52. 魔王3
二人、同時に声の主の方へと振り返る。
道の方から、花畑に向かってゆっくりと歩いてくるのは、ローブを纏った高齢の女性だった。
涙が溜まった目では、その姿はぼんやりとしか見えないけれど、間違えようもない。
「ナタリー・・・」
呼びかけても見を覚まさなかった大神官。
いや、エマを知る『夢見』。
「目を・・・覚ましたの・・・」
ふふ、とナタリーは笑った。
「さすがに『冬眠』は初めての経験でしたからね、目覚めるタイミングがうまくいかなかったようです。目覚めた時に、もうお二人が地底の門に向かっていると聞いた時には、肝を冷やしました。ソフィア様は、今生でも、すぐに行動に移される方なのだわ、と懐かしくも嬉しくも思いましたけれど・・・間に合わなかったら、わたくしが『冬眠』した意味がなくなってしまいますから」
「『冬眠』って・・・」
近づくナタリーの顔を見る。
眠っていたときには分からなかった表情。いつも口端が上がっていて、温かな雰囲気を纏っているところは変わらない。
100歳にも近く、高齢なはずなのに、声は凛として、その立ち姿も弱々しさを感じさせない。
そう思ったソフィアだが、ナタリーは困ったように微笑んだ。
「私も随分と長く生きたのです、エマ様・・・そして最期の日を迎えたことを悟った時・・・貴方様にお会いせずに死ぬわけにはいかないと、この身を仮死状態で延命する術を自らに施しました」
大神官が、何か伝えたいことがあったようだと、聞いたことを思い出す。
が、そこでこの場所がナタリーにとって安全な場所ではないないことに気づく。
「ナタリー!あなた、黒い霧を吸い込んだのではないの!?」
ナタリーは大丈夫ではないはずだ。それも、高齢の体では、どこまで耐えられるか、わからない。
すぐ側まで来たナタリーに復活の力を注がなくてはと、その痩せた手を取ろうとする。
しかし、ナタリーは軽く手を上げ、その動作を止めさせた。
「もとよりあと一日の身です。エマ様・・・いえ、ソフィア様。そのお力は別に使われなければならないものですから、どうか、無駄になさいませんよう・・・」
――― 別に使う?
ナタリーは何かを知っているのだろうか。
「殿下も・・・どうかここにいてくださいませ」
ハッとしてレオを見る。
ナタリーに気を取られて、マントの裾を手放していた。その間に、レオはまた少し後ろに身を引いていた。
ナタリーにそう言われても、レオは少しずつ距離を開けようとする。
「やはり・・・殿下でしたのね。転生されたのは」
自然なようにナタリーが言うと、レオがピクリと体を止めた。
「まさか・・・・知っていたのか」
大神官だからこそ知っていたのだろうか。
しかし、ナタリーは首を左右に振った。
「いいえ。私が知っていたのは、ソフィア様が聖なるお方ということだけ。目覚めを早くするために、殿下の夢に介入したのは私です。無礼をお詫び申し上げます」
深々と、ナタリーはレオに頭を下げる。
『本当に聖なる存在なのか』と問われる夢を最近良く見るとレオは前に言っていた。
それはナタリーの仕業だったのか。
「ただ・・・最期を共にされたお二人ですから。ソフィア様と時を同じくして生まれた殿下・・・類まれなる力を持って生まれた殿下に、その可能性を考えなかったと問われれば、否、です」
「では・・・!なぜ近づけた!なぜ俺がソフィアに近づくことを阻止しなかったんだ!!」
レオが声を荒げる。
しかし、ナタリーはじっとレオを見つめる。
「殿下はソフィア様にお会いしたくなかった、と?」
怒りに震えたレオが凍るような瞳でナタリーを睨む。
「違う!!俺が記憶を取り戻して、再び聖なる存在を道連れにする虞をなぜ放置したのか・・・ソフィアを殺してしまうかもしれない危険を、なぜ冒したのかのかと、聞いているんだ!!」
しかし、ナタリーはどこまでも冷静だ。
「殿下がソフィア様を傷つけることなどないと・・・私が誓いますわ」
レオの行動をナタリーが誓うなど、おかしなこと。
でも、その予言めいた言葉に心底救われる。
レオが恐れていることなど、起こりえないのだと。
誰かに言ってほしかった。
「あなた様は、真にエマ様・・・そしてソフィスティア様を・・・誰よりも長く守り続けていらしたのですから・・・・・・」
――― ソフィスティア・・・?
