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はなやぎ館の箱庭  作者: 日三十 皐月
第2章 「箱庭の夢語」

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幕間 「春の詩」








ーー言葉は、ナイフのようなものだと思っていた。



毎日のように家の中に轟く怒声と罵声は、幼い私の心を簡単に切り刻んだ。

自分で何とか縫い合わせても、毎日毎日恐ろしいほどぼろぼろになっていく。


やがて縫い合わせることも諦めた時、母親は言った。



「詩津。これを持って、ばあちゃんのところに行きな」


「……おばあちゃんのところ…?」


「新幹線に乗って、行くんだよ。どこまでも、此処から遠いところへ」



ぼろぼろ泣きながら私を家の外へ押し出した母親の顔を、今でも忘れない。

こんなところへ産んで悪かった、と懺悔したその心の内側に、私への愛情があったかなど聞くことも出来ずに。


ぽつんと途方に暮れた、新幹線の乗り方も知らない私。


手渡された住所の書かれた紙とお金の入った封筒を握りしめて立ち竦んでいると、通りかかった自転車の光が私を淡く照らした。



「…詩津?」


「……春…」



家の中で鳴り響く怒声を聞きながら、ただ呆然と家の前に立っている私。

見比べた後、幼馴染の春一は理由を聞くでもなく私を自転車の後ろに乗せてくれた。



「ーーなぁ。なんか、甘いもんでも食いに行かない?」


「…ごめん。今から新幹線乗らなくちゃいけないから、お金使えないんだ」


「新幹線?」


「うん。余分には入ってないと思うから」



何も教わってこなかった中学生の私には、物事を考える頭がなかった。

ただ新幹線に乗れと言われて、黙ってそれに従うものだと。


新幹線に乗れたとして、そこからどうするのか。

そんなことも考えられないほど、私の心と思考は衰弱していた。



「この時間から新幹線…?明日普通に学校もあるのに。それって、急いで行かなきゃいけないやつ?」


「ううん…分からない。お母さんは、ただ、おばあちゃんちに行けって」


「……」


「あぁ、春に会えて良かった。新幹線なんて乗ったことないから助かった。乗り方知ってる?お金ってどれくらいあれば足りるんだろうって不安で。駅員さんに聞いたら全部やってもらえるのかな」


「新幹線乗るにしても、こんな夜中に出歩いたら危ないだろ」


「でも…多分うちにはもう戻れないから。移動しなきゃ。新幹線って夜は動いてない?朝になるまで駅で待ってたらだめかな」



自転車の後ろに乗りながら、質問を重ねる。

春一は何か考え込んだ様子だったものの、それには答えず、私を乗せてひたすらすいすいと自転車を走らせた。



「…あ、そうだ。春、貸してくれた漫画……ごめん、返せないかも…」


「いいよ」


「教えてくれたアニメも、結局見れなかったな…。おばあちゃんちで見れないかな」


「……」


「今まで見せてくれた漫画、本当にどれも面白かった。大人になって、自分でお金を稼げるようになったら…たくさん色んなもの見たいな」



段差で揺れた自転車。落ちないようにしがみついた春の背中から、伝わる体温。


物心ついてからというもの、殊更家族の体温を知らない私にとって、それは尊く得難いものだと感じたことを今でも良く覚えている。



「ーー春。私…どうして産まれてきちゃったんだろうね」


「……」


「私、これでも家族が好きだったの。普通の、家族みたいになりたかった。でも、追い出されたってことは…家族じゃないって、ことなんだよねきっと」


「…、」


「だったら、どうして産まれて、きちゃったんだろう。苦しいよ、春。お母さんと…お父さんと…かぞくに、なりたかったな…。もっと、私が賢かったら…可愛くて、良い子だったら…」



