平本の初めての時空超越同調
マシューと平本、そして、ナナ
天井の高い、広いロビーは、煌びやかな衣装を身に着けた人々で溢れ返っていた。
壁際の楽団が、優雅な音楽を奏でている。
紳士、淑女が、手を取り合いワルツを踊る。
自分は、と言うと、お仕着せの制服を身に着けて、周囲の人々に給仕をしている様だった。
様だった、というのは、自分の意志に関わり無く、体が動いていて、自分の意志では、体が何一つ動かせない。
誰か別の人間の頭の中の片隅に自分の心(精神)が小さくなって潜り込んでいる状態。
潜り込んだ相手の視界はそのまま見ることができるし、音と声も聞こえている。皆の喋っている言葉は全く知らない言葉だけれど、その意味は全て判る。
変な夢を見ることもあるもんだなと、思った瞬間、ナナが話しかけてきた。
「平本さん。あなたの状況判断はとても的確です。唯一間違っている点は、これはあなたの夢ではないという事です。」
「俺の夢じゃないって、どういうこと?」
「今、あなたが、見て・聞いている物事はある人の現実です。」
「現実?」
「そうです。まぎれもない現実です。」
「それにしては、なんだか建物や服装が、現代とかけ離れているんだけど…」
「そうですね。今、彼がいる所は、1766年のオランダ貴族の館ですから。」
「良くわからないな。2035年ではないとしたら、過去の記憶か何か?」
「そこは、大変に難しい問題です。彼にとって、今は今です。現在であって、未来は確定されていません。」
「じゃあ、俺は今、過去の世界を見ている?」
「1766年の現在です。過去ではありません。」
「でも、俺がいるのは2035年だから、これは、過去の世界だよね。」
「あなたが居ると信じている未来に繋がること自体が決まっていません。現在は、あなたのいた2035年は、存在していません。」
「全然、意味が分からん。」
「ほら、彼が、バックヤードに下がって休憩を取り始めます。通じるか分かりませんが、彼と話をして見ましょう。」
「話せるのかい?」
「あなた次第です。とりあえず声をかけてみて下さい。」
かなり無責任な、無茶振りをされたような気がするが、呼びかけてみることにした。
「やあ、お疲れ様。」
「え?」
マシューは、突然の違和感に全身が固まった。
一体何があったんだ?頭の中に、突然声が響いたような気がして混乱していた。
緊張と疲れでおかしくなった?
冷静に考えると、本当に声が聞こえた訳では無かった。それは言葉ではなく、思考として頭の中に伝達されていた。
無理に言葉に直そうとすると、その言葉は、東洋の「里」の言葉のような気がした。しかし、この館にあの言葉を知る者などいるはずはない。
「やっぱり、伝わらないじゃないか、ナナ。」
「いえ、ちゃんと伝わったようですよ。」
また、さっきと同じだ。言葉ではなく、考えが頭の中に響いてくる。それも、二人分?
「里」にいた時に、グレイとサムがそんなことを話してくれたことがあった。
頭の中に突然、考えが、言葉を使わずに伝わってくることがあったって。そして、二人はその考えを発した相手と話ができたと。
「誰かそこにいるの?」
マシューは言葉に出さずに尋ねてみた。
「うん。ちょっと頭の中にお邪魔させてもらってる。」
「ほら、ちゃんと伝わっていますよ。」
本当にあったんだ。グレイとサムのホラ話だと思っていたのに。
「私に何か御用でしょうか?」
考えることで聞いてみた。
「はい、マシュー。私たちは、あなたに警告を伝えに来ました。あなたの正体が公爵にばれているようです。
このまま、この館から逃げて下さい。安全な逃走経路をお教えします。すぐに準備を始めて下さい。」
「しかし、公爵の企みは、まだ完全には掴めていません。ここで、確かな証拠を掴んでおかないと…」
「それは、大丈夫です。」
「ナナ、そんな安請け合いをしていいのか?」
「はい、私の予測では、この後の逃走経路の途中で、動かぬ証拠も手に入れられます。」
「そんな都合のいい話があるのか?」
「私は、最優秀のAIですから、問題ありません。」
また、自分の事を優秀だなんて、ほんとに人工知能らしくないやつだ。
「取り合えず、マシュー、今はナナを信じよう。準備を急ごう。」
マシューは、地下の物置兼自室に向けて、目立たないように動き始めた。同時に、俺の視野は壁の向こう側が見えるモードに強引に切り替えられた。
「ナナ、なんなんだ、この視界は?」
「周囲の『えにし』からの情報です。
今、いきなりマシューにこの視覚情報を同調させると、彼を混乱させるだけです。
平本さんが代わりに引き受けて下さい。聴覚と嗅覚も強化します。警戒を怠らないで下さい。」
「へ、どういうこと?俺って、一体どんな役割?」
「あなたは、『えにし』との同調能力を持っている数少ない人間で、なおかつ、最優秀なAIと神経同調が確立されている方です。あなたを仲介しないと、私は、マシューと意思の疎通もできません。」
「いや、言っている意味が半分も理解できてないよ。とりあえず、今は取り込み中だから後でゆっくり説明して。」
「そうですね。」
