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はなやぎ館の箱庭  作者: 日三十 皐月
第1章 「箱庭の日常」
16/39

幕間 「あなたの瞳に映る世界は美しい」







「蛍ちゃん、絵が上手なんだね」



ーー頭上から降ってきた声に、蛍は思わず手を止めた。

ノートを隠しながらそっと視線をあげると、声の主はにっこりと微笑む。



「すごいな〜。私、棒人間みたいな絵しか描けないから尊敬する。どうやったらそんな風にリアルに描けるの?」


「周ちゃん…」


「そもそも、そうやって5本の指を描くことができないよ私」



間隔が分からなくて3本になっちゃうんだよね〜、と言って、自分のノートに手を描いてみせる周。


風船のような3本指が描かれたのを見つめながら、蛍は隠していたノートをそっと広げた。



「…私も上手いわけじゃないけど。描く時は、自分の手を見ながら描いたりするよ」


「5本の指を描こう!と思って、こう、見ながら描くでしょ?そしたらね、ほら、いつの間にかめちゃくちゃ大きくなっちゃうの。分かる?」


「わかんない…」


「だよね〜…」



親指、人差し指、中指…と描いているうちに、とんでもないサイズの3本指の手のひらが完成する。


小首を傾げながら2ページにもわたって描かれた、手のひらの数々。

それを蛍の絵と見比べながら、周は再び微笑んだ。



「蛍ちゃんって、やっぱりすごいね!」


「すごくないよ。ただの落描きだもん」


「ねぇねぇ、犬って描ける?今度うちに来て、うちのゴールデンレトリーバー描いてくれる?」


「いいよ。動物の絵の方が得意なんだ」


「嬉しい!ありがとう!」



チャイムが鳴って、授業の合間の小休憩が終わる。


周が自分の席に戻っていくのを見送ってから、次の授業の教科書を用意した後。


蛍は、そっと自由帳を眺める。

今まで誰に褒められることもなかったそれが、初めてとても特別なもののように見えた瞬間だった。






ーー平日の学校を終えて、次の日の朝。

好きな漫画を読んで夜更かしをしていた蛍は、ばたばたと忙しそうな階下の音で目を覚ます。


恐る恐るリビングを覗くと、ソファに横たわって携帯をいじっている父親と、慌てているような母親。

そして、鼻水を垂らして辛そうにしている弟の姿があった。



「あなた、みつるが熱を出したの。さとるも咳が出てるし…病院に連れて行った後実家で様子を見るから、蛍だけでも見ていてくれないかしら」


「蛍も連れて行けば?」


「元気な蛍にうつったら困るもの」


「はー…」



面倒臭そうな父親の横で、着替えやタオル、歯磨きなどお世話に必要なもの。それから冷やし枕に体温計など、看病に必要なものを急いで用意する母親。


起きてきた蛍に気がつくと、駆け寄ってマスクをつけさせた。



「ごめんね、お父さんと一緒にいてくれる?お母さん、おばあちゃんちで2人を看病してくるから」


「分かった」


「朝ごはんは机に置いてあるからね。お昼と夜は、お腹が空いたらお父さんにきちんと食べさせてもらってね。1人にならないようにね。マスクを外すのは、お母さんたちが出た後でね」