勝手にぼろぼろ言葉と涙が溢れてきて、止まらない。

嗚咽しながら途切れ途切れに話していると、春一は不意に自転車を止めた。



「…春?」



「ーー詩津。俺が何か作ったら食う?」


「……え…」


「畑の夏野菜採れたから、美味しいやつ作るよ」


「え…いいよ……春の家族にも、申し訳ないし…」


「晩飯食った?」


「今日は2人とも喧嘩してたから、リビングに入れなくて…キッチンに立てなかった。でも大丈夫だよ」


「何も食べてないの?」


「食べるものはあるよ。朝も食べられなかったら給食の時間までもたないからって、いつも鞄に駄菓子入れてるんだ。内緒ね」



突然の提案に戸惑いながら答えて、これから晩御飯代わりに食べるつもりだった駄菓子を見せると、春一は一際大きな溜息をついた。



「なぁ。何か作らせてよ。何が好き?」


「うーん…ううん、本当に大丈夫だよ。ありがとう、春」


「俺が作りたいんだよ。料理最近ハマってるんだ。味見してくんない?」


「……でも…」


「じゃ、一旦俺んちな」



駅に向かっていた自転車が、春一の家の方角へと進んでいく。


ーーそのまま訳も分からないまま運ばれて、あっという間に春一の家に着くと。

春一のお母さんは、夜だというのに優しく私を迎え入れてくれた。



「あら、詩津ちゃん。どうしたの、こんな夜中に」


「母さん、ちょっと話あるんだけどいいかな……あ、詩津はリビングにいて。飯ささっと作るから」


「あれ、詩津さんだ。こんばんは、こっちどうぞ」



妹の芹ちゃんに導かれて、リビングのソファに腰掛ける。


申し訳なく思う間も無く、春一は春一のお母さんと一緒にキッチンの方へと行ってしまった。


待っている間に遊ぼう、と芹ちゃんが机に可愛らしいビーズを並べてくれる。

ひどく気遣うわけでもない心遣いに、居心地の良さを痛いほど感じた。



ばらばらのビーズをセンス良く並べてブレスレットにしていく芹ちゃんを見習って、見様見真似で作りながら春一を待っていると、程なくして良い香りがしてきた。



「わ、良い匂い。晩御飯食べたのにお腹空いてきちゃった。

お兄ちゃん、それオムライスでしょ?私も食べたい」


「明日の朝のパン、俺に半分くれるならいいよ」


「えー。クロワッサンなら良いよ」



可愛らしいやり取りを聞きつつ、ブレスレットを作っていく。


それが完成する頃、春一が戻ってきて、良い匂いと共に美味しそうなオムライスが目の前に置かれた。



「すごい、美味しそう…!」


「ゆっくり食べて」



御礼を言って、広げていたビーズを片付ける。

完成したブレスレットを手に取って鞄に入れようとすると、春一がやんわりと止めた。




「ーーなぁ、そのブレスレットちょうだい」


「え、これ?いいけど…芹ちゃんの方が上手だよ」


「詩津の色味の方が好きだな、俺。御礼と思ってさ」



そう言われると断れず、そっと差し出す。

春一はブレスレットを嬉しそうに受け取ると、「ありがとう」と言って大事そうに握りしめた。



「おい、にやにやすんな芹」


「べっつにー?貰えてよかったね」




ーーそれから、3人で顔を合わせて春一の作ったオムライスを食べた。

美味しいチキンライスをふわふわの卵が包んで、上から特製のトマトソースがかけられている。


一口食べるたびに美味しいが口の中で溢れて、その美味しさに思わず泣いてしまいそうになった。



「美味しい…!春、ほんっとに美味しい。ありがとう」


「喜んでもらえて俺も嬉しいよ」


「…あの時家の前で、春に会えて良かった。新幹線に乗ってたらもう会えなかったかもしれないもんね。こんなに美味しいご飯が食べられるなんて思わなかった」



