天狗の神隠し
二人は十字路に辿り着いた。
「村の中心地はこのまままっすぐ向こうです。まあ、中心地といっても小さい役場と集会所とあとは民家が数軒まとまっている程度なんですけどね」
空須は左手を指さした。舗装路は奥の方まで続いているのだが、両脇から伸びきった雑草が侵食していて、殆どその姿は見えない。その雑草の海の中に、筏のように民家の屋根がぽつぽつと浮かんでいる。
「あっちは廃墟ばかりです。元々は結構な人数の村人が住んでいたらしいんですが、高齢化の余波ってやつですね」
空須は右手を指さした。少し進んだところに苔むした短い石橋がある。その先は鬱蒼とした森。
「川を渡ってあっちのほうに小鳥神社と大山寺ですね。といっても神社の方はだいぶ前に神主が亡くなって、今は村の比較的若い人たちで定期的に手入れをしているくらいです。大山寺の方には白峯さんという住職が一人で住んでます。ちょっと見に行かれますか?」
「ええ、是非」
石橋を渡った先にある分岐を右に進むと大山寺。左に進むと小鳥神社だ。空須たちはまず大山寺の方に向かった。
森の中に入ると、殺人的な日光が遮られたおかげで一息つくことが出来た。といっても空須にとっては一息が精いっぱいである。
ひび割れたアスファルトの路面は濃い鼠色のままだ。日陰のおかげで、まだ乾ききっていないのだろう。そこからじわじわと水分が蒸発していて、まるで蒸し焼きにでもされている気分だ。近くにいるであろう蝉のうるささも、条件反射的に暑く感じさせる。結局、半袖から露になった肌を刺すような痛みが和らいだくらいで、雑巾を絞ったかのようにだらだらと垂れ流される汗に変わりはなかった。
雷鳴は断続的に聞こえているが、一向に雨の降る気配はなかった。
もう一度雨が降ってくれれば、この暑さも少しは和らぐだろうに。
曲がりくねった細い路面を道なりに進むと、木々の陰からようやく大山寺に繋がる長い石段が見えてきた。苔むした石段は百段ほど連なっており、見上げたその先に、黒ずんで朽ちかけた古刹の門が小さく見える。
「足元、気を付けてくださいね」
階段を上り始めた空須は背後を振り返り、天宮に声をかけた。
「あたしは大丈夫。それよりも貴方が――」
その瞬間、空須の視点がぐらっと上方に傾いた。ぬるぬるとした石段に足を取られ、体のバランスが崩れたのだ。
踏みとどまろうと気張ったが遅かった。傾きはさらに酷くなる。
やばい。景色がまるでスローモーションのように、空を覆った梢と木の葉を映し出す。だが、早くなっているのは彼の思考だけで、身体の動作は緩慢だ。金縛りにあったかのように、手も足も出ない。
死。という文字が脳裏を掠めたその時、空須の手首に引っ張られる感覚が伝った。
えっと思う間もなく、倒れかかった彼の身体は引き上げられていく。反対に彼の視点は下がり、天宮の表情が見えた。
目が合うと、彼女はにこりと微笑んだ。
「足元、気を付けてくださいね?」
引き上げられた空須の顔と、天宮の整った顔が拳一個ほどの間隔まで近付く。が、空須が体勢を整えたのを確認すると、彼女は掴んでいた手首を離し、何事もなかったかのように階段を上り始めた。
その背後で空須は茫然としていた。あれだけ染み出ていた汗も、今の一瞬で引っ込み、彼の肌は粟立ってすらいた。しかしそれとは逆に、空須の心臓は爆発せんばかりに熱く、激しく脈動していた。
その脈動が、空須に生を噛みしめさせてくれる。
自分よりも小柄で恐らくは年下の女性に助けられ、すっかり形無しとなった彼は、もはや目線を上げることすらなく、足元の石段だけを見ながら、とぼとぼと天宮の後をついていった。
石段の頂上にある山門は、下から見上げた時よりも余程立派な造りだが、余程腐食しているように見えた。
「大山寺」と達筆な書体で書かれた扁額は傾いて落ちそうだし、両脇にある恐らく阿吽像だったものらしき物体は、顔が摩耗してまるで誰だかわからない。罅だらけの門柱はところどころ、獣か何かに齧られたかの如く大きく削れていて、触れば倒壊しそうな危うさがある。
「無事、上り切れましたね」
「ええ、おかげさまで」
振り返った天宮の顔を、空須は恥ずかしさでまともに見返すことができなかった。
「あっちの方に住職の住まいがあります。特に用事がなければいるはずです。行ってみましょう」