「うん」



あっという間に用意を済ませ、机や椅子など軽く消毒をした後、母親は2人を連れて家を後にした。


尚もソファに座って携帯をいじり続ける父親に、蛍はマスクを外しながら声をかける。



「…お父さん。私、公園に行きたいな」


「おもちゃならいっぱいあるじゃん、そこに」



しん、と部屋が静まり返る。

弟のおもちゃの中に、小学3年生の蛍が楽しめるようなものは見当たらない。


鬱陶しそうに背を向けた父親は、「飯食えば?」と促す。


椅子に座り、用意してくれていた朝ご飯を食べながら、蛍は負けじと続けた。



「…お友達が言ってた。近所の公園にね、新しい遊具があるんだって。古いものと交換したみたい」


「へー」


「ロケットとか、星とか、宇宙がテーマなんだって。面白そうだから行ってみたいなぁ」



ーー食べ終わっても返事はなく、諦めて食器を片す。

携帯をいじりながら欠伸をする姿を見つめていると、視線に気付いた父親は重たい腰をあげた。



「……どこにあんの?それ」


「あ…歩いて、10分くらいのところ」


「はぁ…何か水筒とか分かんないから、自分で準備して」


「う、うん!」



嬉しさのあまり、駆け足で用意する。

外着に着替え、水筒に麦茶を入れて、テレビを見ていた父親に声をかけた。




程なくして家を出て、早速公園へと向かう。

ーーお父さんとお出かけなんて、いつぶりだろう


わくわくして手を握ると、前から人が歩いてきた。

ぺこりと頭を下げたその人に、父親は片手を軽くあげて応える。



「宇留島さんじゃないですか、こんにちは」


「おー」


「子守りっすか?」


「そうなんだよ。休みでもさ、横にはさせてもらえないよな。今から公園」


「娘さんと公園かー。懐いててほんと、よく面倒見てる証拠っすね。大変っすね…」


「子育てってさ、休みたくても休ませてもらえないもんなのよ。ま、でもうちのは大人しいし案外楽よ?子育てって思ったより簡単だなって思うわ、やってるとさ」


「いやぁ、それでもお疲れ様です、本当に」



誇らしげな父親の顔と、気の毒そうなその人の顔を見比べる。

黙っていると、その人はにこにこと手を振って去って行った。





「ほら、遊んできたら」



ーーそうして公園に着くや否や、父親はそう言ってベンチへと向かった。

え?と、蛍は慌ててその背中を追いかける。



「待って、私、お父さんと一緒に遊びたくて…」


「友達いっぱいいるだろ?そのへんに。あそこに座っとくから、終わったら呼んで」



でも、と食い下がるが、父親は止まらない。

ーーその時、後ろから声を掛けられた。



「あら?蛍ちゃん」


「あ…」


「いいわね、お父さんと公園?」



声を掛けてきたのは、同級生のお母さんだった。

同級生の弟を連れて公園に遊びに来たらしく、父親を見つけて頭を下げる。



「こんにちは。お休みなのに大変ですね。子供と遊ぶのって体力がいるから、ご主人が手伝ってくれると奥さんも助かるでしょうね。羨ましいわ」


「いやぁ、ははは」



すると、父親はすっと踵を返して蛍の背中を押した。



「よし、蛍。遊ぼうか」


「え?」



訳も分からず、どんどん遊具の方へと押される。

それから、おおよそ20分ほど笑顔で遊んでくれていた父親。


しかし、



「よーし、じゃぁ帰ろうか」


「え?」



突然そう言ったかと思ったら、本当にすたすたと公園から出て行ってしまった。


慌てて後を追った蛍だったが、父親の向かった先は自宅。


靴を脱いで再びソファに寝そべって携帯をいじり始めてしまった父親に、蛍はもう何も言えなかった。


手を洗い、飲むことのなかった水筒を持って、自室で絵を描いて過ごすことにした。




「お父さん、私、お腹すいた…」



ーーしばらくして階下に降りると、いびきをかいて寝ていた父親が目を覚ます。



「あー…俺も。クーバーで頼むか…蛍は?」


「…あ…私、お父さんの作ってくれるチャーハンが食べたいな。ちっちゃい時によく作ってくれてた、」


「中華ってことね。チャーハンも頼んどくわ」


「お父さん、私…」