家から追い出されて、新幹線に乗って遠くへ行けと言われ。

そうして訳も分からないまま、何も言わないまま。春一やこの町から離れていくところだった。


美味しいご飯に恵まれた幸せを噛み締めていると、春一が険しい顔付きで口を開く。



「……そのことなんだけどさ。今、母さんが詩津のおばあちゃんに掛け合ってくれてるから」


「えっ…?」


「封筒に書いてあったおばあちゃんの連絡先見て、電話してる。だから、もうちょっと待って」



驚いて何も言えずにいたところへ、春一のお母さんがやってきて言った。



「ーー詩津ちゃん。おばあちゃんと連絡が取れたよ。向こうで学校に通えるようきちんと手配するって」


「え…?!」


「私が新幹線に乗って、向こうまで一緒に行くからね。おばあちゃんが向こうの新幹線口で待っててくれるそうよ」



暖かい眼差しに見つめられて、何故だかぐっと胸が熱くなる。

春一のお母さんは、優しく微笑んで肩に触れてくれた。


ーー追い出されて、ひとりぼっちだと思っていた。

でも、こうして気にかけてくれる人がいて、これから新幹線に乗って着いた先にはおばあちゃんがいる。


そう思うと、勝手に涙が溢れてきた。



「待ってください、食べ終わったら、すぐに…準備します…。春一のお母さん、いつも、いつも…優しくしてくださって、本当に…ありがとうございます…」



泣きながらオムライスを頬張る。

「ゆっくり食べてね」と優しく頭を撫でられると、愛情に触れたような気がしてこそばゆかった。






ーーーそれから、オムライスを食べ終えて、支度を終えてすぐ。

駅へ向かって券を買い、改札口で春一たちとお別れの言葉を交わすこととなった。



「…じゃぁ、元気でね。詩津」


「春。本当にありがとう」


「ううん、急なことで寂しいけど…身体には気をつけて。また、いつか帰ってきたら一緒に遊ぼう」


「うん」


「母さんも、気をつけて帰ってきて」



新幹線がホームに到着して乗り込むと、名残惜しそうな春一と私の間に扉が隔たる。

そうか、遠く離れちゃうんだな。

と思うと、寂しさが込み上げてきた。


春一のお父さん、春一、芹ちゃん。

3人に見送られて、新幹線が動き始める。



「ねぇ、見て。春一の顔。泣きそうな顔しちゃって」


「……私も泣きそうです…」


「…春一は本当に、詩津ちゃんのことが大切なのね。春一が珍しくコンビニに行くってふらっと立ち上がったものだから…あなたの危機を察知したのかも」


「……、」


「詩津ちゃん。きっとこれから先も、大変だと感じることがたくさんあると思う。どうして真っ直ぐじゃないんだろうって辛くなることもあると思う。

でもきっと、あなたのことを心から愛する人が、あなたの手を取って導いてくれるからね」



そう言って優しく撫でられると、暖かさに眠気がやってきた。

身体を預けるよう言われてそっと身を寄せると、肩にぽんぽんと心地良いリズムで手のひらが触れる。



「もしも家族になれたなら、その時はきっと、あなたが心から笑える毎日が訪れますように…」



優しい祈りを聴きながら、安心して眠りに落ちる。



ーーそうして目が覚めた時には、新幹線はおばあちゃんのいる場所へと辿り着いていた。


寝ぼけ眼で立ち上がって、右も左も分からないまま春一のお母さんの後ろをついて歩くと。

そこには、おばあちゃんの姿があった。



「おばあちゃん…」


「ーー…私の娘と孫が、ご迷惑をおかけしました」


「いいえ、私が詩津ちゃんの為にやりたくてやってることですから」


「あ、春一のお母さん…、何から何まで、ありがとうございました。大人になったら、このご恩を絶対にお返しします」


