後
本日も学校からアルバイト先へと直行する。利用客が少なくキザキもいない日で、いつにも増して楽な日だった。
「居候くん大丈夫そ?」
受付で手作業をしながらリカがさりげなく聞いてきた。リカも唯が男をほいほい泊めるような性格ではないと知っているから心配してくれている。
「意外と気にならないです」
「唯ちゃんのテリトリー内に入れられる人なんだね」
自分でもよくわからないが、たとえばキザキが同じように困っていても家にあげることはなかったと思う。志葉が自分の生活領域に踏み込んできても不快感がないのはそういうことなのだろうか。いま留守宅で好き勝手にしていることを想像しても嫌な気がしないのは不思議だ。
「志葉くんって昔はどんな感じだったの?」
中学時代にクラスで起こった男女紛争のことを脚色せずに話すと、彼女は笑いを堪えながら聞いてくれた。自分で話していても内容のあまりの幼稚さに、なぜあんな喧嘩が勃発したのか意味がわからないほどだ。彼女にとってはそんなくだらない話もすべてネタの肥やしになるから嬉しいらしい。喜んで聞いてくれるからつい調子に乗って、卒業式の最終バトルの話もしてみると彼女はすこし遅れてふうんと鼻を鳴らした。
いつにも増して客の来ない楽なバイトが終わってバスで帰宅する。気分よく玄関の扉を開くとそこには行き倒れている志葉がいた。
廊下には買い物袋から飛び出した食料が散乱し、靴は片方が脱げかけたまま。おそらく食料調達した帰り、玄関で靴を脱ぐとき眠気に負けてそのまま寝落ちしてしまったのだろう。
他人が見たら殺人現場と誤解されてもおかしくないその光景に、唯は吹き出しそうになるのを堪えながら静かに写真を撮った。玄関のライトはついておらず、リビングから漏れる光しかないせいで余計に事件性が強く見えておかしくて仕方がない。
睡眠は取っていると彼は言っていたが、こういうのは睡眠ではなく気絶と呼ぶ。この調子でイベントを乗り切るつもりなのだろうか。兄も一時期似たような行動をしていたせいもあり、変なところで寝ていても気にしないが、帰宅して玄関を開けた先に人間が落ちていれば笑ってしまう。
念のため、仰向けで倒れている彼をのぞき込み、前回と同じように生存確認のため寝息を確認する。無呼吸になっていないか、静かに耳を近づけてみると規則正しい寝息が聞こえた。
せっかくの機会なのでじっくりと観察し、乱れた髪を撫でて整えてみる。アイドルという雰囲気ではないにしろ、スタイルがよくて涼やかな目元は悪くない。個人的には淡々としたしゃべり方や声が気に入っている。清潔感があって年頃の青年にしては所作がきれいだから、おとなしくしていれば良いところのお坊ちゃんに見えなくもない。
面影はそのままなのに、すこし大人になっただけでずいぶんと見え方が変わるものだ。大学内で一緒に行動することはないから知らなかったけれど、エリナ曰く有名人らしいから、もしかしたら女の子から人気があるかもしれない。彼が女の子と一緒にいるところなんて想像できないと、唯は自分のことを完全に棚に置いて志葉の日常をあれこれと妄想していた。
考えているあいだずっと彼の髪を捻りまわしていたせいか、人の気配に気づいてか志葉が薄目を開けた。
ぼうっと天井を見ながら腕を伸ばす。起きるのかと思ってよけようとすると、その手に首を掴まれ、顔を引き寄せられて唇が重なる。
唇はほんの一瞬、わずかに触れ合っただけですぐに離れた。首を掴んでいた手からもすこしずつ力が抜け、滑り落ちてぱたりと志葉の胸の上に落ちた。
目の前に横たわっている男からふたたび深い寝息が聞こえてくる。唯はその寝顔をじっと見下ろし、志葉の薄い唇に自分から唇を重ねてみた。唇を離しても微動だにしない志葉をしばらく眺めたあと、そろりと立ち上がってリビングへ移動した。
◇
朝になり寝室の戸を開けると志葉はパソコンに向かっていた。イヤホンをしてゲームに集中しているから唯が出てきたことに気づいていない。唯は邪魔せず真っ直ぐ洗面所に向かった。
昨夜はいろいろと気が動転して髪を乾かしきるまえに寝てしまったから、唯の髪は芸術的な寝癖がついていた。
顔を洗っていると眠気が徐々に抜けていき、ようやく昨夜のやらかしが頭のなかを駆け巡りだした。なんの雰囲気に飲まれたのか、なぜあんなことをしたのか自分でもよくわからない。志葉にキスをされたこともさることながら、そのあと自分からしてみた理由もわからず顔を覆った。これがいわゆる「魔が差す」というものだろうか、昨日はなんともなかったのに、いまになって心臓がばくばくと音を立てはじめた。
