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6.少年フィン

物語の中とはいえ、長年の憧れの人に会ったような夢見心地のまま、ソフィアはアリアに連れられて部屋に戻った。


「ソフィア様、いかがなされましたか?」


午前中とはどこか様子の違うソフィアに、アリアは心配そうに尋ねる。

生まれてこの方、恋沙汰に縁遠いソフィアとて、乙女心の一つや二つはある少女である。まるで夢の出来事のようなことを誰かに共有したくて堪らなかった。しかし、口止めされている以上、アリアに言うわけにはいかなかった。


「図書の間に行くことはずっと私の夢だったの・・・感激してしまって」


そう答えたソフィアの言葉は決して嘘ではない。

アリアは微笑み、それはようございましたね、と心を込めて共感してくれた。その言葉だけで十分だった。


――― ああ、あの物語を読んだ時の時めきを長らく忘れていたわ


どんなにその中の出来事に興奮したり、先を不安に思ったり、悲しみや喜びに落涙したことだろう。

本に記された文字を追っているとは思えないほど、その中に繰り広げられてた話はソフィアにとって現実であった。自分の人生において、まるであれはひと時の身に起きた出来事と同じだった。

本を読む本当の面白さを教えてくれたような物語で、それからますますソフィアは本を読むことに傾倒していったのである。


何度も読んだ本とはいえ、かなりの長編であったことと、長じると他の様々な本に興味が移っていったこともあって、再読する機会は最近ほとんどなかった。

それだというのに、今日の出来事を切っ掛けに、脳裏に様々な場面、好きな台詞が次々と思い起こされる。忘れるはずがなかった。


――― そう、ちょうどお兄様が成人されたころだった


色々と行事があり、長兄の祝い事ゆえにソフィアも出席するものもあったのに、控えの間でも本を読み耽り、怒られたこともあった。すべてを読み通すのに半年はかかったか。それでも、最後の巻を読むときの悲しさったらなかった。長く共に旅した仲間たちが最後に幸せになったことを知りたいという思いと、読んでしまったらもう彼らに会うことはできないという胸を締め付けられる思いに、本当に読むべきなのかとしばし逡巡したものである。


次々といろんなことが思い起こされて、夕食の間も始終、ぼーっとしていたソフィアであったが、夕食を終えると、


「ソフィア様、お召し替えを」


とアリアに声をかけられて、ハッと我に返った。

ここは夢物語の世界ではない。ひたすらに信じられないほどに非情な現実世界なのだ。


――― でも、今更引けない


ソフィアは腹を括るしかないと己に言い聞かせた。

ドレスを脱ぎ、初めて兄たちが着ていたような男物の洋服に袖を通す。着方も何もかもわからないが、アリアが手伝ってくれたおかげで、着替えるのにそう時間はかからなかった。


兄から余計なことを言うなと言われているのだろう。

不思議なほどアリアは静かに着替えを手伝っていたが、最後のボタンを留める頃に、おもむろに口を開いた。


「ソフィア様には大事なお役目があるからと、このお洋服にお着替えいただいてから兄の元に連れて行くように言いつけられております。でも・・・」


正面に跪いて服を着つけていたアリアは、ボタンを留め終えてから、まっすっぐソフィアの目を見た。


「何かお困りのことがあるようでしたら・・・私のような者が申し上げるべきでないことは重々承知しておりますが・・・私にお伝えくださいませ。お嬢様のために、私にできることを精一杯・・・なんでも努めさせて頂きます」


「アリア・・・」


ソフィアを見つめる真剣な瞳を見て、ソフィアはアリアを抱きしめたくなった。

『深窓の令嬢』が夜に男装するなど、怪しいことこの上ない。何か妙なことに巻き込まれているのではと推測したのだろう。


この人はなんと温かで真っすぐな人なのだろう。会ったばかりのソフィアに、こんなにも真摯であろうとする。

でもだからこそ、アリアが困惑するようなことは言いたくなかった。何かを少しでも吐露すれば、この人はきっと手を尽くそうと己を顧みずに動く人に違いないから。


ソフィアはできる限りの落ち着いた微笑みを見せた。


「ありがとう、アリア。大丈夫よ。色々事情があって、詳しいことは言えないけれど・・・私自身がきちんと果たしたいお役目があるの。何かあったらあなたに相談するから・・・心配しないで」


