熱波が顔にしがみついてきた。本殿の背後、他の木々より頭一つ飛び出た御神木が、炎に包まれていたのである。

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