「詩津ちゃん。あなたが幸せでいてくれることが、一番のお返しよ。風邪を引かないようにね。何かあったら、いつでも連絡してね」


「ありがとうございます…」


「無事に見送れたことが嬉しい。またね。元気で過ごしてね」



もう一度新幹線に乗る為駅へと戻っていく背中に、2人で深々と頭を下げる。


それから、どちらともなく視線を合わせた。



「……親子揃って、私に恥をかかせて」



ーーおばあちゃんは、そう小さく呟くように言った。

それ以降何を言うこともなく、待っていたタクシーに乗って、おばあちゃんの家へ向かう。



「あのね、おばあちゃん」


「……」


「迎えに来てくれて、ありがとう…」





* * * * *





それから、一緒に過ごすようになってしばらくの年月が経った。


おばあちゃんは私と会話をすることはほとんどなかったけれど、欲しいと言ったものはなんでも買ってくれた。

お小遣いと書かれた封筒が毎月机の上に置かれていて、それで好きな漫画や小説を買った。


アニメも観ることができた。

知り合いから譲ってもらった、とパソコンも与えてもらった。


話を聞いたお隣のお姉さんが親切に細かい設定をしてくれて、絵を描くのが好きだと伝えるとペンタブをくれて。


勉学に励みながらも、毎日好きなものに触れて過ごすことができた。

お姉さんと一緒にコミケに行ったり、親しくなった友人とアニメや漫画の話をしたり。


そんな楽しい日々を過ごす内に、気がつけば高校を卒業していて、社会人になっていた。



就職先が決まってすぐ、おばあちゃんの家を出た。

おばあちゃんは、何も言わなかった。


一人暮らしを始めた後は、おばあちゃんと、そして春一のお母さんへ、毎月御礼を送る日々。

毎日色んなことが起きる中で、変わらずアニメや漫画を楽しむことができたのは、これまで支えてきてくれた人たちのお陰だった。




ーーそんなある日のこと。

突然、春一から連絡が来た。


春一のお母さんから預かっているものがあって、それを渡しに来たらしい。


時間を取って待ち合わせていた喫茶店に行くと、大人になった春一がそこにいた。



「え…!めっちゃ久しぶり…!春が大人になってる!」


「…詩津もね」



これまでお互いそれぞれ過ごしてきた時間など、色々積もる話をしばらく交わす。

春一の優しい眼差しに、何だかむず痒い気持ちになった。


新幹線でお別れして以来、6年振りの再会。

一瞬でも会話に詰まると何を話せばいいか分からなくなって困る。


そう思いながら少し震える手でコーヒーに手を伸ばしたーーその時、それまで微笑んでいた春の顔が固まった。



「ちょっと待って。何その、腕の痣」


「あ……これ。この前別れた彼氏に…。ちょっと揉めちゃって」



普段長袖を着て隠していたそれが、一瞬春一の視界に入ってしまったようだった。


「もう痛くないよ」と慌てて見えない位置に下げるものの、春の表情は変わらない。



「…他には?」


「あー…えっと、何個かあるけど…」


「何が起きたら痣ができるくらい痛いことされるわけ?」


「少し前、任されてた家の掃除が忙しくて手抜きになってたことがあって…

詩津は俺以外のやつから見たら何の価値もないんだから、俺が付き合ってあげてることちゃんと感謝して行動に移せよって。その時に投げられた灰皿が当たっちゃって、とか…」


「………で、別れたんだよね?」


「えっと…職場で言い寄られてお付き合いすることになっちゃったから、なかなか別れたいって言えなくて…

この前何とか伝えたんだけど、別れたっていか…あの…どちらかというと今は、逃げてるって感じかな…」