これまた立派だが腐食しきっている廃墟にしか見えない本堂が、石畳の参道の向こうにある。その右側に、管理を怠った結果、伸びに伸びきって元の状態がどうだったのかもわからなくなった前栽――らしき緑の壁。住職がいるであろう庫裏はその壁の向こうにあった。
空須たちが前栽に近付いていくと、奥の方から徐々に二人の男の声が聞こえてきた。
一人は住職。毎日見回りに来た時に聞いている嗄れ声だから、空須にははっきりわかる。逆に、もう一人の声は聞き覚えのないものだった。底意地の悪そうな、どこか嘲笑的な笑みを含んだ声だ。
「なるほどねえ、天狗の通り道に……天狗の腰掛けですか。色々あるもんですねえ。天狗の逸話ってのが。この小鳥村には」
荒れ放題の前栽を潜り抜けると、庫裏の玄関の前で住職と見慣れない男が立ち話をしていた。
男は万年筆を回しながら、住職に他にも天狗に纏わる場所や事物がないか、下卑た半笑いで聞き出そうとしていた。一方、丸々と太った住職は老齢だが矍鑠としていて、相対した男とはまるで異なった朗々とした笑い声で応じている。
「若い人なのにこんな辺鄙なところにいる天狗が気になるなんて、あんたも変わってるなあ。他にもほれ、隣の小鳥神社のほうに、天狗の棲み処なんて言われてる、それはまあおーぉきな御神木があるね」
住職は身振り手振りで大きさを強調した。が、そのあとで神妙な顔つきになって、声を潜める。
「ただこの辺の人は、まあ滅多に寄り付かんね。あそこにいくと神隠しに遭う――ってのう」
「神隠し!」
その言葉を聞きつけた天宮が、「何だお前は」と眉を顰める男のことなど気にも留めずに彼らの間に割って入った。
住職の方は闖入者に驚く素振りも見せず、むしろ若い女性が現れたのが嬉しいのか、ご機嫌そうにすかすかの歯を見せて笑った。
「この辺じゃあ昔っからよくある話だけどもね。天狗は男を攫ってその肉を食うとか、女を攫って子どもを作るだとか。わしゃあ、あまり信じとらんが、まあ所謂、子どもを怖がらせるための訓話みたいなもんだろう」
「無事に帰ってきた方はいるんですか?」
「二、三日で戻ってくることもあれば、何年も経ってからひょっこり帰ってきたりすることもあるな。ただ、話を聞いても何にも覚えとりゃせんが」
「なるほど……」
天宮が何事か考え始めると、それを遮るように、すっかり蚊帳の外にされてしまった男が、彼女の肩を掴んだ。
「おい、こっちが先に話聞いてたんだぞ。誰だか知らねえが邪魔すんなよ」
「そんな口きいていいのかな。こっちには警察が付いているけど。名前を名乗るならまず自分から、じゃない?」
すっかり良いように使われてしまっている空須だが、助けてもらった恩もあるので強く出ることはできなかった。
男はその彼を一瞥すると、舌打ちをして面倒くさそうにくしゃくしゃの名刺を天宮に投げ飛ばした。
彼女の肩越しに空須が覗き込むと、そこには「週刊実存 記者 飛文也」とあった。
「飛文也さん、記者ですか」
記者になるべくして生まれたような名前だと空須が思っていると、
「文也だ。公僕が職業差別か?」
と飛は手にしている万年筆を空須に突き付ける。
「なんなら雑誌に書いてもいいんだぜ。小鳥村の駐在警官、善良な市民の仕事を妨害したうえ、暴力的な職業差別。腐敗しきった地方警察の実態。ってな具合でな。みんな国家権力の腐敗には目がねえからな、盛り上がると思うぜ。ペンは剣よりも強しってな」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。僕は妨害もしていないし、暴力なんてしていないじゃないですか」
「この女があんたの名前を出して邪魔したんだから、あんたが邪魔したようなもんだ。それに、職業差別は言葉の暴力ってのもあんだろ」
「その職業差別も、ただの名前の読み違いじゃないですか」
自分が原因で警察の面子を潰すような記事が出るような羽目になれば、この村から永遠に出られなくなるかもしれない。そればかりか下手すれば懲戒免職か――などと考えていると、空須はなんだか段々と不安に駆られ始めてきた。
そこへ、ポコンと間の抜けた音が響いてきて、危うく泣きそうになった彼の目から涙が引っ込んだ。
「それならあたしも、SNSに書いちゃおうかな」