「はい。頼んだから、あと30分もせずに来るよ。はーーーしんどーーー…うわ、先輩だ」



着信音が鳴り響くと、父親は即座にしゃきっとした声で対応する。



「お疲れ様です。はい。はい。あぁ、いや、ちょっと今日は。奥さんに頼まれて子守りとかしてまして…はい。公園行ったり飯食わせたりとか家のことですね」


「……」


「あはは、いやいや。あぁ、でも全然手がかかんないんで、夜からなら置いて出られるかもしれないですけど、はい。

夕飯用意したりとか、ちょっと調整してみます。また連絡します」



その後はまるで、その場にいないかのように振る舞われーーリビングの机で学校の宿題をするなどして1人暇を潰す蛍。


やがてチャイムが鳴って食事が配達され、机を綺麗にして、父親の代わりにずらっと並べてみたものの。

空いていたはずのお腹に、それらは全く入っていかなかった。



「なんだよ、頼んだのに食べないの?」


「うん…」


「お腹空いたって言ってたのに?具合悪いんじゃない?」



そう言った途端、父親の顔がぱっと明るくなる。



「あ……そうか。具合悪いのか。じゃぁ、ママのところ行くか?」


「え…?」


「食欲ないなら、おばあちゃんのとこに行って看病してもらった方がいいよ、絶対。泊まる準備自分でできるだろ?忘れ物ないようにね。持って行けないから」



言われるままに泊まる準備をすると、車に乗せられ、あれよあれよと言う間に蛍は祖母の家の前に降ろされた。


悲しく思う間もなくチャイムを鳴らすと、母親が出迎える。


我慢できずに抱きついて泣くと、母親は驚いたまま強く抱きしめ返してくれた。



「お母さん、私、お腹空いた…」


「まさか、食べてないの?」


「お父さんが用意してくれたんだけど、私、食べられなくて、そしたら、具合悪いんじゃないかって…それで…それでね…」




ーーそれから、数日後には弟たちの熱も下がり、蛍たちは家へと戻ってきた。


両親はしばらくの間何か言い争っていたが、やがて2人が会話をする姿を見ることはなくなった。



そんなある日。



「蛍ちゃん、いらっしゃい」


「お邪魔します」



いつかの、ゴールデンレトリーバーの絵を描くという約束を果たす為ーー蛍は周の家を訪れていた。


優しく出迎えてくれた周は、良く日の当たるリビングへと蛍を導く。



「お外にいるからね、ウッドデッキに椅子と机と、色鉛筆と画用紙を用意したんだ。描けるかな?他にいるものってある?」


「十分だよ。私、ちょっとお絵描きするくらいかと思ってたんだけど、こんなに、あの…本格的だったんだね…びっくりした…」



十分すぎるほどに用意してくれていた道具の数々を眺めながら席へ座り、自身の持ってきていた道具を机に広げる。


好きなシャーペンや鉛筆、消しゴム、色鉛筆、色ペンなど出していると、周の目はきらきらと輝いた。


そこへ、周の父親がひょっこりと現れる。



「やぁ、初めまして蛍ちゃん。周のパパです」


「あ、こんにちは…お邪魔してます」


「おぉ、なんて礼儀正しい子なんだ」



大仰に振る舞う周の父親。

変わったお父さんだ…と思いながら見つめていた蛍に、周の父親は優しく微笑んで見せた。



「周といつも仲良くしてくれてありがとうね。絵が上手だって聞いたよ、画用紙たくさん用意したから、好きなだけ描いてね」


「ありがとうございます」


「あ、色鉛筆もこれ、すっごい描きやすいって有名なやつだからね。これ、持って帰っちゃっていいからね」


「え…え?」


「もう、パパ。蛍ちゃんがびっくりしてるでしょ」


「ごめんごめん、周がお家にお友達連れてきたのなんて初めてだからパパ、舞い上がっちゃって」


「ごめんね蛍ちゃん。気にせず描いてね!私、隣にいていい?邪魔にならない?」


「ならないけど…」


「良かった!じゃぁ、シエルを呼ぶね。あ、あの子シエルっていうの」


「じゃぁね、楽しんでね」



にこにこ手を振って、すっといなくなった周の父親。

蛍はぺこりと頭を下げた。


それから、まずは絵を描く前に、シエルと呼ばれたゴールデンレトリーバーをじっと観察するところから始める。



「…周ちゃん、パパさんと仲良いんだね」


