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春は遠くて猫は近い

作者: 華嵐三十浪

「今日は一段と冷え込むな。悪いけど寒いから閉めてくれないか?」


 こういった当たり前の一言を僕が投げかけられたのは、眩しく朝日が差し込む、寒い寒い出勤前の駐車場であった。

 ついうっかり、ああすいません。と言ってボンネットを閉めようとして、はたと気がついた。

これは僕の車で、僕は出勤前だ。それに、こいつ(猫)喋らなかったか?

 職場で、年末に退職と産休が重なって2人ほど労働力が不足している状態だ。現状では安易な増員は期待できない。

 なので、業務が逼迫しているのは確かなことだ。独り言も増えていると思う。

でも、まだ、無機物からの返事をもらったことないのでメンタルは大丈夫なはずだ。

 あ、猫は有機物か。じゃない!猫!ねーこ!動物!


 僕は、閉めそうになっているボンネットの蓋を持ち上げ、エンジンルームに陣取っているのが、猫という動物であるのを確認し直した。

「。。。悪いが出勤するんだ。どいてくれないか」

エンジンルームの毛の塊が喋ったような気がしたので気のせいかとは思ったが、あとで僕自身の後味を悪くしないために喋りかけた。

 猫は、尊大な態度で鼻息とともに、僕をちらりと一瞥しただけで目を閉じ微動だにしない。

出勤前に面倒な!と、ささやかに腹が立つ。

このまま、エンジンルームに猫を乗せたままでかけてもいいのだが、途中で何かに巻き込んで猫せんべいや猫ミンチは避けたいところだ。

 嫌な想像を巡らせているうちに、ほんのわずかな時間が流れる。その間に猫が喋った、という現象がなかったことのように思えてきた。


 まぁ、アレだ。職場忙しいし、昨日も残業してきたし、補充の人は次の人事異動まできそうにないしなぁ。

って、春か春まで減ったままの人員で仕事しろってか!

氷点下ついてないけど今冬じゃん!

まだ寒くなる時期だよ!

春ってまだ先じゃん!

考えを巡らせるうちに、どんどん目の前の怪奇現象よりもリアルな社会現象の方に思考が傾いていった。

「閉めろと言っているのが聞こえんのか!」

「はい!すいません!」

冬場の曇り空よりもどんよりとした先行きに気を取られて猫に怒鳴られた僕は、反射的にあわててボンネットを閉めた。


 えっ。。。。つい、とっさに閉めたはいいが、これって僕の車だよね。

今から出勤して、まずは今日の業務確認して、取引先に連絡をして。。。資料をホッチキスで。。。じゃない!

「おい!喋ったよな!お前喋ったよな!」

僕はさっき閉めたばかりのボンネットを、外さんばかりの勢いではね上げた。

「おい!お前喋ったろ!」

今度は猫は一瞥すらくれず、丸くなったまま狸寝入りを決め込んでいた。

「聞こえてるんだったら、こっちを見るくらいしろよ!ってかどいてくれ!会社に行かなきゃいけないんだ!」

手で払いのけるなどの行動に出たかったが、野良猫を素手で触るのは良くないと聞いたことがあったので触れるのに躊躇してしまった。

それに、こいつはでかい。軽く見積もっても10kg位ありそうだ。

普段自分で買う米袋よりも重いものを、手で払いのける自信はなかった。

何か音を立てて、脅かしてどいてもらうか?

いや、早朝の集合住宅で大きな音は憚られるな。。

「おいって、あ、もしかして耳汚れてる?野良だから耳悪いのかな?」

同僚が、飼い猫を動物病院へ定期的に連れて行っているのをふと思い出した。野良であれば、さすがに病院で施術を受けるわけには行かないだろう。

「喚くな聞こえている。こう見えても最低限の衛生は心得ている。お前達は食い扶持を分けてくれる代わりに、私を撫で回したがるからな。小汚くては手も出してもらえん。ギブアンドテイクとやらだ」

猫が喋るという事実よりも、随分と人間との関係に心を砕いているのだと感心をしてしまう。

つい、そーなんだ!と、声を立てそうになった。

「それに私の耳はお前達の何倍も聴こえはいい。お前達が聴こえない音すらも聞き分けるぞ。」

「へぇ。やっぱり野生動物なんだなぁ。って!退去要請が聞こえてるんだったら、トリビアはいいからどいてくれ!!」

僕は、猫に向かって手を出した。

猫の衛生云々を信じているわけではないが、出勤時刻はどんどん近づいている。

さっさとどいてもらわねば!

だが、僕の差し出した手は、僕の何倍も俊敏に動く尾っぽで振り払われた。

「触れるでない。人には人の猫には猫の常在菌があるでな、必要以上の接触は控えねばならん」

僕、猫に公衆衛生語られてる?いや、不可侵というところでは、ナチュラルディスタンスか?