頭のなかと同様にこんがらがった髪の毛を洗い直し整えてからキッチンに向かうと志葉が待ち構えていた。
「おはよう。ちょっと頼みがあるんだけど」
彼の様子はいつも通り。昨夜のことは完全に寝ぼけていて記憶に残っていないのかもしれない。
「西校舎にある学研会の、誰でもいいからこれ渡してほしい」
「うん、いいよ」
「行けばたぶんわかる」
例の学研会に使いを頼まれ、差し出されたメモを受け取った。電話かメッセージかなにかで済ませればいいのに、と思っているとそれを見透かしたように、誰の連絡先も知らないから、と説明が追加された。
緊張から動きがどうしてもぎこちなくなってしまうが、志葉は本当に覚えていないのかけろっとしていた。
表情は元から乏しいから感情を読み取られることはない、大丈夫、と自分に言い聞かせていつもより早めに家を出る。お使いを頼まれたというのもあるが、志葉から向けられる視線をどうしても意識してしまい落ち着けなかった。
一番古い建物である西校舎にはサークルの部室が入っている。行けばわかると言われた通り、校舎に入って廊下を見渡すと奥に明らかに異質なエリアが見えた。廊下に小汚い応接セットが置いてあり、ふたりの男性が座って喋っている。
近づくとふたりは唯に気づいて顔だけこちらに向けた。顔つきからして先輩であることは間違いないが、四年生以上の年齢に見えなくもない。朝からいるのに講義に出る風でもなく、服装もだらしなくまるで家でくつろいでいるような様子だ。
「学研会の方ですか?」
「なにか御用かな」
「志葉くんからメモを預かってきました」
ふたりの顔つきが突然変わり、立ち上がり唯に向かって姿勢を正した。
「これはこれは、シヴァ神君のお知り合いでしたか」
ここでのニックネームなのか、先輩は志葉の名前を変なアクセントで呼んだ。唯は手に持っていたメモを差し出すと、ふたりは頭を寄せ合ってメモの中を確認している。ちいさなメモ紙を二つ折りにしてあっただけで唯は中を見ていない。ふたりはなにやら深刻そうに話し合っている。
先輩たちがごにょごにょと意味不明な会話をしているのを見て、唯はお辞儀をしてその場を離れようとすると肩を掴まれて引き止められる。もうそろそろ一限がはじまるから、と言って逃げようとしてもまったく耳に入っていないのか質問責めになった。
「シヴァとはソウルメイトで?」
「……志葉くんとは中学の同級生です」
水漏れでパソコンが壊れたこと、いまはゲームの大会前で唯のパソコンを使って練習に集中していて大学には来られないことを説明した。先輩はふんふんと相槌を打って人の話をちゃんと聞いている様子だったのに、返ってきた返事は明後日の方向だった。
「君が救世主だったのか」
「いや、彼を救ったのはパソコンです」
「我々はいつも無力だ」
人の話をまったく聞かない先輩は芝居がかった泣き真似をして絡んでくる。同好会の苦労話や志葉の活躍を延々と聞かされていたが終わりが見えないことに気づき、先輩の話をぶった斬って逃げるようにその場を離れた。あんな変な人たちと志葉が談笑している姿はいまいち想像ができない。変な先輩ではあるけれど志葉は大学でも相変わらず男子学生からの受けがいいらしい。そして同好会のメンバーには女子がいないと知れて唯はすこしほっとしてしまった。
志葉に任務完了のメッセージを送ると、スマイルマークだけが返ってきた。この呑気な返信を見て、朝から引きずっていた気まずさが吹き飛んだ気がした。
本日はアルバイトの予定はない。日用品の買い出しをしてから家に帰るとめずらしく志葉は不在で、ちょうど良いから家中の掃除をはじめた。
シーツを交換し、洗濯機を回しながら徹底的にすみずみまで掃除をする。最後に長風呂しながらついでに浴室を掃除をする。風呂からあがってリビングに行くといつのまにか志葉が戻っていた。
「あ、おかえり」
うっかり言ってしまい慌てて口をつぐんだ。居候の人におかえりと声をかけるのはどうなのだろうと戸惑っていると志葉からは普通に、ただいまと返事が返ってきた。
家中の掃除が終わり、ソファに落ち着いてモニターをつける。映画の配信チャンネルで最新タイトルをざっと流し見して好きなホラー映画のジャンル内を検索していると、はじめて志葉がパソコンから離れて唯の隣に座った。
志葉が手を出してきたから、リモコンを渡してみるとアクションのジャンルに移動して同じように映画を探しはじめた。
