7.リベンジ
完全なる敗北感に打ちのめされて、ソフィアはそっと扉を閉めた。
とぼとぼと続きの間を歩き、そして廊下へともう一つの扉を力なく押し開ける。そして、廊下に立つ人物をみとめて、やはり、と思った。
想像通り、オリバーは廊下でソフィアが出てくるのを待っていた。さっさと寝に行っていたらそれこそ人でなしだが、そうは言っても、今は会いたくない気分だ。
「・・・失敗でしたか」
ソフィアが何かを言う前に、オリバーが言った。ソフィアはそれに対してただ黙って頷いた。
「それでは、お部屋までお送り致します」
何か言ってくると思っていたソフィアの予想に反し、オリバーは何も言わなかった。何も聞かないんですか、と聞きたい衝動にかられたが、今は何もしゃべりたくない。ソフィアはこれはオリバーの稀なる優しさだと解釈することにして、余計な言葉を飲み込んだ。
だって、説明できるわけもない。
―――― まさか、本を読んで健やかな眠りを誘うお役目を命じられた自分が、あろうことか王太子の寝室で寝入ってしまうなんて―――!!!
部屋の前で、「どうぞゆっくりお休みください」と礼をし、オリバーは去っていった。中に入り、ソフィアは深い深いため息をついた。夜着に着替えたりするのは一人でもできると言って、アリアに先に休むように言って本当によかった。こんな調子を見られたら、何か大変なことがあったと心配するに違いない。
正確には大変なことがあったというよりは、大変なことをしでかしてしまったのである。
のろのろと着替え、寝る準備をしてから、ソフィアは倒れこむのように寝台に入った。思い出したくもないが、思い出さざるを得ない。
――― すべてが終わったわ
目を瞑れば、王太子の秀麗な姿が浮かび上がる。表情一つ変えない冷たい美貌が、微笑んだ時の衝撃。あのあと、王太子は短く一言言った。
「では、聞こう」
王太子は背を向けると、寝台に戻り、ゆったりとそこに体を横たえた。天蓋の影で、目を瞑っているかどうかはわからない。
――― 関門を一つ突破したわ・・・!
感動を押し殺しながら、緊張した面持ちでソフィアは窓際のテーブルに行き、そこに重ねられた三冊の本を手に取った。題名を読み上げ、どれがよいかと問うと、王太子はどれでもよいと言う。仕方なく、一番上の本を読むことにした。
政に関する本で、ソフィアがほとんど読んだことのないような内容である。さりとて、読めないわけではない。意味をある程度理解しないと聞きやすい読み方というのはできないものだが、ソフィアはそれまでの知識と経験を総動員して、必死に読んだ。
王太子の眠りを誘うように、読んだ。
だが。
――― 気が付けば私が寝ているなんて・・・!!!
読んでいるうちになんだか体がぽかぽか、ふわふわしてくるような不思議な感覚があった。何かしら、と思いながら、この部屋の心地よさがそうさせるのだわと思っていたら。
次の瞬間、ハッと目が覚め、手に抱えていた本がずるりと滑って床に落ちた。その音にビクンと体が反応して、自分が寝入ってしまっていたことに気づいた。青ざめて寝台の方を見ると、そこにいたはずの王太子はそこにはいない。オリバーが言っていた『奥の書斎』があるのだろう、入ってきた扉とは反対側の壁にドアがあり、その下から光が漏れている。慌てふためいて、暖炉上の飾り時計に駆け寄ると、自分がここにきてから30分が経っていることがわかった。
王太子殿下に、オリバーに、ウィンデル侯爵夫人にどう申し開きができるのだろう。
さすがに隣の書斎まで入る度胸はなかった。恐れ多くも王太子の部屋で、本を読みながら寝入ってしまった無礼で打ち首にならなかっただけ幸運に違いない。明日何かお咎めがあるだろうか。あの夜の星のような美貌の王太子に、自分の間抜けな寝顔をさらしていたというのだけでも拷問級だが、最も恐ろしいはこの身以外に災いが及ぶことである。
――― ナンシーが昔から言っていた通り、本当に大事な時に、とんでもないことをしでかしてしまうのだから・・・我ながら本当に情けないわ・・・
さすがのウィンデル侯爵夫人も顔を真っ青にするだろう。
王太子殿下の部屋で従者が寝入るなんて前代未聞だ。
――― 本当に自分で自分が信じられない・・・!!!
