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5.図書の間の貴人

翌日、家族に王都への無事な到着の手紙を記したり、部屋の近くの庭を散策したりするうちに午前中が過ぎ、午後になるとオリバーが部屋に来た。

図書の間に案内してくれるという言葉を聞いて、ソフィアは飛び上がるほど嬉しく、思わずオリバーの手を取った。


「まあ!本当に図書の間にいられるように取り計らってくださったのですね!なんてすばらしいの!!」


ソフィアの喜びように気圧されたのか、あるいはその勢いに妹に通じるものを感じたのか、オリバーはスッと手を引き、ずれてもいない眼鏡をかけなおし、それではと一言言ってさっさと先を歩き始めた。

淑女が小走りになるほど足早に案内するなんて、従者としては褒められた態度ではないけれど、そんなことも気にならないほど、ソフィアは舞い上がっていた。


ウィンデル侯爵夫人の力になりたいという気持ちに嘘はない。

でも、王都に来たのはこのためと言っても過言ではない。

図書の間までの長い長い廊下も、わくわく胸が高鳴るのを抑えきれないソフィアには、気持ちを高めるための素敵な道のようだった。

そしてとうとう、花が咲き誇る中庭をぐるりと囲む回廊の南側のドアの前で、オリバーは足を止めた。


「ここです。どうぞお入りください」


重厚な大きな木の扉を押し開け、ソフィアを中に招き入れてくれた。

まるで長く憧れていた人に初めて会うような気分だ。ソフィアはごくりと唾をのみこみ、オリバーの後に続いた。


「ここが図書の間・・・」


中へと足を踏み入れた瞬間、ソフィアは圧倒されて言葉を失った。

ソフィアの生まれ育った城館のライブラリーも、蔵書の豊富さで有名であったけれど、さすがに図書の間は圧巻の広さと蔵書の量を誇るようだ。

部屋の両側には天井までの本棚があり、吹き抜けになった2階にも、ずらりと本棚が続いている。

本棚はびっしりと数えきれないほどの本で埋まり、絹や革の背表紙に、金色で題が印字されていたりして、一冊一冊が職人によって丁寧に作られたものであることが窺える。


天上には採光のための天窓があり、本を傷めないことを考えてのことだろう、控えめな光が真ん中にところどころに置かれたソファやテーブルに降り注いでいる。

さらに奥には十字に道のように部屋が広がっており、ずっと先の奥はどこかの庭に通じ、左右にはまた、同じように本棚が続いているようだ。十字路の上の天井部分はドームのようになっていて、入口からはよく見えないけれど、天上の世界を描いた装飾で飾られているようだ。


ゆっくりと一歩二歩、歩みを進めて、ソフィアは深呼吸をした。

なんて素敵な優しい空間だろうと思った。

貴族にとって、ライブラリーは権力を誇示するためのものでもあるけれど、ここは飾り立てることを目的としていない、高潔な精神を感じさせる。知の宝庫であり、まるで神殿のように神聖な場所だと思った。


「ソフィア様」


中へと引き寄せられるように歩みを進めるソフィアに、オリバーが静かに声をかけた。

図書の間に見惚れ、オリバーの存在をすっかり忘れていた。


「ご、ごめんなさい。何か仰っていたのかしら」


「いえ、大したことは申しておりません。それから、私にそのように丁寧なお話のされ方は不要です」


「あ・・・ごめんなさい」


「謝っていただく必要もございません」


よくわからないけれど、オリバーが小さな声で『調子が狂う・・・』と呟いたような気がした。

ん?と首を傾げると、オリバーはコホンと小さな咳ばらいをして、言葉を続けた。


「こちらには、お好きなだけいらっしゃって構いません」


「本当!?好きなだけ!?夢のようだわ!!!」


すべての煩わしい淑女の稽古事から解放されて、ここで好きなだけ入り浸っても文句が言われないなんて、これ以上ない幸せである。

また手を取られるとかなわないと思ったのか、オリバーはこちらを向いたまま、後ずさりをした。


「ただ」


「ただ?」


「午後5時頃までにはお部屋にお戻りください。5時以降は晩餐の前に招待客がこちらに寄ることがございますので。あの呼び鈴はメイド室に繋がっておりますので、お呼びになればアリアがお迎えに上がります」