「え?そうかなぁ。でも、パパのことは好きだよ」


「ソファに寝転がって携帯いじったりとかしないの?」


「うち、革張りのソファだから…座ってることはあるけど、寝転がったりはしてないかなぁ。休む時はベッドで寝転がってるみたい」


「うーんと、そうじゃないんだけど…。まぁいいか」



家族の写真がたくさん飾ってあるリビングをちらりと振り返り、蛍は一つため息をついた。



「…私ね。実は今、お家に帰りたくないんだ」


「えっどうして?」


「お母さんのことは大好きなんだけど、弟たちに手がかかって忙しいし。お父さんはずっと部屋に閉じこもるか、携帯かパソコンいじってばっかりで」


「……、」


「帰っても、ご飯食べて寝るだけなんだもん。好きなものの話とか、今日あったこととか、誰も聞いてくれない」


「……蛍ちゃん…」


「…でも、周ちゃんのお家は暖かいね。周ちゃんのパパは、初めて会う私にも優しくって、色鉛筆までくれようとするし。周ちゃんは、私の絵を褒めてくれるし」



前に向き直って、たくさんの色鉛筆の中からシエルの毛並みの色を選んでいく。



「私、絵を描いてること家族にも誰にも言ってなかったから…周ちゃんが褒めてくれて、すっごく嬉しかった」



瞳の色や口の色、鼻の色まで良く観察して選び終えると、蛍は用意してもらっていた椅子にそっと腰掛けた。



「いつか上手に描けるようになったら、お母さんが忙しくない時に見てもらおうと思って。それだけ考えてずっと描いてたんだけど…。周ちゃんにすごいって褒めてもらえたから、描きたい理由が増えたよ」


「……」


「だから、ありがとね。周ちゃん」



画用紙に向き直って、鉛筆で下絵から描き始める。


すると、すっすっと鉛筆が画用紙の上を走る音が青空の下に響く中に、ひっくひっくという音が混ざった。


驚いて顔を上げると、隣の椅子に腰掛けた周がしゃくり上げて泣いていた。



「あ、周ちゃん?」


「蛍ちゃん…私、私…」


「泣かないで、私何か言ったかな?どうしよう、パパさん呼ぶ?」


「ううん、違うの…!だって、蛍ちゃん…いつもそんなこと思ってたんだなって…それで、私…」


「え、え?」



感情豊かな周に戸惑いながら、持ってきていたハンカチを手渡す。

周はおろおろと受け取って涙を拭くと、蛍の手を優しく握りしめた。



「ね、私たち、たくさんお話ししようよ。一緒にたくさん絵を描こう。たくさん色んなところに遊びに行こう」


「…う、うん…」


「蛍ちゃんは、どんなものが好き?行きたいところはある?話したいことを教えて。

お父さんたちは今、ちょっと忙しくて、蛍ちゃんのやりたいこと一緒にできないかもしれないけど…私、時間ならたっくさんあるよ!」


「……」


「お父さん達に時間ができるまで、私と一緒に遊ぼう」



ーーぶわっと目の前が滲んで、頬に生暖かい感触が幾つも伝う。

大粒の涙がぼろぼろと溢れ出して、周の優しい手に落ちては弾けていった。



「わ、蛍ちゃん!蛍ちゃんまで泣かないでよ〜!」



その後、しばらくの間2人で涙を流した。

溜め込んでいた全てを出し切るように泣いた蛍の顔は、どこかすっきりと晴れている。


画用紙に向き直って再び絵を描き始めていると、周は言った。



「私ね、お菓子作るの好きなんだ。今度食べてくれる?」


「えっ、お菓子作れるの?すごいなぁ…」


「ふふ。自分にできないことができる人って、すごいな〜って思うよね。私にとって、蛍ちゃんがそうだよ」



色のつけられていく画用紙の中のシエルを見つめて、そう嬉しそうに話す周の顔はとても優しい。







それから、数日通って描き上げたシエルの絵。

蛍のお母さんに見せてあげて、と促されて持ち帰ったその日、家の中はとても静かだった。


リビングを覗くと、静かに怒っている様子の母親と、とても申し訳なさそうに眉根を寄せる父親の姿があった。


弟達はいつもと違う2人の様子に戸惑っているのか、緊張した面持ちで大人しく椅子に座っている。



「ーー無理に決まってるでしょ…やったこともないし、充だってまだ小さいのに。私にほとんど任せるつもりで言ってるなら、それは無理。1人でやってください。離婚しましょう」