「ゲームの調子どう?」
「順調、順調」
ゲームや大学での話を適当にしながら映画を選んでいると、そういえば、と言って志葉が部屋の家賃を聞いてきた。
「ああ、大丈夫。ここ格安なの。事故物件だから」
志葉がビクッと身を縮めてからゆっくりと唯を見た。
「兄の入居前に住んでいた女性がここで……」
「わーやめろやめろ! しかも直近かよ」
いきなり片手で口を封じられ、唯は驚いて固まる。怖い話が苦手なのだろうか、いつも冷静な志葉が妙に焦っていた。映画のようなパラノーマルなことはいまのところ起きていない。顔を掴まれた手を剥がして質問する。
「そんなこと気にするの?」
「そんなことって、無敵か香坂家」
管理会社から教えてもらった話はなかなかに壮絶な内容だったから、本当に怖がっている志葉に詳細を伝えるのはやめた。向かう所敵なしと勝手に思っていた志葉の弱点を知って、唯はなぜだか気分がよくなった。
中学のときにこの事実が周囲に知られていたら、女子の完封試合で終わったことだろう。そんな別の世界線を想像してにやけていると、志葉がまるで唯の考えていることを読み取ったように、目を細めて横目で睨みつけてきた。
「変なことするなよ」
「しないって」
はじめて見る志葉の様子が面白くてつい笑ってしまった。いじめてみたい気持ちがすこしだけ湧いたけど、居心地悪そうにする彼が気の毒に思えて話題を変えることにした。
「そういえば中学のクラス会、志葉くん来なかったよね」
「海外にいたときかな」
「えっ」
「うちの学校そういうプログラムがあって、親から世の中勉強してこいって強制的に国から追い出された」
親に家から追い出されるという話は聞くが、国から追い出されるというのはなかなか聞かない。唯の高校でも交換留学制度はあったが、成績優秀で品行方正な生徒でないと審査が通らなかったはずだ。
進学校に入った志葉がいったいどんな高校生活を送っていたのか、いまさら興味が湧いてきた。
「海外生活どうだった?」
「LANパーティー楽しかった」
大きな家に大人数で集まって、パソコンを持ち寄り一緒にオンラインゲームをしたということを楽しそうに話している。やっぱりゲームなのかとつられて笑ってしまう。なにを話していてもすべてがゲームに帰結する。好きなものの話をしているせいか志葉からはさきほどの怯えぶりは消えていた。
映画はつけたものの流しっぱなしで、志葉はゲームの話に夢中でちっとも見ていなかった。
唯は普段からゴースト系やホラーサスペンス映画ばかり観ていて、アクション映画や恋愛映画、ファミリー向けなどはあまり選ばない。志葉が苦手なら今後はホラージャンルは観れないなと思ったところで、なぜ彼の趣味に合わせようとしているのか自分の思考にはっとした。
ふたたび気まずさが頭をもたげ、自室に引っ込もうと立ち上がると志葉が腕を掴んできた。そんなに事故物件の話が怖かったのかだろうか。
志葉のアパートは被害が大きく工事には時間がかかるらしい。不動産管理会社が代替部屋をちゃんと用意してくれるということだったが、ゲームに忙しくてまだなにも話を進めていないと言っていた。だからまだしばらくは唯の家にいるのかと思っていたが、ゲームイベントさえ終了すればこんな家すぐに出て行ってしまうかもしれない。事故物件だなんて言うべきではなかったととても後悔した。
志葉に腕を引っ張られ唯はもう一度ソファに腰をおろす。悶々とした考えは定まらないまま無言でいると志葉が聞いてきた。
「昨日、俺たちキスしなかった?」
「した」
「そっか。よかった、夢かと思った」
嬉しそうに笑う見たこともない表情に不意打ちを喰らい、恋に落ちる瞬間を自覚した。
志葉が近づいてきても唯は逃げなかった。今度は寝ぼけてでも寝込みを襲うでもない、ちゃんとしたキスをする。
物語の中で呪いを解く方法は、呪いをかけた魔法使いを倒すか、王子様と真実のキスだったはずだがこの場合はどうなるのだろうか。
呪いをかけた魔法使いとキスをすることになるとはなんとも皮肉な話だ。
◇
アラームがいつもの時刻に鳴り出し目が覚める。頭は冴えているが、寝返りを打つのも億劫なほど全身がだるい。
大会当日、さすがに試合に備えて睡眠を取ることにしたらしく志葉の寝床はこんもりとして、かすかに上下に動いていた。
