前
大学から家までの中間にあるネットカフェで週三、四回アルバイトをしている。唯がブース掃除に夢中になっているあいだ、もうひとりの学生アルバイトであるキザキは受付内でこっそり動画を観ていた。
オフィス街に近いから利用客のほとんどは社会人だが、近くにもう一つ最新型のネットカフェができて以来、大半の利用客は流れてしまった。しかし、仕事量がほどよく減って唯にとっては最高の働き場となっている。
仕事が終わるまであと三十分、本の整理や消毒作業をしているといつの間に受付から離れたキザキが声をかけてきた。
「ねえ唯ちゃん今フリーでしょ? 合コンしようよ」
「声かけられるほど友人がいないです。すみません」
高校時代にいいなと思う人もいたし、告白されたこともあったがうやむやに終わり恋人というものはまだできたことがない。大学生になって声をかけられるのは決まってキザキのような遊ぶことしか考えていない人種だから、臆病な唯の異性交遊が捗るはずもない。
キザキは唯が奥手なタイプだと勝手に勘違いしているようだが、そもそも合コンに興味がない。そして唯の交友関係がおそろしく狭いというのも事実だ。難しく考えずに交友関係を広げるための交流会と思えばいいのかもしれないが、狭く浅くをモットーとしてる唯の周りには、合コンと言って飛びついてくれそうなノリの良い友人も人数もいない。
この歳になってまでいまだにひとりも彼氏ができない原因は、本当に志葉による呪いではないかと責任転嫁したくもなる。
「やほー、キザキくん唯ちゃん」
キザキとの会話が面倒になってきたころ、次のシフトのリカがエプロンをつけながらフロアに入ってきた。独特な声の持ち主で、本業は声優らしいがそれ一本で食べていけるほどの収入はなく、ネットカフェや短期アルバイトを掛け持ちしながら劇団にも所属している多趣味な人である。とにかく話題が豊富で面白い彼女がいると話の中心はいつもリカになっていく。
面倒臭いキザキをリカに押し付けて、唯は帰る前の後片付けをはじめた。掃除用具を片付けていると、同じ大学に通っている見慣れた生徒が店に入ってきた。大きめのバックパックを背負って店内を見回しているのは、中学のとき唯に呪いをかけた張本人。
探しているのは自分のような気がして近づきながら手をふると、唯に気づいた志葉もちいさく手をあげた。彼は受付をスルーして真っ直ぐ唯のところに来る。
「いまハイスペ空いてる?」
「たぶん朝まで無理だと思う」
志葉はあからさまに肩を落とした。
店は客を取り戻そうとゲーミングパソコンと、高額なソフトウエアをインストールしたパソコンを導入したが、その数台に人気が集中しただけで客数自体が劇的に増えることはなかった。
「どうしたの? こんな時間に珍しいね」
志葉が無類のゲーム好きであることはむかしから変わらないが、わざわざネットカフェに来てまでゲームをするのは珍しかった。
「家帰ったら上からの水漏れで部屋とパソコンが死んでた」
「悲惨すぎる」
大学で偶然再会し、このネットカフェにもよく立ち寄るようになって頻繁に会話をするようになった。中学のころの絵に描いたような悪ガキという雰囲気はすっかり消え、いまでは親しく接する学友と言っても過言ではない。
一見どこにでもいる普通の大学生だが、うわさによると一風変わった学生生活を送っているらしい。唯と違って友人が多い志葉の居候先はいくらでもあるが、ゲームで使えるレベルのパソコン所有者がすぐに捕まらずネットカフェの空き状況を確認しにきたところだった。別の店に行けばいいだけの話だが、どこの店もそういったパソコンは人気が集中しているからこれから空きを探すのも苦労するだろう。
ふと思いついたことが口から勝手に漏れた。
「うちのパソコン使う?」
「いいの? 貸してもらえるならすごくありがたい。でもチームメンバーと通話しながらだし不規則な時間に遊ぶよ」
「いいよ、多少うるさくしても平気。お兄ちゃんもずっと同じことしてたから大丈夫なはず。あとすこしでバイト終わるから、ちょっと待ってて」
受付にいるキザキとリカにあいさつをして急いでバックルームへと戻る。
兄は一時期ゲームの選手活動をしていて結婚を機に引っ越していき、おさがりのハイエンドパソコンはそのなごりだ。ゲーム好きの兄がいることも、パソコンを受け継いだことも以前から話していたから彼は素直に提案に乗ってきた。
志葉と連れ立ってバス停に向かう途中、急激な空腹に襲われる。冷蔵庫の中を思い出しても空で、いまから買い物に行くのも億劫だと思っていると志葉がタイミングよく聞いてきた。