猫は、やたらとフサフサの尾っぽをゆらりと動かしていた。

「ふ、この母譲りの尾で叩かれるのを好む人もおるが、抜け毛が気になる故あまり振り回したくはない」

「お、お母様、フサフサだったんですか?」

「ああ、美しいペルシャでな、日差しに当たって白い尾が銀色に輝いておった」

「あー、なるほど。毛が長めだからモコモコしてるんだ。じゃない!なんでそんな高そうな猫の子孫が野良で、エンジンルームを不法占拠してるんだよ!」

「うるさいな。お前達人間は近所迷惑とやらを気にするのではなかったのか?」

猫に言われて我に返り、慌てて口を押さえて猫をねめつける。

ねめつけたはいいが、当の猫にあっさり睨み返されてビクつくことになった。

人としての尊厳とは。。。。

「母は血統書とやらがついた美しい猫で、お前達に飼われていた。ある日、野良猫である父と運命的な出会いを果たし、私たちが生まれたのだが。。。。いかんせん父は野良オブ野良だ血統書などは持っていない。飼い主にとっては不要であったのだろう、気がつけば私たち兄妹は野に放棄され現在に至っている」

猫は微動だにせず、エンジンルームに踏ん反り返りながら遠い目をして身の上を語った。

「最近では、海外の希少種の同胞も見かけることがある。人には人の事情があるだろう、でも、私たちを手の内に置くという責任をもう少し重く考えてもらいたいものだ」


いや、そこどけよ。。。。。


 もうすでに、猫が喋っている。という事実はどうでもよくなっていた。

早くどいてもらわないと、出勤時間という経済の刻限に間に合わない。

猫の殺生与奪の権利を持つ人という種は、経済という怪物に殺生与奪権を握られている。その怪物は、時間という概念にとてつもなく忠実だ。

現代社会の貨幣に価値を見出している世情に生きる限り、その概念に従うしかない。もっとも、この世で生きる以上経済ではなくとも、何らかの概念に忠実に生きるということを余儀なくされている。


というか、そこどいてくれ。。。。。


「いや、いい加減そこど。。。」

僕が猫に向かって声を荒げる寸前に、ポケットに入れているスマホが鳴り出した。

正直、え、今かよ。と思わないわけではなかったが、現代に生きる悲しい社会人としての習性が、瞬時にスマホをスワイプさせることになる。

「はい!もしもし!」

「おはよう。出勤前にすまないね」

電話は会社の上司からだった。

なんだ?この時間に、何か不備でもあったのか?

電話の相手が会社の上司だったので、僕はすぐに仕事のミスや予定の急変を予測した。

どこからともなく油汗が流れてくる。

「あ〜、出勤前なんだけどね。ここのところ忙しかったでしょう?年末から大変だったよね。ほぼ休む間もなかったからね」

なぜか上司の声が微妙によそよそしく震えているように聞こえた。

僕は会話の予測ができずに、はぁ、と気の無い返事とも相槌ともつかない声を出すしかなかった。

「あのね、急遽派遣の人に今日から来てもらえることになったから、今日から週明けまで休養しないか?」

「はい?」

「びっくりだよねー。いや、私も驚いてるんだ。前々から頼んでいた派遣さんが急に目処ついたらしくって、ね?善は急げって言うでしょう?」

降ってわいた、藪から棒。どのことわざが今の僕の感情を現わすのに適しているのだろうか?

鳩が豆鉄砲とやらを食らった時に、こんな顔になるのだろうか?

急な上司の申し出に、僕は身じろぎもせずに聞き入ってしまった。

「いや、4日も休めば気も休まるからね。ね?この際だから、ちょーっと休んでさ。リラックスをさ。ね?」

「なにがあったんですか?急に」

「。。。。社宅の駐車場で、朝からボンネット開いて一人でわめき散らしてる人がいるって。。。。。。人事に。。。。」

その瞬間に、あちこちでカーテンを閉める空耳が聞こえた。


 その後、上司は必死に僕に休暇を取れと懇願してきた。もちろん願ったり叶ったりなのだが、エンジンルームに陣取っている毛玉のなせる技なのか?と思うと、複雑で快諾の返事がなかなかできなかった。

しばらく黙っていると、上司が自分の管理職としての身の上にも関わることだからと、懇願という体の半ば脅迫めいた強要になっていった。

 この猫にしろ退職にしろ産休にしろ、上司の責任の範疇にはなく、上司は上司でほどほどに良い上司だったので、この狐につままれた感情に折り合いをつけて渡りに船と思ってありがたく休暇を拝領することにした。

 上司との電話を切った後、相変わらずエンジンルームに陣取る猫を見ると、我関せずで体を丸め狸寝入りの体制になっていた。

「えーと。。」

「今日は冷える。ここは借りて置くぞ。わかったら早く閉めてくれ。なに、壊したり傷つけたりはしない安心するがよい」

僕が黙って見つめていると、猫はちらりと一瞥をくれた。

謎の敗北感を猫に感じながら、僕はボンネトの蓋をゆっくりと閉めた。

駐車場から数歩離れ、ちらりと振り返る。

狸寝入りをしながら、狐につままれた気分にさせる、猫の見た目をした動物。。。。本当に猫だったんだよなぁ?と思っていると、車からニャ〜と細い鳴き声が聞こえたような気がした。


お楽しみいただければ幸いです。

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