聞いたことのない名前。
そのはずなのに、どこかで聞き覚えのあるような気もする。
それはレオも同じようで。
いや、むしろソフィア以上にその名前に反応し、目を見開いた。
そして、眉を顰め、額のあたりを掌でグッと抑えている。
おそらく、レオも何を思い出そうとすればするほど、頭に割られるような痛みを感じているに違いない。
「あなたは・・・一体、何を知っている・・・?」
レオが呻いた。
「どうか、落ち着いてお聞きになってくださいませ」
ナタリーが、宥めるように言う。
「私は、知っているわけではありません。ただ・・・私は『夢見』です。私は、エマ様とあなた様・・・レオンハルト様の思いを・・・あの時、一瞬共有しただけですわ」
――― レオンハルト・・・
今度は、ソフィアの体に電流が走る。
どうしてこの名前を忘れていたのだろう、という思いが沸き上がる。
でも、それが誰かが分からない。
「ナタリー・・・その名前・・・」
どうしてだろう。
「・・・レオンハルトって・・・」
その名前を口から出すだけで、こんなにも唇が震える。
何度も、呼んだ名前であることを、体が知っている。
「エマ様が再び聖なる存在に転生されたことを知った時・・・再びあなた様に試練を与えた神を恨む気持ちとともに、やはり、という気持ちも持ちました・・・すべてを忘れて、今生を生きることができたならば、それなりにお幸せだったのかもしれない・・・でも、きっとそれは、仮初の幸せでしかない・・」
ナタリーはただ、冷静に、淡々と言葉を紡ぐ。
「辛くとも、再び出会える生を神は与えたもうたのだと・・・いえ、ご自身でその生を選ばれたのだと、思いまし」
そこで言葉を切ると、ナタリーはレオとソフィアを交互に見た。
「私は、『夢見』です。その役目は、聖なる存在が生まれた場所を夢で占うことであると思っていました。エマ様が生まれ、見出された以上、私の短いお役目はもう終わったのだ、と・・・どこかで安堵し、安穏と舞台を陰から見ているに過ぎなかった・・・」
幻か、その時にふいに、目の前の凛とした佇まいの100歳近いナタリーが、二十代の穏やかで控えめで、決して前に出ようとしなかったナタリーの姿に変化した。
――― ああ、そうね・・・ナタリーは、いつもそっと、私を静かに見守ってくれる存在だった・・・
だからこそ、その後、大神官になったという話を聞いて、心底驚いたのだ。
「しかし・・・お二人の最期の瞬間に・・・お二人を同じ一つの剣が貫いた瞬間に・・・それぞれの思いが、私の中に一気に流入しました。それは、憎しみでも、悲しみでもない、安らぎにも似たものでした。なぜ、聖なる存在と魔の王が死す時に、そのような感情が生まれたのか・・・。その時、私は悟ったのです。この身が・・・この力が、役に立つべき時に・・・必ず役目を果たさねばならない、と・・・」
「役目・・・?」
ナタリーの言う役目とは何か。
「私ができることは、唯一、お二人の夢を・・・記憶を、繋ぐことです」
きっぱりとした口調。
「それが必要だと私は考えています。決して思い出したくない記憶もあるかもしれない。それでも、今のままではお二人は転生した意味を見失ってしまわれます。ソフィア様・・・レオ様・・・私が、お二人の夢を繋げることをお許しくださいますか・・・?」
その問い掛けに対し。
自分の気持ちは決まっていた。
すべてを知りたい。
自分の中にある答えのすべてを。
レオの顔を見ると、レオもゆっくりと頷いた。
このまま、どこかに行ってしまわないことに、ホッとする。
だが、いつ、どこかに行ってしまっても、不思議ではないこともわかる。
早く思い出して、レオを引き止めなくては。
レオのせいではないことを、思い出してもらいたい。
そんな焦燥感から、ナタリーに早口で告げる。
「ナタリー、お願い。私達の、記憶を繋いで・・・今すぐにでも」
ソフィアが言うと、ナタリーは深く礼をした。
「御心のままに・・・」
そして、あたりを見渡す。
「そう、時間はかかりませんが・・倒れられては危ないので、座りましょう」
ナタリーがそう言うと、レオがマントを取り、フロリアの白い花畑に敷いた。
「この上に」
ソフィアとナタリーはそのマントの上に座り、円陣を組むように座った。
「それでは、目を瞑ってくださいませ」
ナタリーの言葉に従い、二人揃って、目を閉じる。
すると、体が少しずつ温かくなり。
深い深い穴に落ちていくような感覚を覚えた。