ほんとはわたしもがよかった
ほんとは、って、魔法みたいな言葉ですよね。
だって、もうありえないことだって望めるでしょう。
子供時代、ほんとはみんなと一緒に遊びたかった、とか。
ほんとはお金持ちになって立派な豪邸で暮らしてみたかったとか。
どんな素敵な恋をしてみたかったとか。
理想的な家族とどんな時間を過ごしたかったかとか。
人が簡単に手にしているものが、自分には生まれつきどんな努力をしたって手に入らないなら、みじめですよね。
例えば貧乏だって苦しい。
困難な日常は、我慢を当然にしてしまう。
自分の幸せを諦めたとき、愛する人達の幸せに夢を託す。
「すっぱい葡萄」の論理で、欲しがるのをやめる。自分がいなくなる。
ほんとは、人が手にしている幸せを自分も手にしたかった。
不公平な世の中に心は子供のように泣いていた。
例えば、発達障害の親を持てば自分が面倒を見ていかねばならない。
ほんとはどんな親がよかっただなんて親の前で言ったら生きていけない。
表現は抑圧され、感情は抑圧され、生きる喜びは失われ、意欲は失われます。
自分がほんとは何が欲しかったか完全に忘れる、ちょうどそのとき殺される。
社会で生きれば責任が課されますね。
上品な大人であることを求められる。恥ずかしいことは言えない。
みっともないことは言えない。尊厳を失えば、利益を失う結果になるから。
それに、どうしようもないことについて不満を言い合ったって仕方ないし。
でも大人の中にだって、叶うはずのない幼稚な願望が山ほどありますよね。
若者は夢をいだく。
大人はそうでもない。今さら叶うはずのない話をしても現実味がないから。
恵まれない若者もそうでもない。恵まれない生まれによって将来は限られているから。
夢なんて、持てない。社会は、階級社会だから。才能や努力や実力なんてなんにもならないことがある。
だから、ほんとは、って話もいいですよね。
現実味のない叶うはずのない話にこそ価値がある。
人が手にしているものを眺めて、ほんとは自分もそれを手にしたかったと考える。
自分が弱くみじめな存在であることを認める。
今や絶対に手に入らないものたちを、幼い頃からどんなに渇望して努力しつづけてきたか認識する。
人生の膨大な努力が水泡に帰すると生まれたときから約束されていた現実を認める。
才能や努力や実力について見下される自己欺瞞を無視して、「いいなあ」と言う。
いいなあ、って、人の幸せを横目で見てる。
そんなジメジメした生き物。それが身の丈という場合がありますね。
身の丈で生きれば、殺されない気がします。
だから、羨ましいと感じたら、その気持ちを埋めてしまうよりも、掘り起こすべきかな。
みじめなのも、愛嬌ですよね。そういうことにします。