アルバイトに行く準備をしてのらりくらりと家を出て、バスに揺られながら窓に貼られた広告のマンションの間取りなどを眺める。まだいつ出ていくのか志葉は言わないし、唯も訊かない。ゲームイベントが終了してしまえば唯の家にいる理由はなくなるし、あの怯え方からするとひとりであの部屋にいられるか怪しいところだ。
夜のピークもすぎたころ志葉が店に入ってきて接客中の唯に代わってリカが対応した。彼は常連でもあるから以前からリカにも覚えられているが、キザキが流した「唯のお持ち帰り客」として従業員のあいだでも有名人になってしまっていた。
唯が隣で新規客の登録手続きをしているあいだ、彼らの会話を聞く。
「大会どうだった?」
「勝ちましたよ」
志葉は目標を達成したからもう別のゲームに移ったと言ってリカを驚かせていた。
「それだけ夢中になっていたのによくあっさり手を引けるね、私なんて十年も同じ過疎ゲーやりつづけてるわ」
「よく飽きませんね」
「いや正直辞めたいんだけど……っおお?」
会話の途中でリカが急に変な声をあげた。
何事かと頭だけ傾けてパソコンをのぞき込むと、彼女は社員しか使えない権限を使い志葉の利用履歴を見ていた。
画面には利用日や時間帯などが映し出されている。アルバイトが社員の許可なく顧客情報や履歴を閲覧することは禁止されており、誰が閲覧したか形跡が残るようになっている。別の店舗でアルバイトが好みの女性客の個人情報や利用日パターンを閲覧して、同じ日にシフトを入れていたことが発覚しクビになったことがあった。いくらここの社員が緩くても、正式な理由がないかぎりバレたらリカも注意ではすまされないかもしれない。
彼女のために止めようとするとリカは満面の笑みで唯を見てきた。
新規の客から声がかかり、唯は慌てて自分の客の対応に戻る。隣からはリカの笑いを含むような声が耳に入った。
「志葉くんさあ、いつから狙ってたの?」
リカの言葉に最初はきょとんとしていた志葉だったが急になにかを察し、差し出された伝票ホルダーを乱暴に取り上げ、憮然とした態度で受付を離れていった。リカの言葉のなにが志葉の気に触れたのか、あれほど不機嫌な顔を見たのはひさしぶりだ。
いつもの清掃作業を終えて受付に戻るとデスクにはリカが持ち込んだ童話関連の本が山積みされている。休憩中以外に漫画を読む事は禁止されているが、現在の担当社員はルーズな性格で、客から見えなければ良いとして注意をしなかった。
「次の話は童話ベースなんですか?」
リカが積み上げている童話の本を見てたずねた。
「そそ。恩師から演劇依頼がきてね、中学生は戯曲なんてつまんないだろうし、かといって劇団オリジナルだと斜め上すぎるし、童話ベースなら話の流れがわかるぶん見てくれるでしょ」
「私も学校にきた劇団のこと印象に残ってますよ。ラプンツェルの現代コメディで、すごく面白かったです」
「だよね。私も赤ずきんのパロディ見て演劇に憧れた口だから」
童話の漫画をパラパラとめくりながら、中学生が好きそうな話をリカとあれこれ話す。唯が適当に掴んだ本はいばら姫だった。十五歳に成長した姫が魔法使いの呪いにかかる挿絵で手が止まり、ふと口にする。
「みんなから疎まれていた魔法使いに『一生恋人ができない』という呪いをかけられた姫が、逆にその魔法使いを好きになっちゃうって話どうですか?」
「……いいね。じゃあ実はその魔法使いは姫のことが好きで、呪いをかけているあいだ頑張って自分が王子様になってキスで呪いを解きにいくっていうオチはどうかな」
リカはなにか悪巧みを考えているような顔をして不気味な声で笑いはじめたから、唯は人差し指を口にあてて静かにするよう合図を送った。
「それじゃあ、タイトルは『マッチポンプ物語』ですね」
「きゃはは、出落ちすぎ。出会いは必然なのさ」
今度はアニメの少年のような声で高笑いをする。毎日楽しそうだなこの人、とリカを見ながら唯は思っていた。
ネットカフェの入っている雑居ビルを出ると、だいぶ前に店を出たはずの志葉が立っていた。ひとりでうちに帰るのが怖いというのもあるかもしれないけれど、志葉は唯のバイトが終わるまで待っていてくれたのだと思った。
特になにも言わなかったが、唯が利用しているバス停まで一緒に歩く。なんとなく志葉の手を握ってみる。いきなり手を出したのに志葉は驚きもせず、不思議となじむその手が唯の手を握り返した。
バスが到着するまでのあいだ、不動産屋の窓にびっしりと貼られているひとり暮らし用の賃貸物件情報を眺めた。できれば可能な限りあの格安家賃の恩恵を受けていきたいと悩みながら、志葉の嫌いなあの部屋へふたりで一緒に帰っていく。