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天狗の棲む村

 雷鳴、疾風。彼女の第一印象はそれだった。

 けたたましい音を立てて入口の引き戸を開け、颯爽と駐在所の中に入ってくる。

 そして一言。


「退屈に飽き飽きしてるって感じね」


 扇風機の風を浴びながらも、全身から垂れ流される水分を補給するために手にしていた麦茶を口につけたまま、空須瞬からすしゅんは呆けた表情になった。今年の春に彼が赴任したここ――小鳥村ことりむらでは珍しく、垢抜けた格好で大学生くらいの女性が闖入者だったこともそうだが、その第一声が「失礼します」でも、「――はどこですか」でもなく、意表を突いたものだったからだ。


「暇ならちょっとあたしに付き合ってくれない」


 唐突な申し出に、空須はどぎまぎしてうっかりコップを落としそうになった。それを悟られないようにと、平然を装いながら、テーブルにコップを置く。

 そんな彼の動揺に気付いているのかいないのか、彼女は肩から提げた小さな白いハンドバッグから、一枚の写真を取り出した。


「こちらの彼女、見覚えないかしら」


 目の前に現れた彼女と同い年ぐらいの可愛らしい女性だ。写真からでもわかる、長い艶やかな黒髪。垂れ目を細めて柔和そうに微笑んでいる。手慣れた感じの自然な化粧に、線が細くてきめ細かな肌は、いかにも洗練された都会の女性という雰囲気を醸し出していて、やはり目の前の彼女と同様、見渡す限り山やら田畑やらといった田舎には相応しくない。

 それゆえに、空須は当然彼女のことを覚えていた。


「え……っと、名神ながみ……さんでしたっけ。ここに赴任してきて一ヶ月くらいだから……、今から四か月前……五月の頭くらいだったかな」


 村を巡回している時に空須は彼女を見かけたのだった。

 人口の七割が老人という限界も限界なこの集落においては、自分と同い年くらいの人間ですら物珍しいというのに、それがさらに都会的な風貌の女性とあっては、気にならないわけがない。

 勿論やましい意味などこれっぽっちもない。通りすがりの他の住民たちに声をかけるのと同じこと。

 と、心の中で言い訳がましい弁解を繰り広げながら、空須は彼女に声をかけた。顔が火照っていたのも異様に暖かな春の気候のせいだったに違いない。

 旅行が好きで、日本の色々な村々を巡っているとか、天狗伝説に興味があって、それについても調べてみたかったとか、色々言っていたはずだ。しかし、嬉々として語る彼女の表情に見惚れていた空須は、その内容を二、三割しか記憶に留めていなかった。そのくせ一週間程度滞在していた彼女とは、会えば少しは立ち話をするくらいの間柄になったものの、それだけである。当然連絡先の交換などできていないし、東京のどこでどんな風に暮らしているのかも訊けていなかった。