「もう食事した?」
「まだ。実はいますごくお腹すいてるんだよね」
「俺もまだなんだよね、どこか寄っていくか」
そう言って志葉は辺りを見回す。この近くにネカフェ常連に教えてもらった、量が多くて安くておいしい定食屋がある。おしゃれとは程遠い店だけれど志葉相手なら気取る必要もない。
「近くにおすすめの店があるよ」
「じゃ、そこ行こう。お世話になるしおごらせて」
「やった。こちらです」
おごりという言葉に簡単に釣られ、意気揚々と定食屋まで先導する。狭い店内のカウンター席で横に並び、頭を寄せ合ってひとつのメニューをのぞき込む。
中学時代のクラスメイトが見たら卒倒するだろう距離で志葉と隣り合わせで座っている。とはいっても唯はとくに意地悪をされなかったから、もともと志葉のことは嫌いではなかった。男子側から唯は無害認定されて伝令役としてパシられることはあったけれど、志葉とは普通に会話をしていた。不興を買わないように唯が誰よりもうまく立ち回っていたというのもある。
いまの志葉は言葉遣いは丁寧になったし、女子がおおげさに怖がっていた目つきの悪さも、切れ長の目という涼しげな印象を与える役に変わっていた。身長も一気に伸びて、手も骨張っていて大きさもあのころとは全然違う。
「なに?」
こそこそと観察していたことに気づいた志葉が首をかしげて聞いてくる。
「あのころと比べてずいぶん変わったなと思って。あ、お互いにね」
「香坂はぜんぜん変わってないよ」
ふいと顔を正面に戻し、彼は平坦な声で言う。言い方は意地悪ではないから、おそらく悪い意味ではないだろう。そうなると、あのころの自分は志葉にはどういうイメージを持たれていたのか気になってくる。追求したいような怖いような、迷っているうちに料理が到着し、二人は食べることに集中した。
帰りはバスを使わず、食後の運動と称して家まで歩く。そのあいだ兄から聞いた大会の裏話を志葉は前のめりで聞いていた。
唯の家は兄が独身時代に使っていた広めの部屋を継続して借りているから、数日くらい居候がいても困るような狭さではない。
家に到着し手短に室内を案内してからゲーミングパソコンを見せると、早速といじりはじめた志葉がちいさく歓喜の声をもらした。セッティングを自分仕様に整えたあとは黙々と作業をつづけ、彼は早々にリビングの新しい置物と化した。部屋の片隅でカタカタとひとりで遊んでいる志葉の背中を見て、妙な既視感を覚えた。
近づいて横から画面を覗き込むと、志葉のプレイヤー名が見える。適当にキーを押して作ったというIDは規則性のない数字が並んでいた。
「囚人番号みたい」
「言えてる」
志葉がふっと息をもらして笑った。唯は驚いて彼の横顔を見たが、もうすでにいつもの真顔に戻っていた。
寝る支度をしながら何度も頭を捻って、ようやく既視感の原因を思い出す。
以前、家に辿り着く道すがら仔猫を見つけた。しばらく見ていたが親猫はあらわれず、仔猫も親猫を呼ぼうともせずただじっとうずくまっていたから、里親を探そうと保護したあの状況とよく似ている。部屋に連れ帰った仔猫はよく食べて、人間にも新しい環境にも怯えたりせず、部屋の隅でおもちゃに夢中になってずっと遊んでいた。そのときの猫の感情なんてわからないけど、おもちゃを振って見せると嬉しそうだったような気がしている。志葉はあの仔猫と同じだ。
思い出せたことですっきりして隣の部屋へ移動する。ベッドに寝転がり、リビングから微かに聞こえるキーボードの音と、低音の心地よい声を聴きながら唯は眠りに落ちていった。
◇
すこし前に止めたはずのアラームがふたたび耳元で鳴り、目を閉じたまま停止ボタンを必死に探す。長年使っていてもいまだに停止ボタンとスヌーズボタンがわからず、しつこいほどスヌーズ機能が作動してなかなか気持ちのいい朝がむかえられない。アラームで起きるのはいいが、スヌーズ機能で起こされるのはなんとなく気に入らない寝起きの悪い唯は、ふらつきながら寝室の戸を開く。
部屋の片隅に目をやると、キーボードに頭を突っ伏している志葉の姿が見えてぎょっとして完全に目が覚めた。生存確認のためそうっと覗き込むと、ちゃんと寝息が聞こえる。安心してキッチンへ向かおうとすると、パソコンデスクがガタンと音を立てた。
志葉は手の甲で顔をこすって立ち上がり、おはようと言ってから志葉専用の布団に潜り込んであっというまに寝てしまった。その行動すべてがまるであの猫のようだと思った。大会に向けてチーム練習しているらしく、唯の家にくる前から睡眠時間を削ってゲームをしていると言っていたが、既に限界がきているようだ。