枕に自分の顔をぐりぐりと押し付けながら、声にならない声を吐き出した。
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そうして次の日、ソフィアは再び重い扉の前で、重い気持ちで少年姿で立っていた。
何かお咎めがあるのでは、或は宮殿から叩き出されるのではと思っていたが、昼間は何事もなく過ぎていった。
オリバーは今日も忙しいらしく、顔を合わせることもなく、昨夜と同じようにアリアにオリバーの元に連れられて、今に至る。
昨日の己の所業、いや、むしろ不作為であるが、それを告白する間もなかった。
一日目と同じように扉が開き、オリバーが出てくる。寝台上の王太子からは見えないだろうに、寸分違わず洗練された所作で礼をして静かに扉を閉じる。
ソフィアに向き直り、無言で問う。
『入られるのですね』
『もちろんです』
その意を込めてソフィアは深く頷く。
正直怖くないわけがない。いますぐ身を翻して逃げしまいたい。無礼な少年を見過ごしてやったのに、なぜまた顔を見せきたかと、今度こそ王太子の怒りを買うかもしれない。
しかし、それならそれで、自らの言葉で詫びるべきだと思った。
あれだけ怯え、幸いにも何事もなく夜を迎えたというのに、ソフィアの結論はそれだった。ソフィアにはそれ以外の選択肢は考えられなかった。
息を吸い、ゆっくりと吐く。そしてドアをノックし、返事の後に中へ入って行った。王太子のいる寝台の方は暗くて表情はよく見えない。
ソフィアの姿を見て、意外そうな声が部屋に響いた。
「ああ、フィンか」
仮の名前というのに。
低い、その一声を聞いただけで、顔が一気に上気する。
――― この人はわかっていらっしゃるのだろうか
沈黙が鞭なら、名を呼ぶことは飴だ。高貴な人、ましてやこのような超越した空気を持つ人に名を呼ばれることがどんな効果を持つかということを、この人は十分に理解しているのだろうか。それもひと時しか会っていない、名を忘れても何の不思議もない相手に。わかってやっているとしたら、この人は本当に恐ろしい人だ。
――― ああ、もう、こんなに動揺している場合ではないのに!
すべての邪念を振り払うように頭を激しく左右に振ってから、ソフィアはバッと頭を下げた。
「昨夜は、誠に申し訳ございませんでした!!!」
これ以上やっては滑稽に見えてしまうというぐらいまで低頭し、ソフィアは王太子の沙汰を待った。誠心誠意、心から陳謝し、あとは委ねるしかない。もっと大人ならば適切な謝り方があるのかもしれないが、ソフィアは心を込めて謝罪の言葉を述べる以外の方法を知らない。
「今夜は、本を読みに来たのではないのか」
「えっ・・・?」
ソフィアは思わず顔上げて、絶句した。昨日のソフィアの非礼については、何一つ触れない。怒りを含んだ声でもない。ソフィアの謝罪など存在しなかったかのように、ただ淡々と尋ねる声である。
「それは・・・もちろん・・・・・・はい」
あまりに思いがけないことに、すごく間の抜けた返事しかできなかった。何が何だかわからないが、聞かれたことは間違いではないから、王太子の質問に対して同意する。
「では、聞こう」
一日目と同じ科白。
ソフィアはあまりの予想外の展開に、ポカーンと口を開けた。
が、ハッと我に返り、慌てて昨日と同じ場所に行き、本を取った。昨夜と同じ本である。失礼します、と短く断りを入れて、サイドテーブル横の椅子に座る。
――― なぜ何も仰らないの?
疑問符が頭の中をぐるぐると回るだけで、考えはまとまらない。しかしソフィアがすべきことは一つだ。本を読む以外にない。
困惑しながらも、最後に読んだ、記憶の残っているページがどこかを探りながら、頭は今のやりとりと現在の状況を必死に理解しようとする。
――― わたし・・・謝ったはず・・・よね?
思わず自問自答する。さすがに自分が何を口から発したかぐらいは間違えないはずだ。それなれば、なぜ王太子はそれに対して何も返すことがなかったのだろう。
だが、はたと思った。
王太子が謝りを受け入れたならば、非礼があったことを認めることになるから、ここに二人きりという事情を割り引いても、罰を与えなければならないだろう。一方で、何もなかったということは、事実を捻じ曲げることになり、王太子の立場として従者にそこまでの譲歩をすることなど不適切、となる。
何事もなかったように振る舞う、が、王位を継ぐような立場の者として、ソフィアの失敗を不問にする最も適当な態度なのではないか。日々起きる様々なことに、このように、さらりと対応することが、身についている人なのではないか。
侯爵家の『フィン』の立場は決して軽いわけではないので、もちろんそれを考えてのことかもしれないけれど、もっと不機嫌な態度でも何ら不思議ではない。
――― 氷の殿下という名は本当に正しいの?
ソフィアの心にそんな疑問が生じた。
――― 実は、優しい人だったりして・・・
そうであれば不名誉な噂は立たないだろうに。やっぱり冷酷な人なのだろうか。こうして本を読もうとしているのも、王太子の気まぐれに救われたに違いないのだろうか。
駄目だ、集中しないと本をきちんと読めない。それこそ、お役目を正しく果たさなかったことになる。
ソフィアはなおも止まらない思考を必死で止め、漸く見つけた、記憶にある最後の記述から恐る恐る読み始めた。王太子は身じろぎ一つしない。これは、聞いているということだろう。
ソフィアは一生懸命読んだ。王太子が眠くなるよう、工夫して読んだ。
そして、また不思議なことが起きた。再び、ポカポカ、フワフワとした感覚が蘇り・・・
気を張り詰めていたはずなのに。昨夜寝入った自分を呪いたくなるほど後悔したはずなのに。
またしてもソフィアは眠りに落ちたのだった。