「……彼女がどうかしたんですか?」

「ええ。どうかしたんです」


 彼女が顔色一つ変えずにそう言い放ったものだから、またしても空須は面食らった。


「こちらの名神更紗(さらさ)さんは、この村に旅行に行くと言って以来、消息不明なの」

「え……?」


 最後に見かけた日、彼女は今日東京に帰ると言っていたから、彼女の姿が見えなくなっても空須には不審に思うことなどできなかった。


「あたしは彼女の両親に依頼されて、彼女の行方を捜索してるわけ」

「え、依頼……? 友達……とかじゃないんですか……?」

「いいえ、同じ大学の学生ですけど、まったく知らないわ」

「ええ……? も、もしかして、同業者だったりします?」


 困惑で眉を顰める空須。いくら彼の目が節穴でも、眼前にいる彼女が私服警官には見えなかった。


「言いそびれちゃいましたね。あたし、天宮てんぐう。探偵をやってるの。はい、どうぞ」


 そう言って彼女は今度はハンドバッグから紙片を取り出して、空須に差し出した。

 見てみるとそれは一丁前に名刺だった。これまた一丁前に私立探偵・天宮木の葉と記されている。

 先程彼女は名神のことを同じ大学の学生と言っていた。ということは、彼女もまだ大学生のはずだが。


「へえ、東京の方じゃ、こういうバイトがあるんですね」


 そういうことかと独り合点する空須に、彼女は何を言っているのやらときょとんとした表情を向ける。


「バイトじゃないわよ? これでも警察のお世話をすることだってあるんだから」


 警察のお世話になる、の言い間違いかと空須が訝しがっていると、慌てて彼女は手を振って言い改めた。


「違う違う、そうじゃなくって、警察に協力してるってこと。殺人事件の捜査とかね。高校の時からやってるから、もしかしたら貴方よりもキャリアは長いかも」


 率直に言って、空須には信じられなかった。

 自分も若輩者だが、それよりもさらに年端の行かない、如何にも大学生といった様子の彼女が、警察に捜査協力するほどの探偵だなんて。

 彼はこのうら若き女探偵の手腕がどんなものなのか、近くで見てみたくなった。

 この村では殺人事件はおろか、窃盗事件すら起こらない。村人全員が顔見知りという状況でそんなことをすれば、村八分になることは火を見るよりも明らかだ。彼が出向くような出来事など、せいぜい行き過ぎた夫婦喧嘩の仲裁か、畑の力仕事の手伝いか、故障した電気機器の修繕ぐらい。もはや警察というより何でも屋の方が適切な呼び名である。

 警察学校では犯罪者をこの手で捕まえてやると意気込んでいた空須にとって、この村での職務は彼女が最初に問いかけたように、退屈極まりなかった。


「ともかく、何も知らないようなら、これ以上ここに用はないわね。それじゃ、これで」

「……って、どこいくんですか?」


 踵を返した彼女に、空須は立ち上がって声をかけた。


「う~ん、とりあえず適当に村を回ってみようかと」


 顎に指を当てて応えた彼女に空須は追い縋る。

 彼女といれば、そんな退屈も紛れるかもしれない。


「それなら――」


 思わず口をついて出ていた。


「それなら、僕も付き添いますよ」


 少し驚いたらしく、くりっとした瞳をより丸くした彼女を前にして、空須は急に我に返った。

 初対面の相手に職務も忘れて迫ってしまったことに、途端にばつの悪さを感じて視線を泳がせる。


「あ……、いや、ほら、その……、新米とは言え一応僕も警官なので、村のことなら一通り知っているつもりですし……。それに、どちらにしてもそろそろ巡回の時間なので……。それに、失踪となると、警察としてもお手伝いをした方が良いかと……」

「それなら、お願いしようかしら」


 うじうじと細い声で言い訳を続ける空須の言葉を断ち切るように、彼女はがらりと駐在所の騒々しい引き戸を開けて外に出た。

 突き抜けた青空と龍のように立ち上る入道雲の下。斜面に並んだ田畑とその間を縫ってさらに山の上へと続く細いアスファルト。人っ子一人いない景色をバックににこりと微笑んだ彼女の姿は、さながら一枚の絵画のように見えた。小走りでその隣に追いつき歩き始めると、さながら退廃した世界に取り残され、空須は彼女と二人だけになってしまったかのように思えた。


 *


「いや、しかし、タイミング良かったですね」


 刺すような日差しが空須の体温を急激に上昇させる。一歩進むたびに額から汗という汗が滲みだしてきて干からびそうだ。喉はカラカラなのに身体は汗まみれ。服が張り付いて居心地が悪い。蒸れるばかりで日除けとしてもあまり役に立たない制帽を脱いで、空須はハンカチで顔を拭った。

 隣を行く彼女の方はと言うと、まるで空須とは別世界にいるかのようだ。汗一つかいていない。それどころか涼し気な表情で、軽い足取りでひょいひょいと坂を上っていく。本当に絵の中の人物ではないかと錯覚してしまう。