物音を立てても微動だにしない布団を横目に、家の鍵のスペアをパソコンデスクに置いて、一限からの講義に出るべく唯は家を出た。
教室に入り数すくない顔見知りの近くに座る。他のはしゃぎ倒している人たちに比べれば比較的まともだが、それでも話すテーマはだいたい決まっている。恋人、合コン、アルバイト、最近買ったもの、これらの単語かそれに関連する話に混ざる。もしまたキザキがしつこく合コンのセッティングを迫ってきたら、この人たちに紹介してみるのもいいかもしれない。しばらくして大学で一番仲良くしているエリナがあらわれた。
猫背をさらに丸め、べたべたとスキンシップをしてから唯の隣に座る。
「昨日の夜さあ、ものすごく興奮したキザキさんから唯のことで電話きたんだけど」
ネットカフェのアルバイトはこのエリナに紹介されたのがきっかけではじめた。エリナは辞めてしまったけれど、いまも他のアルバイトとの交友はあるらしい。
「なんて言ってた?」
「唯がうちの大学の男をお持ち帰りしたって言ってたけど、ほんと?」
あまりの話に驚いて飲んでいたお茶を吹き出し、周りの人が一斉に唯たちのほうを向く。
「誰!? 誰、誰よ?」
「ネカフェにそんな裏メニューあるの? 俺もお願いしたい」
訂正する間もなく話を耳ざとくキャッチした周りの人が一斉にひやかしはじめる。エリナもしまった、という顔をしていたが、面白いネタを常に探している大学生の格好の餌食となるのは早かった。
隠すことでもないが説明したところで志葉が家に泊まっている事実は変わりなく、面白おかしく茶化し倒されるのが目に見えている。自分だけなら問題ないが、志葉に迷惑がかかるかもしれないと思うと迂闊な発言はできない。あの男を怒らせるとあとが怖いのは重々承知している。
言い淀んでいるあいだに講義がはじまり、全員がしぶしぶ座り直す。エリナがノートの端に「ごめん」と走り書きをした。
あとで見返したところでどうせ意味などわからない謎の図形とキーワードのみの板書をノートに書き写しながら、いまも志葉はゲームをしているのだろうかと考えていた。
唯は家族以外の人を家に入れるのは好きではなかったが、自分でも驚くほどあっさりと志葉を家に呼んでしまった。しかもパソコンを貸すだけでなく居候まで許している。
若干潔癖の気があるから友だちが遊びにくることすら抵抗がある。だからあとで後悔するかもしれないと思っていた。それなのに、朝になって彼が使った痕跡を家のいたるところで見つけても不思議となにも感じなかった。
大学で再会して前よりはよく会話をするようになっただけの仲なのに、ただなんとなく、という理由だけですべてがつつがなく進んでいる。
いままでに困っている人を助けたいという衝動に駆られたことはない。あの猫を拾ったことも本当に気まぐれだった。仔猫はすぐにいい飼い主が見つかったのだが、実際は引き渡したことをしばらく後悔しつづけた。留守がちな唯のもとは猫にとって良い環境とは思えないから里親探しをしたが、飼えることなら飼いたかった。あのあと野良猫を見かけてもペットショップに行っても不思議と同じ気持ちになれる猫には出会えず、これが縁というものなのだろうと悟った。
講義が終わるや否や、逃げるようにエリナとふたりで教室を出た。
「キザキさんってやたらと唯を気にする節があるよなあ。気があるのかな」
「変なうわさ広められたら困る」
「しかし、志葉くんとは、ずいぶん変わった人と知り合いなんだね」
「中学の同級生だよ」
ああ、と言って納得したようにエリナは何度もうなずく。
「エリナも知ってるんだ」
「あの人『学研会』所属だから結構な有名人だよ。私は共通の友だちがいて知り合ったんだけどね、常に騒動の中心にいるイメージ」
「昔よりはかなり丸くなった気がするけどな」
学問研究会、通称学研会はこの大学最古の同好会であり、元または現会員からの推薦と幹部の審査、そしてなにより供物がなければ入ることができない。というところまではわかっているが、実際の活動内容は一切が秘密とされた謎のサークルだ。会員は大学内での権力をほしいままにできるとか、この大学出身の教授も元会員が多いから単位の融通が効くとか、優先的に優良な就職先を斡旋してもらえるなど。謎の陰謀説もあったりと、いろいろな尾ひれがついたただのうわさも含まれているがとにかく入会して損はないらしい。