「いや、いや…。俺、本当に心入れ替えたんだよ。母さんに怒られて、自分が今までどんな態度で家族と接してたのか分かったし、これからどうしたらいいかも分かったんだ」


「それがどうして、農家を継ぐって話に繋がるの」


「会社のストレスで、家族を蔑ろにしてた…だから、会社から離れて、もっとお前たちと関わろうと思って」


「それが今更だってことも分かってる?」


「分かってる、分かってる…。この前2人が熱を出した日…蛍の世話した日のこと、お前にめちゃくちゃ怒られて…正直、面倒見てやったのに何キレてんだよって思ってたけど…今ならどんだけダメだったか分かるよ…」



しおらしくなって母親に語りかける父親の姿は、今まで見たことがなく。

描いた絵を抱きしめながら、扉越しに耳を傾けた。



「子供が3人になってもまるで変わらなかったあなたが、すぐに変われるとは思えない。子供の前だから声を荒げたくないけど、今私が複雑な思いで話してるってことだけは忘れないでください」


「…ごめん…悪かった」


「私が大変な横で、あなたはずっと平気な顔して寝転がってたのよ?手伝ってほしいと言えば面倒臭そうに、ちょっと手伝ってくれたと思ったらまた寝転がってスマホ」


「……そう、だな。そうだったかも」


「挙句に、1人でできないのはお前の要領が悪いだけだって言ったのよ。

蛍が生まれて10年間、毎日毎日ずっとそうだったのに。どうして信じてついてきてくれるだろうって思えるの?」


「分かってる…すぐに信じてもらえなくていい。でも俺…頑張るから。会社を言い訳にしてたんだ。でも、これから農家を継げば…」


「何が変わるの?」


「…家に…関われる時間が増えるし…皆で野菜作れば…」


「子供や私をあてにしてるってこと?」


「は?いや、あてにしてるも何も…人手はいるだろ?蛍も大きいんだし…」


「お義父さんもお義母さんも、あなた1人で頑張れるならって約束で農園を譲ってくれるんでしょう?それを、」


「ーーじ…自分がやりたくないからって…さっきからごちゃごちゃ…!家族なんだから、手伝ってくれたっていいだろ!」



一際大きな怒声が響き、家の中がしんと静まり返る。


驚いて泣き始めてしまった弟を、小さくため息をついた母親が優しく抱き上げた。



「私は、あなたが本当に変わってくれるまで。3人の子育てと家事をしながら農作業をしなくちゃいけないの?一体何年かかるの?」


「……ごめ、今のは…言い過ぎたけど…」


「蛍を産んで、全く思いやりのないあなたを見てから、でも2人目を産めばきっと、いや3人目ならきっと変わってくれるって…いつも期待して打ち砕かれてきた。

だからもう期待したくないの。やりたいなら1人でやればいい」


「待てよ、悪かった。違うんだ、」


「あなたは結局何もしない。大きなことを言って農家を継いだって、疲れたーって自分のことしかしないあなたの姿が見えるわ」


「……そんなこと…」


「前に働いていたところが、戻ってきてもいいよって言ってくれてるの。だからあなたのお世話はもう終わりにさせて。今の話を機に決めた、私はもう、子供達のお世話以外しないから」