「さっきまで酷い土砂降りだったんですよ」

「そうみたいね、まーあたしってラッキーだから」


 彼女の視線は廃墟と化した民家の陰を見詰めていた。普段は目立たないが、雨が降るとどこからともなく湧いて出てきたように見える、ワカメのような藻が広がっている。


「”天狗の通り道”ですね」


 空須の言葉に天宮は小首を傾げる。


「イシクラゲじゃなくて?」

「ほら、これって雨が降った時だけ現れたみたいに見えるじゃないですか。その不思議な感じが、同じく不可思議な存在の天狗伝説と結びついたみたいです。日当たりの悪いところに出てくる辺りも、普段は空を飛んでいる天狗が、そこに降り立って雨宿りをした跡のように見えた、というのが”通り道”の名前の由来だそうで」

「へぇ……。そういえば、名神さんもその天狗伝説を調べにここに来たのよね。他にもそういう伝説とかってあるの?」

「僕よりも村の老人か、僕の先輩の真縁まぶちさんに訊いてもらった方が、もっといろんなことが判ると思いますけどね」


 と前置きをしたところで、鉄板を叩きつけたかのような轟音が鳴り響いた。その後に続いて尾を引くように、どろどろどろと獣の唸り声のような低い音が、空須の腹の底までも震わせる。

 真っ青で穏やかな空の悲鳴としては、あまりに似つかわしくなかった。


「雷――?」

「夏場はよくあるんですよ。文字通り青天の霹靂。多分、向こうの――」


 空須は青々と茂った山々の尾根から立ち上っている白い龍を指さした。


「あの積乱雲から聞こえてるんでしょう。この辺の人に言わせれば、これも天狗の鳴き声だとか、天狗が飛ぶ音なんだとか」

「なかなか興味深いわ。天狗伝説は日本各地で見られるけど、これは山を異界として畏怖していたからね。異界で起こる奇妙な現象を、天狗の仕業だと結論付けることで、その恐怖を緩和しようとしたのね。山の中で急に木の倒れる音がしたのに、どこにも倒れた木なんて見えない、天狗倒しと呼ばれる現象や、天狗礫といって、空から突然石の雨が降ってくる現象とか。青天の雷もその一種なんでしょうね。天狗礫は井上円了が書いたように、人間の仕業だったなんてケースもあるけど、大抵は自然現象で説明がつけられるのよね。

 例えば、天狗倒しは冬の寒さで木の幹が割れる音が原因だったり、天狗礫も突風やつむじ風で巻き上げられた石が落ちてきただけだったりね。でも、そういう自然現象って昔からあるわけでしょう。天狗という妖怪の名前は中国から伝来してきたもので、それが日本の山岳信仰における山の神と結びついたことで、様々な山の怪奇現象がいつしか天狗の仕業となってしまったとされているけど、それなら元々は一体どんな名前の神様がいたんだろうね。一体いつからその神様は人々から忘れ去られてしまったんだろうね。う~ん、気になる、気になるなあ」


 空須は唖然とした。さっきは村の老人の方が詳しいと言ったが、彼にとってそれは謙遜のつもりだった。この五か月程の間に、村人と接する中で天狗伝説については耳にタコができるほど聞かされたものだ。人の流動や変動の少ないこの村では、話題なんてないに等しい。特に若い新参者の空須は、村の老人からすれば孫に昔話を聞かせるが如く、天狗の話をするには打ってつけの存在だったのだ。

 それがどうだろう。こんな話を雑談でもするかのように話す彼女の方が、よっぽど天狗伝説に精通しているようではないか。

 失踪の捜索をしているとか、警察の捜査協力をしているとか聞かされても、正直まだ空須には彼女が本当に探偵などという仕事をしているのかどうか、半信半疑だった。結局のところ、ごっこ遊びが高じただけのものではないかと。

 空須は愈々その考えを改めようとしていた。

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