謎に包まれた奇妙な同好会ということは一般学生の共通認識だった。唯もすこしくらいなら聞いたことはあったが、あの志葉ならそんな変なところに入会していても不思議とは思わなかった。
「私も入会してみたくてコネ使いまくったけど、審査で落ちたんだ」
「変なサークル多いよね」
「で、志葉くんいつまで居候するの?」
そういえばそんな話はしていない。大会が終わるまでなのか、新居の準備が整うまでか、志葉はなにも言っていなかった。
「……わからない」
「唯って真面目なのに変なところで適当だよね」
「自分でも意外だよ」
その後も友人の尋問をエリナのおかげでかわし、本日の講義を終えて学校を脱出しアルバイト先に向かった
キザキが受付でもうひとりの女性アルバイトと仲良く話しているのが入り口から見える。今日もキザキと一緒か、と考えたら自然とため息がもれた。
バックルームで端末機を抱え込んで呻いてる社員にあいさつをすると、顔をあげずに気の抜けた返事だけが返ってきた。ロッカーに荷物を詰め込んで、専用の黒いエプロンをしてセミロングの髪をひとつにまとめる。社員がペンで頭をかきながら声をかけてきた。
「ねえ、お願いがあるんだけどさあ、次の土曜日入れない?」
「先週も先々週もそのお願い聞いてあげたじゃないですか」
「そこをなんとか! 新しい人いきなり辞めちゃってピンチなんだよ、お願い」
大人なのに拝むようにして泣きついてくる。この社員は唯が押しに弱いということをわかっていて、いつもおおげさな演技をする。
「いきなりワンオペさせるからですよ」
「あれは他のバイトが……」
ブツブツ文句を言い出した社員をなだめてシフト変更を承諾する。
安請け合いはいやだけど、週末は志葉のゲーム大会の邪魔をしないよう出かけるつもりでいたから、唯にとってもよい暇つぶし先ができて都合が良くもあった。
何度も感謝を言い喜んでいる社員を放置して、フロアに入ってあいさつをすると、女性が交代で出て行く。受付に入ると案の定キザキが椅子を転がして近づいてきた。
「おつかれー」
「お疲れさまです。エリナに変なこと言わないでくださいよ」
「えーでも事実じゃん」
キザキはいつもこんな感じでへらへらと笑いながら唯をからかってくる。
「困っていた友人を泊めただけです」
「同じことじゃね」
唯は見た目から大人しく気弱な印象を持たれることが多い。苛立ちを感じるまでには時間がかかるけれど、嫌なことをされて腹が立たないわけではない。普段キザキからなにを言われても怒ることはなかったのに、志葉とのことを茶化されて瞬間的に不快な気分になってしまった。
「……掃除行ってきます」
逃げるようにその場を離れ、ブースの清掃作業をはじめた。掃除が気分転換になる唯にとって、正直見たくないものが落ちている利用後のブースでも平気だった。唯がいる時間帯はきれいに使う人しかいないが、汚したまま平気で出て行く人もいるからマスクの下にこっそり鼻栓をして徹底的に掃除をする。イライラしながらはじめた掃除だったが清潔に戻ったときの達成感に満足し、まだひとつ目のブースの掃除をしただけでいつのまにか嫌な気分は吹き飛んでいた。
唯の掃除魔ぶりを目にした利用客が、アンケートに褒め言葉を残していくほど店の清潔度は唯によって保たれている。常連客と顔見知りになることも多いが、浅い交友関係を得意としている唯にはベストなアルバイト先だった。
深夜シフトの担当がくるまで、キザキと会話のチャンスを作らないよう唯は清掃に逃げつづけた。
家に帰るとキッチンで仁王立ちしている志葉がいた。カップ麺の準備をして湯が沸くのをじっと待っている。唯はなるべく自炊を心がけているけれど今日くらい手抜きでもいいかと、買い溜めしてある春雨スープを棚から出し、志葉の隣に並んだ。
「私って昔から変わってない?」
「うん」
昨夜聞きそびれた話のつづきを持ち出すと、志葉は即座に肯定した。聞いたはいいものの、その後会話がつづかず無言でいると彼はふと思いついたように言った。
「変わってないっていうのは、ちょっと語弊あるか」
「いい意味で、ってことだよね?」
「それはそう。中学のとき女子でまともに会話できたの香坂だけだったけど、大学でひさしぶりに会った時も昨日ぶり、みたいな感じで話しかけてきたから面白かった」
たったそれだけのことか、と思ったが女子から嫌われていた彼にとってはおおきなことだったようだ。もっと別のエピソードがないか聞いてみたかったけれど、志葉はカップ麺に熱湯を注いでキッチンをそそくさと出て行ってしまった。