そういうと、アリアは納得したかどうかはわからないが、黙って頷いた。

ソフィアはアリアの視線から避けるように、姿鏡に近づいて、男装した自分の姿を上から下までじっくりと見た。スカートよりも動きやすいには違いない・・・が、あまりにいつもの感覚と違いすぎて、ぎこちない動きをする自分がいる。


髪は少年らしく見えるように、後ろにきっちりと強く一つに結んでもらった。これでどこからどうみても、フィン・クレインという少年に見える・・・はずだ。


ソフィアはもう一度、鏡の中の自分を見、そしてポヤンとした顔に見えそうな自分を睨みつけた。


――― いざ、出陣よ!


挫けそうになる心を十秒に一回は奮い起こしながら、ソフィアはアリアに連れられて、オリバーの元へと、そして殿下の部屋へと向かったのである。


***************************


そうして今、ソフィアは絶対絶命の危機にあった。

あろうことか、性別を隠して近づくはずの殿下に、女嫌いの殿下に、顔を見せてしまっていたのだ。


さすが、あの人間離れした存在感は、麗しの殿下だったのね、などと感心する余裕はない。


ソフィアは、麗しの殿下を前に完全に我を失った。


―――― どうしよう・・・!


ここで自分が女とわかったら、本読みどころではないだろう。

それどころか、ウィンデル侯爵夫人の顔に泥を塗ることになる。


何かを、取り繕う何かを言わなくてはと思うが、言葉が何も出てこない。


横顔しか見えなかった青年の顔は、正面から見るとその一層の完璧さに、空恐ろしささえ感じる。部屋は暗いというのに、まるでそこだけ光が浮かび上がっているようで、微かな光さえも拾って、ブルーの瞳が静かな輝きを放っている。そんな目に見据えられて、何も言えるはずもなかった。


その時、殿下の口から言葉が発せられた。


「・・・お前には姉妹がいるか?」


――― その手があった――――――!!!


思わぬ助け舟に、ソフィアは勢いよく頭を上下に振った。

感情のかけらも見えない王太子殿下に、そのつもりはないのだろうが、救い手の手が差し伸べられたような気がした。


「は、はい!顔が良く似た姉がおります!」


「・・・そうか」


それで会話が終わる。

押しつぶれそうになる沈黙。


この王太子は高貴な人の無言が、下の者にどれだけの恐怖を与えるのかわかっているのだろうか。いや、氷の殿下はわかっているからこそ、その特権を行使するのだろう。

ソフィアはもう、龍に睨まれた鼠だ。格が違いすぎる。


――― ど、どうしよう


相変わらず形勢は不利だ。

それでも、引くわけにはいかない・・・押すだけだ!!!


ソフィアは俯きそうになる顔をぐっと、上げた。


「あの、その、殿下、本をお読みしてもよろしいでしょうか・・・?」


震えそうになる声を抑えながら、崖から飛び降りるような気持ちで問いかける。が、さすがに保身のために言葉を重ねることを止められなかった。


「ウィンデル・・・ウィンデル侯爵夫人に言いつけられておりますので・・・」


叔母の名を持ち出すのは卑怯かもしれないが、背に腹は代えられない。

幸いにも、効果があったようだ。

ピクリと殿下の眉が動いた。


「ウィンデル侯爵夫人に頼まれたと言っていたな」


「は、はいっ」


いちいち、声まで美しい。

神はあらゆるものを―――温かな気持ち以外すべてのものを―――この王太子に与えたもうたのか。

そう思ったソフィアは、次の瞬間、見てはいけないものを見た。


ふっと、王太子が笑ったのである。


「あのウィンデル侯爵夫人に頼まれて断ることができる猛者はこの世にいないであろうな」


――― は、破壊力が――――!!!!!


絶対的な存在感の浮世離れした王太子が、一瞬でも人間らしい笑みを見せた。

皮肉っぽい言い方であったにもかかわらず、もうそんなことどうでもよくなる。魂を丸ごと持っていかれた。尊き聖痕を見せられた聖職者のような気分だ。


それに、この王太子にこんな表情をさせる侯爵夫人。


—―― 叔母様、あなたは最強ですか―――!!!


すべてのことに頭の中が飽和状態になり、ソフィアは再び、目が眩んだ。





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