ーーだめだ、と。

蛍は咄嗟に扉を開けていた。

驚いた2人に見つめられながら、蛍は必死に思考を巡らせる。



「わ、私、皆で、皆でおじいちゃんのお野菜作りたいな…!」


「蛍…」


「ね、いいでしょ?お母さん、私、できる時にたくさん頑張るから。お父さんのお手伝い頑張るから、ね。家族で同じことするの、すごく、いいと思う」


「……」


「やってみようよ。ね、がんばるから…」



何か言わなくては、何かが壊れてしまうような気がして、必死に言葉を紡ぐ。


一生懸命笑顔を浮かべてみせると、辛そうに眉根を寄せた母親が、弟を抱えたままそっと側に寄り添った。



「…ごめんね、蛍も慧も、もうたくさんのことが分かるのに。こんな話をしてごめんね」


「……っ」


「こんなに震えるくらい、勇気を出させてごめんね。蛍…」



蛍の震える手を潤んだ瞳で見つめた母親は、一つ大きく溜息をついた。

それから、ゆっくり父親の方を振り返る。



「子供たちにはさせられない。家族を人手として数えないで、あくまであなた一人でやってください。一人でできないならやらない方がいい」


「……分かった…で、でも。蛍もこう言ってくれてるし、子供たちが手伝おうとしてくれるのはいいよな…?」


「手伝わない日が続いた時に、手伝えよって怒鳴ったり、何で手伝わないんだ?とか手伝うことを促したりしないって約束できるなら」


「あ、あぁ…」


「蛍の優しさにつけ込まないで。この子がどれだけ勇気を出して、あなたの案に賛成したのか。ゆっくり考えて、お願いだから踏み躙らないで」



ーー見ないようにしていた小さな綻びが、蛍の前にその存在を主張する。

蛍はそれと向き合い、解くための一歩を踏み出したのだ。


母親の手のひらを、そっと握りしめて。






「こんにちは」


「いらっしゃい、蛍ちゃん」



ーー後日、蛍は果物を手土産に周の家を訪れていた。


大きなメロンを見て目を輝かせた周は、「メロンのケーキ、作ったら渡しに行くね!」と嬉しそうに言った。


周の母親の美味しい手作りお菓子を15時のおやつに食べながら、2人は仲良く談笑を始める。



「それで…絵はどうだった?褒めてもらえた?」


「うん。お母さん、何でか分からないけど泣いちゃって大変だった。誕生日に絵を描くセット買ってくれるんだって。ちょっといいやつ」


「良かったね!こっちもね、額縁用意したよ」



周はシエルの絵を受け取ると、画用紙にぴったりのサイズの額縁を蛍の前に置いてみせた。


げっ、と正直な反応をした蛍に、周は微笑む。



「じゃーん!リビングに飾るんだ〜」


「やめてよ、立派すぎるよこれ。一生懸命描いたつもりだけど、普通に…そんな、飾ってもらえるようなあれじゃないし…」


「蛍ちゃん。蛍ちゃんは好きな漫画を本棚に飾る時、飾ってもいいですかって作者さんに聞かないでしょ?私も一緒!」


「いや…え…?」



ご機嫌で額縁に絵を入れる周に、蛍は困惑しながらも嬉しい気持ちを噛み締めていた。


美味しいおやつを食べ終わり、額縁に入った自分の絵を見つめながら。

蛍は呟くように話し始める。



「…実はさ。お父さん、おじいちゃんの農園で野菜を作ることになってね。だから、おじいちゃんのいる隣町の小学校に引っ越すことになったんだ」


「えっ?」


「まだ先だけど」


「…そっか…」


「離れ離れになっても、友達でいてくれる?」



蛍の報告を聞いて今にも泣きそうな顔をしていた周だったが、その言葉に強く頷いてみせた。



「勿論!お手紙も送るし、遊ぼうって電話くれたらそっちまで行くよ〜!」


「いやいや、私が行くよ。今日みたいにおじいちゃんの果物プレゼントしたいし」


「あ!じゃぁ、交代にする?蛍ちゃんがうちに来て果物くれたら、私が次に自分の作ったお菓子を持ってそっちに行くのはどう?」


「うーん。そうだね、それもいいね」


「楽しみだな〜。でも、寂しいな〜…」



喜んだり悲しんだり。

ころころ変わる周の表情は、蛍にとってとても新鮮に映った。



「周ちゃんって、面白いよね」