天宮はスマートフォンを何やら弄っている。
「週刊実存の飛という記者が、第四の権力を濫用して女の子の失踪に関する調査を妨害しているってね」
彼女は投稿する直前の画面を飛に見せつけた。そこには先程撮った彼の顔写真も添付されている。
「これでもあたし、フォロワーは十万くらいいるから、方々に拡散されるんじゃないかな。もしかしたらそちらの雑誌よりも、読んでくれる方は多いかも」
画面を睨み付けていた飛だったが、
「なんだっけ……。そうそう、ペンは剣よりも強し、ですもんね」
自分の言葉が回りまわって返ってきたものだから、面白くなさそうに一際強く舌打ちをしたかと思うと、砂利を蹴散らして退散してしまった。
溜飲の下がる思いの空須は、もはや天宮に頭が上がらなかった。
「何度もすみません。助けていただいて……」
「困ったときはお互い様――でしょ? その代わり、ちゃんとあたしの捜査に協力してね」
ウインクを飛ばした彼女に、空須は頷くことしかできなかった。
そのあと、失踪した名神という女子大生の行方について白峯住職にも尋ねてみたが、知らぬ存ぜぬの一点張り。彼もまた空須と同じく、彼女が天狗伝説を詳しく調べに来ていたことくらいしか知らないようだった。
去り際に、また何かあったら何でも訊いてくれ、民宿もやってるから、泊まりたければ来なさいねと笑みを零していたが、そのにやついた視線は天宮の下半身の方に向けられていたように、空須には見えた。
「ありがとう。考えておきますね」
天宮はぺこりと頭を下げて辞去した。
この生臭坊主め、と心の中で悪態を吐きながら、空須は天宮とともに小鳥神社に向かった。
石段を降りながら、そういえば――、と彼女に尋ねる。
「今日は村に泊まるつもりなんですか?」
「ええ、そのつもり」
「それなら、少なくともこの大山寺は止めといたほうが良いかと……」
大山寺は一応宿泊客を受け付けていた。勿論、こんな辺鄙な村の辺鄙な古寺にわざわざ泊まりに来る客など皆無だから、基本的に一年中閑古鳥が鳴いている。白峯住職曰く、老人は死んでいくばかりだから寺の仕事にも金にも困ることはない。民宿はついでにやってるだけのもの、だそうだ。
だから大したおもてなしなどないし、客室は住職が寝泊りしている庫裏ではなく、本堂の奥にあるから雨漏りも酷いらしい。それだけでもお薦めなど出来ない場所だが、その上あの変態住職だ。とても女性一人で泊まらせるわけにはいかない、と空須は義憤に駆られていた。
当然、名神の時も同じ忠告を彼女にしていた。結果、村の中心地で明松という老婆がやっている、大山寺以外では唯一の民宿に彼女は宿泊していた。
同じように天宮にもそこを薦めようとしたが、
「大丈夫。もう他の民宿に泊まるって決めているから。そこのおばあちゃんにも連絡してあるし」
「ええ……?」
その民宿にはホームページなどない。特に宣伝もしていないから、この村まで来なければ、民宿があることなど知りようがない。一体いつ連絡を取ったのだろうか。
しかも、先程住職には考えておく、などととんでもなく自然に大嘘を吐いていたわけだ。
空須の頭に、彼女に対する疑念が擡げてくる。
考えてみれば、名神という女子大生が失踪したという件も、警察の方にはなんの連絡も来ていないわけだから、捜索願は出されていないのだろう。つまり、今のところ彼女がそう言っているだけに過ぎないのだ。
天宮は本当に彼女を捜しに来たのだろうか。
というもののやはり、二度も助けてもらった恩義がある。自分から係わっておいて、さらについさっき、捜査協力に肯定してしまったのだから、やっぱりやめますなどと今更言い出せなかった。
どうしようと優柔不断に考えているうち、彼は天宮と一緒に小鳥神社の袂まで来てしまっていた。歩いてきた舗装路は小鳥神社を通り過ぎ、農業を営んでいる数軒の民家の方へと続いている。神社へと続く道の入口には、古ぼけた鳥居が建っている。塗装は剥げあがり、点々と残っている薄い朱色が、かつては麗々しかったであろう姿の僅かばかりの名残となっていた。その鳥居を潜った先には、またしても忌々しい石段。大山寺ほどの長さではないが、それでも苔むした石段を見ると、先の一件を思い出して空須は動悸がする思いだった。
空須はまたしても足元にだけ意識を集中させ、神社の本殿を目指した。