と歯切れ悪く言った瞬間、机に置いていた反対の手を優しく掴まれた。

その暖かさに、眩暈がするようだった。



「ーー逃げてるってどういうこと?」



春一の行動に戸惑いながら、真っ直ぐに見つめられて更に動揺する。



「あの…絶対別れねぇからなって、今職場でもずっと追われてる状態なんだよね。周りの目がある時は優しく接してくるから、なるべく1人にならないようにしてて。

今日も、面倒見てくれてるお姉さんが此処まで送ってくれて…」


「そんな大変なこと……言ってよ、詩津…」


「ごめん…余計な心配させたくなかったの…」



結果的にさせることになっちゃったけど…

と続けると、春は私から手を離して、おもむろにスマホを取り出して言った。



「嫌じゃなかったら、痣の写真撮っていい?他には痛いところない?」


「い、いいけど…他は見えないところにあるんだよね」


「分かった…じゃぁ、撮れる時に撮って送っておいてもらえたら助かる」


「うん」


「もう、絶対そんな目に遭わせたりしないから」



腹立ちすぎてしにそう俺、と小さく溢した春一。


せっかく会えた春一にこんな顔をさせてしまっていることが申し訳なくて、勝手に頭が下がる。



「…なんか、大きい声で怒鳴られたり、何かが壊される音を聞くと、小さい時を思い出して身体が震えちゃって。

大人しくしてればいつか終わるだろう、って思う癖がついてたから、なかなか別れたいって言い出せなかったんだよね」


「……」


「今回、仲の良いお姉さんが力になりたいって言ってくれて、ようやく動けた感じなんだ。

解決してから会えば良かったな。そんな顔させてごめん…久しぶりに会ったのに、私のせいで辛気臭くなっちゃったね」



楽しい話をしよう、と微笑みかけると、春一は真剣な顔をして口を開いた。



「ーー俺はさ、詩津が幸せなら何でも良かったんだ。今日会いに行くって決めた時も、詩津が誰かと幸せなら、渡すもの渡して我慢して何も言わずに帰るつもりだった」


「えっと…春…?」


「でももう無理」



そう言った春一が、鞄から何かを取り出す。

大事そうに布に包まれていたそれに、思わず大きな声が出た。



「えぇっ?!そのブレスレット…!」


「詩津は気付いてなかったと思うけど、俺、自分でも引くくらいずっと詩津のことが好きなんだよ」


「…知らなかった…いつ、から…?」


「ずっとだよ。幼稚園の時からずっと」


「幼稚園?!」


「詩津が高校で彼氏できたらしいって人伝に聞いた時は1週間くらい寝込んだし、今回のやつと付き合うことになったらしいって芹から聞いた時には2週間くらい呆然としてた」


「えぇ…?!」



知らなかった事実を立て続けに聞かされて、空いた口が塞がらない。

何と言えば良いか分からず困惑する私を、春一は真っ直ぐに見つめる。


ーーそうか…春って、私のこと…好きだったんだ…


そう思うと、そうかもしれないと思うことは多々あった。

けれど、私自身はそれに応えてはいけないと無意識に思っていたのかもしれない、とも思った。


告白されて狼狽えている私と、どこか冷静な私が混在する中で。

孤独に押し潰されそうな夜、春一が自転車で来てくれたあの日の夜のことを思い出して、ぽつりぽつりと言葉が溢れてくる。



「……春。時が経てば経つほどね、思うんだ。あの時春が来てくれなかったら、私はあの後しんでたんじゃないかって」


「……」


「だとしたら、今こうして春に告白されて驚いている私もいない。春との思い出を振り返ってーー春に触ると、暖かくて、暖かくて…いつも、日だまりみたいだって、思ってたことも…全部全部夢だったみたいに綺麗に消えていたのかも」