「えぇ…悲しんでるのにひどい…」


「いやいや、なんか。色んな顔するから、見てて飽きない」


「私、隠せないんだよね。蛍ちゃんみたいにクールになりたいな〜」


「周ちゃんはそのままがいいよ。あと、別に私クールってわけじゃないよ」






しばらくして、報告した通り、蛍は隣町へと引っ越して行った。


農家を継いだ父親の手伝いは、ほとんどする必要などなく。

どちらかというと働き始めた母親のフォローに回ることが多かった。


農作業をしている時以外は家にいるようになり、子供の世話も頻繁にするようになった父親は、以前よりずっと朗らかな顔をするようになった。

母親の笑顔も増え、弟たちが怒っている父親に怯えることも無くなり。


蛍もまた、気持ちの穏やかな日々を過ごしていく中で。

そう近い距離ではなかったものの、2人は頻繁に会い、お互いに一番仲の良い友人として遊び続けていた。


小学校を卒業し、中学校を卒業し、そして高校生に。


それぞれの高校で、家庭科部に入った周と、美術部に入った蛍。



「なんか、ずっと一緒にいるけど…これから先もずーっとこんな風に過ごしてる気がする」


「分かる!なんか不思議だよね〜」



そんな2人が、はなやぎ館で一緒に過ごすようになるのはーーもう少し先のお話。







*   *   *   *   *   epilogue







(うちの学校にね、めちゃくちゃ美人な先輩がいるの!)


(ふーん?)


(学年が2つ上なんだけどね、もう本当に綺麗で…この前私、勇気出して部活で作ったお菓子あげちゃったんだ〜)


(いいね、楽しそうだね)


(すっごい喜んでくれて、その後どうなったと思う!?次の日、私のためにお弁当作ってきてくれたんだよ!)


(お、おお。そりゃすごい)


(学食勢だから学校でお弁当食べるの初めてでね、感動しちゃった…!めっちゃくちゃ美味しかったの!)


(美人の作った弁当かぁ…付加価値すごいなぁ)


(もうね、ほとんどアイドルみたいな存在の人だからさ、男女問わず人気があって。それでお弁当友達とかに羨ましがられてね、私がもらったのに取り合いになっちゃって…事情説明して職員室で食べさせてもらったんだ〜)


(いや付加価値が過ぎるでしょそれは)


(芹先輩の作ってくれたお弁当奪われそうなんです!匿ってください!!って言ったら、そりゃ大変だ!って特別に入れてくれた)


(面白い学校だなぁ。というか、その芹先輩の存在がすごすぎるのか…)


(お弁当箱洗って返した時に、またお菓子作って渡したんだけど。来週またお弁当作ってきてくれるんだって!)


(周が楽しそうで良かったよ)


(もうね、最高だよ〜!蛍がいたらもっと楽しかった!)


(…あ、そういえば…そっちの学校、知り合いが通ってるって言ってたなぁ)


(そうなの?同い年?)


(ううん、一個上。学校の話って聞いたことなかったから、今度聞いてみよ。そのアイドルみたいな人の話)



(というかちょっと…この本棚、いつまでこうしてるつもり?)


(いいでしょ?蛍ゾーン。早く単行本出ないかな〜)


(デビューの刊、ネットで10冊くらい買っちゃったーとか言ってこんなことになってるけど…単行本ではやめてよね。大事なお金なんだから、もっと有意義なことに使ってよ)


(有意義だよ!見て、このデビューの表紙…。こうやってずらーっと並べてさ、ほら。圧巻!単行本でもやるんだもん)


(分からん…君のことが分からんよ周…)


(連載忙しそうだけど、ちゃんと寝られてるの?)


(寝れてるよ。深夜まで描いてて寝坊する時もあるけど)


(体だけは大事にね。ああ、心配。近くで支えられたらいいのに!一緒に住む?)


(無理無理。生活リズムが違い過ぎるよ)


(部屋数が多くて広いアパート借りたら気にならないかな?よし、お金貯めるぞ〜!)


(はいはい)







番外編 「あなたの瞳に映る世界は美しい」 了




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