そのおかげで今度は無様な姿を晒さずに、何事もなく頂上まで辿り着くことができた。神社の本殿は、年代を感じさせはするものの、大山寺ほど朽ち果てた印象はない。金をかけたくない生臭坊主が管理を放棄している寺と違って、こちらは神主がいないなりに村の若人が代わる代わるに手入れをしている。その差だろう。
本殿の真裏に、住職の言っていた御神木があった。注連縄の巻き付いた幹は周囲の他の木々と比べると、その五倍以上の太さがある。見上げてみると、その木は本殿の屋根を超え、天を貫く勢いで、周りの木よりも頭一つ飛び抜けていた。
御神木の根元には小さな祠がある。形状は立方体で簡素な造りだ。正面に腕が入る程度の鎧戸が一つついているだけで、その他に出入口はない。
住職や空須の先輩である真縁によると、この中には天狗の像が祀られているのだそうだ。鎧戸には鍵がかかっているが、その鍵は社務所に保管されていて、誰でも手に入れることが出来る。
大抵の村人は天狗の神隠しの噂を恐れて、ここには寄り付こうともしない。
例外として、民宿を営んでいる例の明松という老婆は、天狗を信奉しているらしく、毎日早朝に祠まできて供え物をしていくのだという。
「中も見てみますか? といっても流石に人間の入りようがないので、名神さんがいるとは思えませんけどね」
「そうね、一応確認しておこうかしら」
社務所から鍵を取ってきて鎧戸を開けると、中には老婆が置いていったと思しき菓子や果物があった。それらが置かれた台座の奥に、天狗の木像が配されている。雨風を凌げているからか、仁王像のような有様にはなっていない。天狗の長い鼻も、怒ったように密集した眉間の皴も、口許に蓄えられた長い髭もはっきりと見て取れる。しかし、この小さな鎧戸からでは、それくらいしか視界に入らなかった。
結局なんの進展も得られないまま、空須たちは神社を後にして、さらに奥の農家の方へと進んだ。
神社のある丘の斜面にはみかん畑が広がり、反対側の斜面には茶畑が広がっている。いずれも青々とした葉が一面を覆っている。その中を縫うように、錆びた細い鉄柱のようなものが何本も伸びている。
「あれって、モノレールってやつ? ちょっと乗ってみたいな」
冗談か本気かわからない調子で彼女が言った。
その鉄柱は彼女の言う通り、農業用のモノレールだった。収穫物を抱えて急勾配の斜面を昇り降りするのはとんでもない重労働なので、こうした場所ではよく使われている。
何軒かの農家に名神のことを聞いてみたが、大した情報は得られずじまい。ついでにモノレールに乗れないかも天宮は聞いていたが、人間は乗せられないと体よく断られていた。空須の方は、農家の人が乗っているところを何度も見ていたのだが。
諦めて石橋まで引き返し、村の中心へと向かった。その頃になるともう日は傾いて、辺りが燃えるような橙に染まり始めていた。
それからも日が暮れるまで粘って村人に話を聞いてみたが、どれもこれも有力な情報にはなり得なかった。空須の知っていること以上の内容を手に入れることすらできず、今日の調査を終えることとなってしまった。
仕方なく、天宮とは明松の民宿の前で別れることになった。
「明日もよろしくね。困ったときはお互い様だからね」
と言われてしまい、空須に断ることはできなかった。彼女の優しそうな笑みの裏には有無を言わせぬ力があって、まるで首を縦に振るように手で抑えつけられていたかのようだった。
まあ、特に問題はないだろう。
空須は駐在所への道すがら、暗くなった道を懐中電灯を頼りに歩きながら、楽観的に考えていた。
どうせ、他に大してやることもないのだ。真縁さんも怒ったりしないだろう。
だから駐在に戻った時、真縁に連絡も寄越さずどこへ行っていたとこっぴどく叱責されて、完全に空須は意気消沈してしまうこととなった。
翌日、名神の捜索に急展開があった。
とんでもない報せを胸に、民宿に向かった彼は、天宮が泊まっているという部屋の襖を破らんとする勢いで叩く。これ程平和な村にいながら、このような物騒な言葉を口にすることになるとは、空須は思いもよらなかった。
「天宮さん、起きてください。大変なんです。名神さんが見つかったんです。誰かに殺されたようなんです。あの鎧戸しかない祠の中で!」