「…詩津」



春一に触れる度、世界が色付いていくようだった。

それが自分にとってあまりに美しくてーー恐ろしかった。



「私はあの家で生きてきたから…好きだとか、よく分からないの。春にそんな風に言ってもらえて嬉しいのに、私は……心のどこかで、春から距離を置こうとしてる」


「……、」


「だからね、春。そんな私と一緒にいても、きっと幸せにはなれないよ。もっと、もっと素敵な人と幸せになってもらいたい。

春が私の幸せを思ってくれるのと同じくらい、そう思ってる」



私を救ってくれた暖かい手のひらが、愛情を知らずに育った私だけに向かうのは勿体無い。

その愛情を正しく理解してくれる素敵な人が、春一の世界にはたくさんいる。


私みたいな人間が、春一の気持ちに応えてはいけない。



「…春。今日は本当にありがとう。持ってきてくれたもの、貰って帰るね。中身は…」



だから御礼を言ってこの場を去ろう、と立ち上がったその時ーー春一に強く抱き留められた。


突然のことに思考がついていかない。

喫茶店のお客さんから、どこからともなく黄色い声が湧いた。



「は、春…?!」


「………俺が詩津を好きだと思う気持ちが、愛情だと理解してもらえなくてもいい」


「……、」


「もし、今俺に触れてーー暖かいって…此処にいたいって、思ってくれるなら。

詩津、それだけでいいんだ。拒否しないで。ただ、詩津の隣にいさせて」



春一が泣きそうな声で言うものだから、思わず涙が溢れて落ちた。

触れた箇所が心地よくて、それ以外どうでもいいとさえ思えた。


春の日差しに微睡んで、ぽかぽか日だまりに包まれているような。

モノクロの世界が、色付いていく。世界はこんなにも色鮮やかで、美しいのだと。

ただひたすら、私に知らしめる。


そんな恐れのない世界がかえって恐ろしく、そこにいてはいけない気がして、春一の身体を押した。

けれど、春一の瞳を見上げた瞬間ーー身体中の力が抜けた。



ーーーママ



どこからともなく、声が聞こえてくる。

光に溢れた、ひだまりの中。

私と春一を待っている、美しい光たち。



「…詩津…?」



力の抜けた私を、春一が慌てて支える。



ーーまってるよ



「……春…」


「ん…?」


「…赤ちゃんたちが…私たちを待ってるみたい…」


「…………ん゛?!」


「…3人…」


「ちょ…ちょっと待って、詩津…?何を言って…」



夢見心地で呟いた私。

予想外すぎる発言に声を裏返す春一。


一部始終を見ていたお客さんから「お嬢ちゃん、積極的でいいね!」と野次が飛んでくるのを遠くに聴きながら、私は思わず笑ってしまった。



「…私って、1人ぼっちだと思ってたの。でも、見えない誰かがちゃんと見てて、在るべき未来に運んでくれているのかもね」


「……、」


「春。あなたの側にいる未来が、光が…私を待っているみたい」


「…詩津」



ゆっくりと椅子に座ると、春一は優しく両手を包み込んで言った。



「…急に言われて混乱してるだろうし、片付いてない問題もあるから、今はっきりと答えるのは難しいと思う。

数日で片付けて、また迎えに来るから。その時、改めて告白させて」



あまりに突拍子もない発言がかえってきたものだから、私が混乱していると思ったらしい。


どちらにしても、確かに逃げ惑っている今の状況では何も落ち着かないのも事実。

そう思って頷くと、春一は満足そうに笑ってみせた。



「ーー大丈夫?知り合いの人はすぐに来れそう?俺が送ろうか」


「ううん。その辺りでお買い物して待ってるって言ってたから…」



連絡すると、すぐに了解と返事がきた。

それを見届けた春一が、自分のスマホを取り出して続ける。



「ついでに、男の連絡先も教えて。すぐに片付くと思うから、安心して待ってて」


「え…うん…分かった。でも、大丈夫?面倒なことに巻き込んで、ごめんね…」


「大丈夫だよ」



お騒がせしたことを喫茶店の人々に頭を下げながら、お会計を済ませてお店を後にする。



「今日持ってきた荷物だけど…次に会った時に渡すわ」



するとすぐに車が着いて、きょろきょろしながら乗り込んだ。



「うお、何このイケメン。本物?2次元?」


「八重ちゃん…3次元だよ…」


「拝んどくか…」


「やめてね…」



拝まれて困ったように笑った春一に、御礼を告げて手を振る。

いつかの新幹線でのお別れのように扉で隔たれる中で、車が動き始めた。


あの時とは違って、確かに繋がっている気がする。

感じていた寂しさも安堵もない。不思議な感覚だった。



「八重ちゃん…運命って、あるのかな」


「あるよ。私は私のことめっちゃ好きって言ってくれる外国の人と結婚してクッソイケメンの息子産んで育てる予定なんだから」


「……八重ちゃん…私、好きとか分からないと思ってたけど、やっぱり八重ちゃんのことは好き…」


「私も好きだよ。じゃなきゃ超高性能のペンタブを中学生の女子に譲渡したりしないんだよねぇ」


「ありがとねぇ…」