ソフィアは頷いた。


「それでは失礼致します」


オリバーは礼をして、部屋を出て行った。

ソフィアは再び深呼吸をして、くるりと部屋の奥へと向き直ると、ゆっくりと図書の間の奥へと歩きだした。


足元には緻密な模様の絨毯が敷かれているが、絨毯が途切れる合間合間は、大理石の床に自分の靴の音が響く。

誰もいない、神聖な空間。

これが2週間、自分のための場所のように使えるなんて、夢かと思う。


ソフィアはゆっくりと、時間をかけて図書の間の隅々まで歩いて回った。

二か所、2階へ続く立派な階段があったが、なんだか最初からそこを通るのはもったいないような気がして、点々と設けられた真鍮の螺旋階段を上り、2階も散策する。

どこに何のジャンルが置いてあるのかとか、どんな本があるのかとか、背表紙の文字を追うだけでも楽しい。

誕生日に、プレゼントの箱を一つ一つ開けているような高揚感に包まれる。


それでたっぷりと数時間は楽しんでから、読んでみたいと思った本をいくつかとって、南側の庭に面したソファに座った。

用意周到なオリバーが、そこにティーセットと、レモンを浮かべた冷たい水の入った水差しを置いてくれていたからである。

ソファから顔を上げれば、美しく見えるように計算されているのであろう、エデンの園とも見紛う庭園が臨める。


――― ああ・・・こんなところにいられるなんて、本当に信じられない


昨日のオリバーとのやり取りなどすっかり忘れて、この時はただ己の幸せにだけに感謝しつつ、ソフィアはソファに身を埋めて、本を読みふけった。


*****************************


どれほどの時間が経ったのだろう。

窓から入る日差しが黄金色に変化したのに気づき、ソフィアはハッとして顔を上げた。

本を読んでいると時間を忘れるのはソフィアの悪い癖である。

家族にも、それを何度注意されたかわからない。

ソフィアの言い訳としては、本を読んでいると自分が本の中に入ってしまって、時間が止まってしまうから、なのだが、そんな幼子のような言葉がここで通用するはずもない。


慌てて立ち上がり、側のサイドボードの上に置かれた飾り時計をみると、間もなく5時であった。

それを見て、ソフィアは心から安堵した。


――― よかった、ぎりぎり間に合ったわ。


とはいえ、時間がないことに変わりはない。

立ち上がり、読んだ本を返すために、足早にドームの天井のところを西に曲がり、出した本を慎重に元の場所への仕舞って回った。


――― アリアを呼ばないと。呼び鈴は入口の近くにあったわね


そう考えながら入口の方へと、北に廊下を曲がった時だった。


そこに人影を見止めて、ハッとして、ソフィアは立ち止った。

人が、男性が、本棚の前で、開いた本に目を落として立っていたからである。


ソフィアの思考は一瞬停止した。


貴い人というのは気配でそれを示すのだろう。

その人の周りだけ、まるで違う空気が漂っているようで、ちらりと見えた横顔は心臓が一瞬止まるかと思うほど綺麗だった。

漆黒の髪は濡れたような輝きを放ち、立ち姿はなんでもない様子なのに凛として絵から出てきたかのように美しい。


――― 物語の天上の王ってこんな感じかしら


そんなことを思ったが、目の前にいるのは生身の人間である。

貴人であろうと察して、すぐさまソフィアは頭を下げた。

目線を下げる間に気づいたのは、手にはめられた白い手袋である。


――― あら、執事みたいな立場の人なのかしら?それにしては物腰が只ならぬ感じだけど・・・もしかして、オリバーが言っていた、晩餐のために宮殿にいらした方なのかしら


いろんな考えが一気に頭の中を駆け巡る。

腰を落とした際の衣擦れの音で、相手もソフィアのことに気づいたようだ。

相手が手にしていた本をパタンと閉じ、視線がこちらに向けられたことを感じた。

不躾に顔を見るわけにもいかず、ソフィアは軽く頭を下げ、少し腰を落とした状態のまま、息を止めた。

この人の視線が自分に止まっていると思うだけで、顔が赤くなるような気がした。


「・・・見慣れない顔だね」


低く、落ち着いた聞き心地のよい声だった。

この人はこの宮殿に日ごろから出入りしている人なのだろう。

名を問われたわけではなく、名乗るべきなのか、ここに自分がいることをどう説明するべきなのか、迷い、ソフィアは短く返事した。


「お邪魔を致しまして申し訳ありません・・・」


そのあと、なんと続ければよいかわからず、黙ってしまった。

自分の目線は床に落としているけれども、相手の視線が自分の顔にじっと注がれているのは目の端でわかった。このようなときにどう振舞うのが礼儀なのか、まったくわからない。

沈黙の後、相手が静かに口を開いた。


「いや、問題ない。だが、私がここにいたことは他言しないでほしい」


ここにいては不味い事情があるのだろうか。

でも、それを咎める資格はソフィアにはない。


「は、はいっ」


声が上擦ってしまう。

お約束します、の気持ちを込めてソフィアは頭を垂れた。


「ありがとう」


そう言うと、相手は深く礼をしたソフィアに背を向け、図書の間から去った。


――― び、びっくりした―――――!


扉が完全に閉まり、足音が消えるのを確認してから、ソフィアは元の姿勢に戻り、呼吸を整えた。

まだ心臓がドキドキしていて、すぐに落ち着きそうもない。


幼いころ、夢中で読んだ物語があった。

長くて難解な言葉もたくさんでてきたけれども、そんなことも気にならないほど引き込まれ、何冊も続く本のページを夢中で捲ったものだ。


ああ、そこに描かれた魔法使いの風貌そっくりだったのだ、とソフィアは思い至った。

強い力を持つ美しき魔法使い。

試練の中でも気高さを失わず、主人公を支え、或は支えられながら、他の魅力的な登場人物とともに物語は展開した。


一番のお気に入りだった、大好きな魔法使い。

それは本の世界での初恋だったのかもしれない。


一瞬でも十分だ。

姿を重ねられる人に逢うなんて。同じ空間で言葉を交わすなんて。


この世は広いものだわ、人生は思いがけない幸せがあるものだわ、とソフィアは何年分もの福を使い切ったような心地になったのだった。


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