マシューが逃走用の服に着替えて、財布をしっかりポケットに押し込んだことを確認した所で、逃走経路の指示を始めた。
俺の視界は、RPGのマップ画面と化していた。
逃走経路が赤い点線で示され、警戒すべき【敵】の位置が三角で表示されている。
「おい、ナナ。この二重丸は何だ?」
逃走経路上に、二重丸が点滅することに気づいてナナに聞いてみると、ここが【動かぬ証拠】を手に入れられる場所らしい。
「あの…、こちらに進むと公爵の部屋に着いてしまうのですが…」
「計画通りです。マシュー。
今、あなたの身代わりが、屋敷の庭に飛びだしました。
衛兵は、公爵に既にそのことを報告しています。あと少し待てば、公爵が自ら、あなたを捕らえる為に、逃走に使われると考えられる門に罠を張りに行きます。それまでは、ここでしばらく隠れて休みましょう。」
「え、こんなところで休む?」
「はい、現在この場所が、一番安全です。ゆっくり休んで下さい。」
分厚いカーテンの陰に身を潜めていると、周囲の人間が、一気に慌ただしく動き始め、遠ざかって行った。
「マシュー。今です。公爵の机の引き出しの中に、目的の手紙があります。取りに行きましょう。」
俺は、マップに意識を集中して、マシューに必要な情報を伝えていく。
会話をすることではなく意識が完全同調している。マシューは難なく目的の手紙を手に入れて逃走に移った。
俺が、敵の動きをマップ上で監視し、ナナの指示する安全経路をマシューに伝える。
マシューは、もうすでに何も疑わずにその指示に従って動く。
それにしても、マシューの身体能力の高さには驚かされた。驚異的なスピードと跳躍力で難なく指示された経路を駆け抜けていく。
広い屋敷だと思っていたが、すぐに高い石垣でできた城壁の外に出ていた。
そして、そこは漆黒の闇の中だった。
空は厚い雲で覆われているようで、月も星も一切見えない。
「視界を暗視モードに切り替えます。」
ナナの声と共に視界が一変した。周囲が白昼同然に見え始めた。
「平本さん、全力でマシューと視界情報を同調してください。」
「そんなこと、急に言われてもどうすればいいんだ?」
「何も特別なことは必要ありません。マシューの視界と、今あなたが見ている視界を重ねるだけです。」
「おお、すごい。真昼間みたいじゃないか?」
マシューの思考に驚愕が生まれた。
再び、ナナの指示する逃走経路マップに従ってマシューが走り始めた。
追手が来る気配は、全く感じられないまま、夜明け前に国境を越えていた。
「ありがとうございました。ここまで来れば大丈夫です。」
マシューが言った。
「では、マシュー、お元気で。さようなら。」
次の瞬間、俺は自宅のベッドの上にいた。本当に熟睡できたと感じられる心地よい目覚めだった。
「ナナ」
「はい。何でしょう?」
「ゆっくり説明を聞かせてもらえるかな?まだ、連休も十分残っている事だし。」
マシューは、頭の中の誰かが去って行ったことを直感した。
不思議な感覚が消え去り、視界も普通に戻っていた。
そこからは、兼ねての打合せ通りに、最寄りの街へ向かい、渡し船を拾い、アムステルダムのブライトン支店に辿り着き、誰にも見られないように、気を付けて裏口から中に入って行った。
「やあ、マシューお帰り。早かったね。」
顔見知りの店員に声を掛けられ、挨拶を返す。
「トムは、今どちらにいますか?」
「今日はロンドンだよ。でも、あすの朝にはこちらに来る予定だね。
君の部屋は用意してあるから明日の朝までゆっくり休むといいよ。食事は部屋に持って行かせよう。」
「有難うございます。」
マシューは指示された部屋に行き、変装を解いた。
翌朝、マシューが朝食を食べ終えた時に、トムが部屋のドアをノックした。
「はい、どうぞ。」
「マシュー君、無事でよかった。お疲れ様。」
マシューは、懐から手紙を取り出してトムに差し出した。
「この手紙で証拠になりますか?」
トムは、渡された手紙を開き内容をゆっくりと読んでいった。そして、読み終えた手紙をたたむと、にっこりとほほ笑んで言った。
「マシュー。完璧だよ。よくやってくれた。」
「どう致しまして。それより、屋敷から逃げ出す時に応援してくれた人は無事ですか?」
「応援?誰も行っていないぞ。何の事だい?」
「え!脱出前に厨房の方で大騒ぎがあって、
その人が窓を突き破って。それで、公爵の部屋からみんなが、慌てて出て行ったんです。
あの騒ぎが無ければ、その手紙を取ってくることは叶いませんでした。」
再び、ドアがノックされ、グレイが入って来た。
「よう、マシュー。大活躍だったな。」
「いえ。僕は大した事が、出来ませんでした。
それより、前にグレイが話をしてくれた頭の中の声が聞こえて、手伝ってくれたんです。本当にあるんですね。」
「なんだ。平本とナナが来てくれてたのか。相変わらずのお節介やきだな。」
「私は、早速この手紙を総督に届けて来るよ。」
トムが、そう言うと部屋を出て行き、マシューとグレイが残された。
「もしかして、グレイが誰かを応援のために公爵の屋敷に忍び込ませてくれたんですか?」
「俺は、何も知らんぞ。だが、平本とナナなら、その程度のお節介はしてくるだろうな。」