ーー八重ちゃんに送ってもらって家に帰り、すぐに痣の残っている箇所を写真に撮って春一に送った。


そうして数日過ごした、ある日のこと。


なんと、あれだけ執着されていたのにあっさり「別れます」と敬語で連絡が来た。

それからというもの一切連絡は来なくなり、会社で会っても怯えるようにして逃げていった。



しづ

〔春!なんか、あっさり別れられたよ…!〕


春一

〔それは良かった 多分ないと思うけど、何かあったらすぐに教えて〕

〔とりあえず、これで問題は解決したかな〕

〔詩津、土曜日は空いてる?改めて会いたい〕



あまりにも簡単に解決してしまったものだから、拍子抜けしてしまう。



「春って一体…何をしたんだろう…すごい…」



土曜日の予定を確認した後、オッケーの返事をする。

ーー会うってことは、改めて告白…ってことなんだよね…


春の気持ちを受け止めて、応えよう。




そんなことを考えながら緊張して迎えた、来る土曜日。



「詩津」



ーーー再び新幹線に乗って会いに来てくれた春一は、桜がちらほらと咲き始めた河川敷で、私と向き合って微笑んだ。



「まずは……これ、母さんから。今まで詩津が御礼で送ってくれてた分の、御礼だって」


「えっ……え!!これ、コート…!と、真珠のネックレス…?!」


「真珠のネックレスは、冠婚葬祭の時に使ってねって言ってたよ」


「も、もらえないよこんな高そうな…!」


「御礼の御礼だから。気兼ねせずに貰ってあげて」



とりあえず受け取って、「また御礼しなきゃ」と笑うと、春一も笑った。

それから少し緊張した表情を浮かべた後ーーもう一つの紙袋を差し出される。



「それで、これは…俺から」


「可愛い。何これ…これも高そうなんだけど…ルージュ?」


「そう。つけてほしくて」


「えっ、今?」


「てか、つけてもいい?」



つけてもいい?って何…?!

想定外のお願いに、何も言えず春一の行動を見守る。


可愛らしい箱を開けると、可愛らしい色のルージュが出てきた。

まるで宝石のようなそれを、春一がそっと私の唇に宛てがう。


え、何この状況…??

戸惑いながらも、薄付きのリップしかつけて来なくて良かった。なんて考えていると、塗り終えた春一は満足そうに微笑んで言った。



「可愛い」



今の私は唇だけでなく、頬から耳の端まで紅くなっているだろう。

耐えきれず俯くと、春一の掌が私の両手を優しく包んだ。



「ーー詩津」


「……はい…」



大人になった私たちは、今、時を経て手を繋いでいる。

私だけでは辿り着けなかった未来を、春一が確かに紡いでくれた。

それを辿った先に、美しい光が待っているのなら。


生きたいと望む、全てがあるのなら。




「俺と、結婚を前提に付き合ってください」




ーー小さく頷くと、瞳を潤ませた春一が私の体を優しく包み込む。

一際強く風の吹いた桜吹雪の中、待ち望んでいたように唇が重なり合う。


やがて名残惜しく離れた唇が愛を謳った瞬間、言葉は綻んだ世界を癒す魔法にもなり得るのだと知った。






* * * * * epilogue






(ママ、マーマ)


(綾瀬、綾瀬。パパは?)


(パーパ)


(かわいー…!俺と詩津の子供…めっちゃ可愛い…!)


(ごめんごめん、お待たせー…あれ、春?何してるの?)


(いや、何も)


(マーマ)


(はーい。綾くん、かわいいねー)



(詩津、お母さんからの電話どうだった?)


(うん…何か、再婚したみたい。私も良く知ってる人だった。離婚するってなった時に、すごく助けてくれたみたいで…)


(そっか。お母さん、頼れる人ができたんだ。良かったね)


(……うん…それで、小さい時のこととかも謝ってくれたんだけど…お母さんが悪くないの分かってても、まだ……上手く、答えられなくて)


(詩津…)


(今、お腹に2人目がいるでしょ?だから、もし良かったら、上の子と一緒に里帰りに来ないかって…言われててね)


(うん)


(でも、気持ちが追いついてなくて、保留にしちゃったんだけど……)


(………)


(新しい旦那さんはすごく良い人で、私にも優しくしてくれた人なんだけど……でも…)


(詩津。無理に応えなくていいんだよ、断る理由も考えなくていい。詩津がお母さんを受け入れていきたいと思うなら、少しずつでいいんだよ)


(……うん。そうだよね)


(今回は遠慮しておくって、伝えるだけで分かってくれると思う。そこからは、俺と一緒に少しずつお母さんのところに顔を出しに行こう)


(ありがとう、春…)


(詩津、泣かないで。詩津が辛く思わない程度で、上手くやっていけるように一緒に頑張ろう)



(マーマ、パパー)


(ほら、綾瀬も心配してるよ)


(オリー)


(……おり?)


(ねぇ今、お腹に向かって声掛けてなかった?)


(まさかね)








幕間「春の詩」 了








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